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介護にも向き不向きがある 世の中には、本質的に介護に向いている人とそうでない人がいるように思います。それは介護の好き嫌いや上手下手、ましてや人間性の問題ではありません。大げさにいえば、生まれながらの素質とでもいうのでしょうか。それは、高齢者が痴呆症と分かった瞬間の介護者の意識の違いに表れます。「痴呆ではないか」と疑い、それが確実になったときの衝撃的な驚き、これから始まる生活への不安、なにもかもが初めての体験となる介護への自信喪失は、どの介護者にもみられる最初の動揺です。しかし、そのときに「さあ、何とかしよう」と前向きに考え行動できる人と、「困った、大変だ」とただ困惑してしまい途方に暮れる人と、2つのタイプに分かれるように思います。すなわち、前者が介護に向いている人で、後者が向いていない人といえるのかもしれません。前者は、最初の介護に対する意識のなかで「とにかくなにか対策を講じよう」とし、そこには介護への強い拒絶反応がみられません。しかし後者には、そのときすでに無意識に介護を拒絶しようとする意志が生じているのではないでしょうか。 (1)介護に向いている人 最初介護に前向きだった人が、必ずしもそのまま在宅介護を継続できるとは限りません。その介護者が不健康であったり、介護を助けてくれる信頼のおける人が側にいなかったり、また高齢者との関係がよくなかった場合は、いくら介護に向いている人でも、実際には介護への気力を失ってしまいます。しかし、このような人は、これら負の要因が存在しなければ、介護を無難にこなせる場合が多いようです。 ある介護者は、自分の両親と痴呆の義父の世話をしましたが、その人は決して専門的に老人介護を学んでいたわけでもないし、また痴呆の義父に対する介護が上手であったわけでもありません。周囲が彼女に対して同情し、またその態度を賞賛しても「私は、別に苦にならないのよ」と、彼女自身に特別なことをしているという意識がないのです。かといって、介護が好きというわけでもなく「できればこんな大変なことはしたくない」とも思っていました。このように、介護に向く向かないは、その人に備わった天性の素質によるもので、理屈ではないのかもしれません。 (2)介護に不向きな人 それならば、介護に不向きな人は決して痴呆性高齢者の在宅介護ができないのか、というと、必ずしもそうではありません。ただし、自分が不向きであると認識しているにもかかわらず、親族や世間の手前、介護に積極的であるかのような振る舞っているのかもしれません。これでは長続きしないように思います。もしかすると、このような人たちは、自分が「こんなことも、あんなことも(介護)した」とか、「こんなに努力しても、だめだった」と介護ができなくなったときの言い訳のために、最初は一生懸命に介護するのかもしれません。 介護に不向きな人でも、最初から介護を放棄する人はほとんどいません。自分に向いていない介護も「(立場上)仕方ない」と諦め、「やるしかない」と開き直り、世話を始めるのですが、内心は、「できる限り自分は(介護に)かかわりたくない」と思い続けることでしょう。しかし、そのような態度でいるほうが、かえって介護に対し強迫観念にかられることもなく、周囲に協力を頼んだり、最初からいろいろな地域の介護支援サービスを上手に利用できるのかもしれません。そのような介護者の態度は、介護負担を軽減しますし、また、もし本人が介護に疲れ「これ以上在宅介護を続けられない」と思ったとき、次の対策や事前の対応が容易にとれるといえるかもしれません。 このように、介護者のなかには、介護に向いている人と、向かない人がいますが、「自分には不向き」と感じるときは、「それならば、できる限り他の人たちに助けてもらおう」「受けられるサービスは、すべて利用して楽をしよう」と開き直ることが最良の方法です。この開き直りが「介護上手」の極意なのかもしれません。
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