老年期妄想性障害の諸相;症例検討を中心に

大原一幸(兵庫医科大学精神科神経科学講座)

 初老期・老年期には,自らが依って立っていた理念,家族環境や社会環境が揺らぎ,身体的な衰え,感覚器官の衰え,さらには自らを支えていた脳機能そのものが低下する事態が待ち構えている.無難にこの事態を乗り越える人もあるが,或る人はその変化の中で自らを病的に位置付け,また或る者は自らを失っている.ここでは初老期・老年期の妄想性障害について症例を中心に多次元的に検討する予定である.
 【物盗られ妄想】「娘に通帳を盗られた」などと訴え,後から冷蔵庫や布団の隙間から通帳が出てくる.将来の生活不安,財産を守りたい,嫁に取られたくない,などという老齢者の心理的構えや,エピソード記憶障害,生活歴(資産家であったり,苦労した人生)などが関与して出現するが,アルツハイマー型認知症(AD)では時間性と意味が断片化し,妄想はやがて消失する.妄想が持続する症例は短期記憶障害があり海馬が萎縮していてもADではない.物盗られ妄想に「いじめられている」などの迫害的要素を伴うことも多く,老人施設などで物盗られ妄想が出現した場合には同室者や看護者など特定の個人が妄想対象となり,(復権,闘争)パラノイアとなることもある.侵入妄想(あるいは人物誤認・幻覚)に基づく物盗られ妄想では,強迫的な戸締り行動などを伴うこともある.【迫害妄想・被害妄想】一人暮らしの高齢者で,「電話線に盗聴器が仕掛けられている」などと被害妄想を訴えるものの,家族との同居や入院により速やかに幻覚妄想が消失する例があり接触欠損パラノイドという.名が示すように家族あるいは社会的な孤独が重視されるが,認知機能低下も無視できない.難聴者の迫害妄想は幻聴を伴うことが多く,周囲への気遣い等の様々な要因が関与している.自験例では夫が難聴者であるために妻が被害妄想を呈した例がある.転居や独居となった後に「マンションの上の人が悪く言っている」などと訴える例では,敏感関係妄想あるいは投影性同一視の機制が心理的な不安とともに関与している.遅発パラフレニーlate paraphreniaでは幻覚を伴うこともあり,明らかな脳器質性疾患が除外された場合に診断される広範囲な老年期精神障害を包括する概念であるが,丁寧に個々の症例を検討すべきである.遅発統合失調症Spatschizophrenieとは真の統合失調症の晩発型されそのような症例に稀ならず遭遇するが,たとえ臨床症状が統合失調症と区別しえないとしても,そもそも老年期に発症していること自体により発症基盤が統合失調症とは異なっている印象である(もちろんこのような例を含めて統合失調症とする立場もあるが…).同様に退行期メランコリーや遅発緊張病という治療抵抗性疾患も,臨床的視点からは脳機能自体の退行を仮定せざるを得ない,とうのが私の立場である.【嫉妬妄想】は配偶者の性生活歴や患者本人の心的負荷のみならず,AD,パーキンソン病,レビー小体型認知症などによる誤認や幻覚に影響されていることもある.【心気妄想】【否定妄想】【替え玉妄想】【幻の同居人】【皮膚寄生虫妄想】などについても報告する.