「アルツハイマー病に関する最近の知見から」

平井俊策(群馬大学名誉教授)

 

 痴呆性疾患全体について最近の話題を考えてみると,「認知症」という行政用語が今年4月から使われ,関連する学会でもいろいろな議論はあったが行政用語と学術用語が異なるのは不便なことから,次第に学会でもこの用語が認められつつあること,非アルツハイマ−型変性痴呆が従来考えられてきた以上に多いとの報告が増えつつあるが,まだその定義,分類,診断基準などに議論が多いこと,いわゆる抗痴呆薬はまだ臨床的には初期の段階にあるが,その開発が盛んになるとともに痴呆の早期発見・治療の重要性が注目されるようになっており,その結果として mild cognitive impairment(MCI,軽度認知機能障害)という概念の定義や分類についての議論が活発になってきたことなどをあげることができよう.
 本日の主題のアルツハイマ−病(以下AD)が,現在の我が国において最も多い痴呆性疾患であることは周知のとおりであり,これについては成因・診断・治療など各方面からの活発なアプロ−チが行われている.残念ながら特に画期的な知見というべきものは最近報告されていないが,ここでは@ADとMCIの関係についての問題,AADの治療薬(抗痴呆薬)の開発の現状,B最近話題となっている脳血管障害とADの共通な危険因子の問題と,ADの予防・治療面におけるその応用への可能性などを中心に述べてみることにしたい.
 まずMCIという概念は米国のPetersenらにより1995年に提唱されたもので比較的新しいものであるが,正常高齢者とAD患者との間には知的機能の面でAD予備軍とでもいうべき境界領域状態があることは以前から知られてきたことである.たとえばKralにより既に1962年にbenign senescent forgetfulness(BSF:良性老人性健忘)というよび方が提唱されていたように,このような状態は正常老化の結果との考えが一般的であった.その後も,たとえばage-associated memory impairment(AAMI),age-associated cognitive decline(AACD)などいろいろな名称とその診断基準が提唱されてきたが,基本的な考えはBSFと同じであった.Petersenらの提唱は,このような状態がADの前駆段階であると考えた点が注目されたものと思われる.しかし,実際の基準をみてみると,病的として最初に提唱されたMCIの基準よりも,正常老化の範囲とされてきたAAMIとかAACDの方がむしろ痴呆の基準に近いなどのいろいろな問題点も多く,その後のMCIの概念もしばしば改変されており,どれをMCIの基準として採用してよいかの混乱もあり,特に当初はADの前駆状態とされてきたMCIがAD以外のどの原因疾患によるものでもよいとされるに至ってはますます混乱してきている.私自身は臨床的な基準のみでMCIと診断することにはそもそも限界があるので,これについて神経心理学的な検査だけから細かく分類をすること自体にあまり意味がなく,現在のような広い概念でMCIという用語を使う意義も少ないと考えている.このことは,ADの成り立ちを考えてみると納得できることである.すなわち現在のAβアミロイドカスケ−ド仮説によれば,かなり以前から老人斑がまず形成され,次いで神経原線維変化が形成され,それがある程度進行した後にamnestic MCIと現在よばれている状態を呈するものと考えられるからである.すなわちMCIとよばれる状態はADの病理学的経過からいえばかなり進んだ段階であり,この段階で多少の臨床所見の程度を議論しても無意味だからである.要は各原因疾患別に痴呆の方向に向かう状態をできるだけ早期に発見する方法を考えることにあると思われ,これには画像診断や診断マ−カ−を活用して総合的に行うことが必要と思われるのである.
 ところでADの治療薬には,その中核症状の治療のための抗痴呆薬と,周辺症状(いわゆるBPSD)の治療薬があるが,ここでは前者についてその現状を簡単に述べる.我が国ではアセチルコリンエステラ−ゼ阻害薬(AChE-I)のドネペジル(アリセプト)のみが承認されているが,欧米ではさらにガランタミン,リバスチグミンなどいくつかの薬が承認されている.これらはAChEIであるが,メマンチンのようなNMDA阻害薬も承認されている.その他,抗炎症薬なども注目されており,次に述べるように降コレステロ−ル薬,なかでもスタチン系薬の効果にも期待が持たれているなどいろいろな薬が試みられつつある.また小胞体ストレスという立場からのアプロ−チもある.しかし,ADの進行を抑制できる根本的な薬はまだ見つかっておらず,この種の薬を求めていわゆるAβアミロイドカスケ−ド仮説からの検討も行われている.やや違った方向からのアプロ−チとして動物モデルによる実験の結果からAβワクチンの効果が期待されたが,ヒトを対象とした注射ワクチンによる方法は髄膜脳炎の副作用を起こしたために中止され,現在は我が国における経口ワクチンのヒトへの治験待ちの状態である.
 ところで近年脳血管障害の危険因子である高血圧,糖尿病,高脂血症などがADの危険因子にもなり得るとの報告が増えつつあり,これをADの予防や治療にも応用できないかとの検討も活発に行われている.虚血があるとAβの毒性が促進され,それを両過程に関連する炎症機序が仲介しているとか,虚血によってAβの前駆物質であるAβアミロイド前駆体蛋白(Aβamyloid precursor protein : APP)が増加するなどの報告もあるが,その機序はまだ不明な点が多い.脳血管障害とADの危険因子が共通しているとの報告の多くは疫学的研究によるものなので,果たして純粋なADにもこれが当
てはまるのか,それとも疫学で診断されるADの多くは脳血管障害をも合併しているので,それが影響しているのではないかと疑う向きもある.しかし,これらの危険因子のうちコレステロ−ルの影響については,これが動脈硬化を引き起こす機序とは異なる機序で関連しているとの報告がある.すなわち細胞内でAβが生成される場がリピドラフト(lipidraft)という場所であって,コレステロ−ル代謝とAβ代謝とがここで密接に関連しているとの考えである.In vitro の実験結果ではAPPからAβが生成される過程で大切な役割を果たす酵素の働きがコレステロ-ル降下薬でAβの生成を抑制する方向に働くことが明らかにされており,また疫学的研究からはコレステロ−ル降下薬,特にスタチン系薬剤の使用者からADの発症が少なかったとの報告もあり,少なくともこれら危険因子のうちコレステロ−ル代謝とADとの間には密接な関連があると考える研究者が多い.しかし,降コレステロ−ル薬でも種類により作用が異なるとの指摘もあり,スタチン系薬剤のみに限ってもこれをADの発症予防に使えるか否かについてはまだ検討すべき問題も多く残されている.
 以上,それほどepoch-makingな知見とは言い難いが,最近の話題の中から以上の3つを取り上げて総説的にまとめてお話しする予定である.