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福島県南相馬地区の精神医療事情

神戸学院大学総合リハビリテーション学部,東日本大震災対策委員会
委員長 前田 潔

平成24年5月の中旬に福島県南相馬市にある金森和心会 雲雀ヶ丘病院の支援のため南相馬市を訪れ,雲雀ヶ丘病院の診療支援を行い,震災から1年2か月が経過した,今なお原発災害に苦しんでいる現地の精神医療状況を経験したので報告する.雲雀ヶ丘病院の診療支援は雲雀ヶ丘病院から日本老年精神医学会に要請があったもので,東日本大震災対策委員会が受理し,学会が支援医師を募っていたものである.
福島県の太平洋側は浜通りと呼ばれている.浜通りは南に位置するいわきと北に位置する相双地域の2つの地域が存在する.相双地域には南相馬市をはじめ,東京電力福島第一原子力発電所の地元ともいえる大熊町,双葉町などが含まれ,人口は震災前でほぼ19万人である.
相双地区には震災前に5つの精神科病院があったが,原発事故により5病院の入院患者710人が避難を余儀なくされ,900床が稼働しなくなった.警戒区域(20 km圏内)にある3病院はいまだ再開の見通しが立っていない.相双地区の精神医療は一度は崩壊したのである.福島第一原発の南,広野町の高野病院が数十床を稼働させ入院患者を受け入れている.雲雀ヶ丘病院は南相馬市原町区にあって厚生労働省の要請もあり,採算性を無視して平成23年6月に外来を,24年1月より急性期病棟60床の入院診療を再開させた.この地区には精神科を標榜する総合病院はない.精神科診療所は3か所あり,すべて外来診療を行っており,相双地域の精神医療はこれがすべてである.
大熊町,双葉町はいまだに放射線の空間線量が高いが南相馬市(原町区)は福島第一原発から20~30 kmにあり,昨年9月までは緊急時避難準備区域であったが,それ以後解除されている.新幹線福島駅から南相馬市までは福島交通の高速バスを利用したが,途中阿武隈山地を横断する.川俣町,飯舘村はそれぞれ一部あるいは全村避難地域となっており,バスから見る風景は,行き交う車こそ多いが,人影を見ることも,明かりの灯る民家を見ることもなかった.5月の山並みは新緑に萌えており,のどかなバス旅行気分であったが,田畑は耕作放棄を余儀なくされ,雑草の生えるに任せる状態であった.筆者は10数年前に阪神・淡路大震災を経験した.地震の規模は阪神・淡路はマグニチュード7.2であり,規模も違えば,阪神・淡路では津波も原発災害もなかった.
平成24年5月の南相馬市における人口はおよそ44,300人で,震災前には約71,500人を数えた.震災による死者は926人,被災家屋は全家屋の約15%に当たる3,700棟である.市外へは今なお20,000人が避難しており,住民票を移して転出したものは5,000人に上っている.仮設住宅等の入居世帯数は7,400世帯で,民間借り上げ住宅に4,600世帯,仮設住宅に2,800世帯となっている.平成23年9月30日に緊急時避難準備区域が解除され,住民が避難先から帰還しつつある.ただし子どものいる世帯は放射線の影響を恐れて戻ってこない傾向がある.南相馬市では震災前,高齢化率は26%であったが,震災後は30~32%と上昇しており,若い住民が戻ってきていないことを示している.若い住民が戻ってきていないことにより看護師をはじめとする医療職が不足し,そのために医療機関や介護施設が再開できない,あるいは一部しか再開できないという原因にもなっている.
南相馬市は原発事故を受けて3月12日に市域のほぼ1/4が警戒区域(20 km圏内),半分が30 km圏内の計画的避難区域および緊急時避難準備区域に設定された.その後3月15日から25日にかけてバスによる集団避難がなされ3月26日ごろには残留した市民は1万人程度となった.集団避難した市民は遠く群馬県,新潟県にまで避難することとなった.
図1
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阪神・淡路大震災のときには自分の住まいに住めなくなった被災者は避難所に避難し,仮設住宅の完成を待って,仮設住宅に移っている.今回の震災で原発の影響で避難した人々は,被災地域が広いことや原発事故の影響などもあって何度も,遠く離れた避難先を転々としなければならなかった.これは体力のない高齢者や環境への適応力が落ちた高齢者にとっては過酷なことであったにちがいない.
地区の医療に関しては震災以後外来診療のみであったが,9月の緊急時避難準備区域解除のあと,入院対応が再開されつつあるが,いまだ病床の2~3割しか稼働していない状況である.介護施設に関してはほぼ2割の施設が今も休止中でこれには職員不足が影響しているものと考えられた.職員数は震災前に比べて15~20%が不足している.
今回仮設住宅が建設されている地域をみてみたが,10数年前の阪神・淡路大震災のときとは比較にならないくらい立派な仮設住宅が建っていた(図1).東北は神戸と異なり寒冷な気候であるから,仮設住宅は寒さ対策が進んでいるのかもしれない.仮設住宅団地のなかの道路は舗装もされていたし(図2),集会所も住民が集える「サロン」も整備され,南相馬だけでも13人の「生活支援相談員」が仮設住宅を巡回しているということであった.この生活支援相談員は国が特別に予算措置を講じて実現したものである.それでも2,800の仮設住宅に対し13人の相談員では目の届かない点がでてくるであろう.仮設の住民はまだ行政のアクセスが容易であるが,自宅に残っている被災者や,民間借り上げ住宅に入居している被災者へのアクセスは容易ではないとのことであった.
阪神・淡路のときと異なり,比較的市街地の近くに仮設住宅が建設されていた.今回仮設住宅団地に店舗が開設され,メディアでも報道されたが,住民の利便性も高くなった.残る問題は医療機関の受診で,これには車が必要であるが,一部の医療機関では仮設住宅団地にシャトルバスを運行させている(図3).
阪神・淡路大震災のときの経験からいわれてきたことであるが,高齢者はなじみの生活環境から切り離されると容易に体調を崩し,メンタルな問題が出現する.またこれらの問題も元の環境に戻ることができれば比較的容易に回復する.今回の震災でもそのような事例が多くあったということである.これは,今後高齢避難者の処置を考えるうえで重要なことである.
図1
今回は,放射線汚染のため農作業ができなくなった住民は,目の前に田畑があって,見た目は何ら以前と変わらないにもかかわらず耕作できず,雑草の生い茂るに任せるしかなかった.することのなくなった高齢者はしだいに閉じこもるようになり,一部は飲酒量が増え,健康を害する結果となっているという.あるいはパチンコ店に入り浸るというような現象もみられる.仮設住宅での高齢化率は40%になっている.
南相馬でテレビを見ていると,ちょうど原町第一小学校で2年ぶりの運動会の様子が放送されていた.小学生たちは屈託なく運動会を楽しんでおり,震災や原発事故の影はまったく感じさせないものであった.子どもたちのはしゃぐ様子を見ていると,人々は過酷な運命であっても必ずこの地で生活を再建するだろうと思わせた.
雲雀ヶ丘病院では週末の当直のお手伝いをしたが,前福島県立医科大学神経精神医学講座教授の丹羽真一先生も診療支援として雲雀ヶ丘病院で当直していることを知った.そのことを聞いて丹羽先生の地域精神医療に対する思いの強さを思い,何ともいえず力づけられた気がした.彼にとっては20年ぶりの当直で,さっそく措置診察をしたことを当直簿で知った.筆者も雲雀ヶ丘病院で当直をしたが,私にとっても15年ぶりの当直であった.
その後,日本老年精神医学会の呼びかけに呼応して何人かの会員から支援の申し入れがあり,月1回程度の週末の当直が学会員によって行われている.診療支援は今後も長期にわたって必要とされている.学会員の協力が待たれている.
参考文献
1)東日本大震災,福島県南相馬市の状況(平成24年5月10日).南相馬市復興企画部(2012).
2)熊倉徹雄:福精協からの復興にむけた課題と提案.精神科医療と東日本大震災・原発事故シンポジウム記録集,福島県精神科病院協会(2012).
3)南相馬市発行介護施設の開設状況.平成24年5月14日現在.
4)南相馬市ホームページ:http://www.city.minamisoma.lg.jp/shinsai2/sinaijokyo/(アクセス日 2012年5月17日)
5)南相馬市指定居宅介護支援事業者一覧.平成24年5月14日発行.
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