2017/4 老年精神医学雑誌Vol.28 No.4
地域での高齢者支援に活かされる互助のこころとは!;上越市の地域支え合い事業に協力して
川室 優
川室記念病院,高田西城病院

 今日の超複雑化社会において,地域における良好な人間関係は大きな力を生み,その力の活かし方次第で,地域が活性化されることは当然と考えられます.その関係性の良し悪しは別として,人と人とのかかわりは人間が生き,生かされるなかでとても重要なことです.
 地域も一つのグループとしてとらえるならば,私のライフワークの“グループの形成と力動”は大切な要素であり,住民1人ひとりの力の結びつきがグループ力となります.私の尊敬しているヤーロム博士の教えでは,対人関係性の重要要因は「信頼=trust」であると指摘しています.対人関係ではグループ内の強い信頼力が,互いに“触れ合い,感じ合い,分かち合う”ことで“助け合いのこころ”を生み出し,それが「互助のこころ」の基礎となります.グループワークやグループセラピーでは,グループが社会の縮図として治療効果を上げますが,地域でも,人と人が互いにかかわることで同様の成果があります.地域住民が主体的に,自発的にかかわることで,よりよい効果的な互助力が生じます.国が政策的に提唱している「介護予防,日常生活支援総合事業の基本的な考え方」(厚生労働省老健局施策資料)でも,この力を活用することを重視しています.
 日々,高齢者のために地域の精神科医療福祉に取り組んでいる私は,高田西城病院設置の新潟県認知症疾患医療センターを中心に,上越市の地域包括ケアシステム構築に協力しています.2015(平成27)年4月の介護保険制度改正で,全国統一の制度から,地域の実態に合った取組みへ方針転換となったことは周知のとおりです.同年4月より,上越市でも,市町村が実施すべき地域支援事業として次の5つの事業を開始しました.@新総合事業:要支援1,2の人の訪問型・通所型サービスを地域の実情に合わせた事業とする,A地域の支援体制事業:地域における助け合い事業展開の取組み・仕組みづくり,B在宅医療・介護連携推進事業,C地域ケア会議の開催,D認知症初期集中支援チームの設置であります.これらの事業は,地域包括ケアシステムの理念である“高齢になっても住み慣れた上越市で暮らす”ことの実現のために,@高齢者が地域で支え合う体制,A介護予防(生活習慣病の重症化予防)の認識の強化,B認知症高齢者の安心・安全な生活,C医療・介護・住まいなどの充実した環境という4つの仕組みづくりの作業が進められています.
 私どもは,上越市新総合事業「上越市の実態に合った新たなサービス」提供の28区地域支え合い事業のひとつとして“すこやかサロン諏訪”を担当しています.全国各地で類似した事業がありますが,そのなかでも上越市の特徴は,「住民の力」を活用する点です.初年度は行政が援助し,住民のなかから“生活支援コーディネーター”を養成し,地区ごとに協議体メンバー(町内会長,民生委員,ボランティア組織,商工会,介護保険事業所,社会福祉協議会,行政等)による協力者を構成し,地域の支え合い体制では協議体会議をもちます.その内容は“高齢者が気軽に集い,交流をもつことで閉じこもりを予防し,心身の機能の低下を予防する”ための「すこやかサロン」や,生活習慣病の重症化を予防するための「介護予防教室」,そして「家族の集い(認知症カフェなど)」が実施されます.具体的なプログラムは各28区に特徴があり,たとえば,中学生の総合学習の一環で敬老会の企画が盛り込まれたり,時に中学生の歌や踊りが披露されることもあります. “すこやかサロン諏訪”では,地区にある川室記念病院のスタッフが自発的に認知症予防教室に参加し,主体的な話し合い形式(グループワーク)で“地域でどのように支え合うことができるか”を援助し,“互いに支え合い助け合うこころ”を根づかせていきました.
 一般的に助け合いとは公的機関の援助(公助),自発的に生活課題を解決する力(自助)や制度化された相互扶助(共助)の3つが強調されてきました.しかし地域包括ケアシステムではさらに地域で互いに助け合って解決し合う力,すなわち「互助のこころ」が重要となるのです.地域では住民が主体的・自発的に力を発揮し,その互助力が高齢者の地域生活を豊かにして健康な生活を構築するものです.今,総合的な助けとして,この4つの助け合う「こころ」が住民には最も必要です.
 今後,上越市で積極的に取り組んでいる「地域支え合い事業」のように,“元気老人”の互助力のある生活が地域をより活性化し,それがさらなる力を生むことになるのではないでしょうか.私どもは,このサロンに参加されるお1人おひとりが,自分のこと,自分の力を自覚・認識していただくため,地域連携ノート「にっこり手帳」を持っていただいています.その手帳を,まるで自分の分身であるように,ご利用いただいている姿を見かけると,作成発案者の私にとっては望外の喜びです.同時に,その気持ちが地域のなかで援助する力になり,地域住民と私との互助力にもなっています.この地域の互助力を大切に,日々,医療・福祉に協力できることを念じ,日本の充実した超高齢地域社会形成の構築を祈りたいと思います.

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2017/3 老年精神医学雑誌Vol.28 No.3
高次脳機能障害の“高次”とは
鹿島晴雄
国際医療福祉大学大学院,木野崎病院

 高次脳機能障害という用語は,脳損傷による記憶障害,注意障害,遂行機能障害,社会的行動障害を指す行政用語として導入され,現在,定着しよく使われるようになっているが,“高次”とはなにを意味するかは必ずしも明確ではないように思える.神経心理学の領域では,巣症状を含むより広い認知機能障害を指す高次皮質機能障害という用語はあったが(Luria AR : Higher Cortical Functions in Man. Basic Books, New York, 1966),高次脳機能障害という表現は用いられてこなかった.ここでは,高次脳機能障害を行政用語としてではなく,神経心理学的障害という意味でより広くとらえて考えてみたい.
 私は,高次脳機能や高次脳機能障害における“高次”とは,“意味にかかわる”ことと考える.たとえば,発声や構音は意味にかかわらないが,発語は意味にかかわる機能である.運動は意味にかかわらないが,パントマイムや道具を使うことは行為であり意味にかかわるものである.視覚や聴覚は感覚であるが,それらを介して知覚すること,すなわち視知覚や聴知覚は意味にかかわる機能である.意味にかかわるこれらの機能の障害は高次脳機能障害といえ,従来より失語,失行,失認と呼ばれてきた.また記憶,随意的注意,遂行機能の障害など,いずれも意味にかかわる脳機能の障害であり,高次脳機能障害である.また,ここでは意味にかかわらない脳機能を要素的脳機能と呼んでおく.
 高次脳機能障害と要素的脳機能障害は2つの点で相違がある.第1は脳の損傷局在の厳密さである.要素的脳機能障害では症状と脳損傷の関係は厳密である.たとえば,交代性片麻痺では脳損傷部位の個人差はほとんどないであろう.要素的脳機能障害の診断において脳画像検査が重視される所以である.他方,高次脳機能障害においては脳損傷局在の厳密さは要素的脳機能障害に比べてそれほどではない.たとえば,同程度の症状を示す右利き運動失語の脳画像での脳損傷部位は,左側前頭葉下部を中心として,かなり小さい損傷からより大きな損傷まで個人差がある.このことは大きな損傷で症状が出現している例では,より小さな損傷では症状が出現しなかった可能性を示唆している.失語の診断において,脳画像検査は有用な手段であるが,より重要なのは症状の把握であるといえる.他の高次脳機能障害においても同様であり,高次脳機能障害の診断においては脳画像検査は有用であるものの,症状の個別的,臨床的把握がより大切であること,すなわち,高次脳機能障害の診断における神経心理学的ないし精神医学的アプローチの重要性を指摘しておきたい.
 第2の相違は症状の一貫性である.要素的脳機能障害では,たとえば運動麻痺は状況にかかわらず常に認められ症状の一貫性がある.しかし,高次脳機能障害ではそうではない.失行を例にとると,外来診察室において歯ブラシで歯を磨く真似をすることは困難であっても,自宅の洗面所で朝,自分の歯ブラシで歯を磨くことは,スムーズではないとしてもできることがある.また失語症では,診察室で「ご飯が食べたい」と言うことが困難であっても,空腹時にはスムーズではないにしてもそれを言いうることがある.高次脳機能障害では要素的脳機能障害のような症状の一貫性はない.しかしながら,できない状況とある程度できる状況には,法則性があるように思える.外来診察室で歯を磨く真似をしたり,「ご飯が食べたい」と言えなくても,磨くべきときに歯を磨いたり,空腹時に「ご飯が食べたい」と言うことはある程度できるのである.これは従来よりBaillarger-Jacksonの原理といわれてきたもので,前者は抽象的な状況,後者は具体的な状況といえ,その間で差異があるということである. 高次脳機能障害の症状は,抽象的状況で出現しやすく具体的状況ではそうでもない.症状の出現は状況に依存する.このことは,高次脳機能障害の診断において状況や文脈を考慮することの大切さを意味している.
 脳損傷局在と症状の一貫性という点で,意味にかかわる高次脳機能障害と要素的脳機能障害で相違があるのはなぜか.私はこれらの相違は高次脳機能障害が意味にかかわる機能である故と考える.脳損傷の局在に個人差があるのは,“猫”という言葉を例にとると,“猫”という言葉はその人のそれまでの経験や体験と関連して頭に貯えられており,より猫に関する体験,とくに情動的なそれをもつ人と,そうでない人では,同じ“猫”という言葉でも頭のなかでの貯蔵の状況は異なると考えられるからである.関連した体験の多い人はそうでない人と比べて,“猫”という言葉に関する手かがりはより多く,より失われにくいであろうと考えられる.また抽象的状況でより症状が出現しやすいことも,意味と関連している.空腹時にはそれほどの困難がなく「ご飯が食べたい」と言いうるのに診察室では困難であること,つまり具象的状況では言えても抽象的な状況では言い得ないという現象は,意味にかかわる本質的な障害と考えられる.言葉とは意味を担う記号である. 記号とは,実際にそのものがなくともそれを表せるから,つまり抽象的な状況でそれを表せるから記号なのであり,抽象的な状況で言い得ないということは,意味を担う記号としての本質的な障害といえる.
 このように高次脳機能障害は,脳損傷の局在において個人差があり必ずしも脳画像だけでは完全には評価しきれず,また症状の出現は状況依存的であり,症状の診断や評価には状況を考慮することが必要となる.これらのことは,高次脳機能障害の診断,評価には個別的かつ精神医学的なアプローチが必要であることを意味していると考える.

 本稿は,拙稿「高次脳機能障害」精神経誌第117巻第8号:663-668(2015)に準拠したものであることをお断りしておく.

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2017/2 老年精神医学雑誌Vol.28 No.2
華やかな世界の中心ではなく,貧しい社会の周縁にこそ
寺田整司
岡山大学大学院医歯薬学総合研究科精神神経病態学

 経済とか財政は,非常に重要な領域であり,それを無視して生きていくことは,自分のような凡人には困難であるが,昨今の金融偏重の社会には,さすがに非常な違和感を覚える.「日経平均が上がった,下がった」などという話題が新聞の一面を飾るようになったのは,いつごろからだろうか.昭和と平成を比較すると,まさに隔世を感じる.日々,日経平均や円相場の乱高下に一喜一憂するお金持ちは少なくないが,少なからぬお年寄りがアパートの一室で,毎日のように孤独死していることを気にする富豪はまれであろう.
 弱者に対する優しい言葉が,とくに選挙前の日本には,氾濫するほど溢れている.が,実際の行動で優しさを示している者がどれだけいるのだろうか.莫大な資産や財産を有する者は,さまざまなテクニックを駆使して,払うべき少額の税さえ合法的に逃れ,ますます貧富の差は拡大しつつある.良心の呵責なく従業員を酷使・解雇し,短期的な業績を向上させた人間が,優れた経営者と褒めたたえられる.まちがった場面で,自己責任という言葉が使われているように感じるのは自分だけであろうか.実際には独裁国家であった共産主義国の崩壊とともに,資本主義が露骨にその牙を剥いて,日本の社会を蝕みつつある.
 不採算部門を売却したり,職員を解雇することで黒字化を図ることは,少しだけ頭がよくて情けを知らない人間であれば,だれにでもできる.しかし,本当の意味で組織を再生させ,働く人々の姿勢を変え,やる気を引き出そうとするときには,上に立つ者自身のあり方が問われよう.口先で甘言を弄することは容易だが,自らの財産を切り崩してまで社会に貢献している資産家がどれだけいるのだろうか.
 介護・看護・医療は,障害や病気を抱え苦しむ人々とともにある.そのなかでも,老年精神医学や認知症学は,病や老いを抱えた高齢の人々,経済効率だけからいえば,まさに社会から切り捨てられつつある弱者の人々とともに歩んでいくべき領域である.しかし,残念ながら,そうした医学や医療,介護の現場にも,お金の話は否応なく入り込んでくる.経済効率や費用対効果などという言葉が使われることも少なくない.しかし,いったいだれのための効率なのだろうか.社会は本来,矛盾を抱えたものであるとはいえ,やりきれないような気持ちになる日も少なくない.
 介護・看護という,経済的には恵まれることの少ない厳しい現場で,黙々と,しかも笑顔を絶やさず働いておられる多くの方々がおられることも事実である.社会にとって重要なことは,ごく少数の人間が巨万の富を築くことではなく,多くの普通の人々が充実した生活を送ることであろう.華やかな世界や会議の中心でスポットライトを浴びている人や出来事に目を向けることは容易だが,周辺の暗闇のなかでもがいている人々の哀しみや苦しさに気づくことはむずかしい.中央ではなく周縁にこそ,真実は隠れている.分断ではなく統合が,排除ではなく包摂が,日本の社会の目指すべき目標であろう.昨今,わが国において,短絡的で排外的なナショナリズムの嵐が沸き起こりつつあること,弱者や少数者へのヘイトスピーチが事実上,野放しになっていることなど,本当に心が痛む.また逆に,「患者様」などという空疎な虚言が,医療現場で飛び交っていることを深く悲しむ.そして,社会のあり方自体が大きく変容していることを痛感する.
 巧言令色,鮮し仁.まずもって,このような綺麗事を書き連ねている者自身が,身を正さなければならないのであろう.少しでもよい方向に進んでいくことを信じつつ,同じ想いをもつ人々とともに,微力を尽くしたい……と思うのだが,生来が怠け者の質であり,ついついやすきに流されている毎日である…….日本の社会に,真の連帯が生まれることを祈りつつ,筆を擱く.

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2017/1 老年精神医学雑誌Vol.28 No.1
人心の劣化を憂う
堀口 淳
島根大学医学部精神医学講座

 この『老年精神医学雑誌』で,2回目の巻頭言を書いている自分は,「さあどうだ,初回のころより少しは成長しているか」,と気になってしまうので,前のものは読まないことにした.本誌とともに,自分もだいぶ老けてきた.時代もずいぶん変貌した.高邁な話ではない.俗世間の変容への嘆きである.
 山手線でもメトロでも,手鏡片手にお色直しのお姉様方が登場したころ,あのころにはたしかまだ「携帯電話」「スマートフォン」の類いはなかったのではないか.いまではこの女性陣,中学生たちさえも混じり合っての大忙しである.お色直しにスマホいじり,ペットボトルにドーナッツ,カラコロカラコロ缶ジュースが電車の床を徘徊する.こんな携帯おしゃべりに,不自然感じぬ同乗者たち.どっこい,田舎の年寄りも,携帯だって負けていない.温泉湯船に持ち込んで,ドイツかパプアかわからぬほど,方言混じりの大声で,「ニャー,ギャー」「ギャー,ニャー」やかましい.
 他国の話に転ずれば,超大国や隣国のリーダーたちの人格低下も目に余る.リーダー候補者の選挙戦,相手候補のバッシング,あの情けない低次元さ.この低品格のありさまを,聞いて歓喜の国民たち.あの低級性にも虚しささえ,湧いてくるくる,もう勘弁してほしい.さてもかような色彩は,他国だけではないのである.
 どこかの国の,来日客たちのマナーの悪さを非難できるのか,わたしたちは?「赤信号,みんなで渡れば怖くない」的気質,これ日本人の大特徴である.自分一人「かっこよく目立つ」のも嫌,さりとて再び自分一人「かっこ悪く目立つ」のも嫌だから,中間,平均,真ん中でいたがる.そう,「平均的多数の一人である自分」「中間層の一人」でありたがる.ここらにいれば落ち着くし,目立たずにすむ,と勘違いしている.この残念な対人緊張病的指向性が,随所で大問題を誘発する.なぜなら昨今の,身近な小集団から,大集団たるわれらが日本丸まで,何だかおかしいし,妙だし,不自然だし,不安定だし,とうてい好きになれないので,悔しいし,寂しいし,情けない.そんなふうに思考し,そんな「変異」を嘆くどころか,「自分だけは変性してないはずだ」といった,やや妄想的な色彩の濃い念慮を抱き,結果的には「変異集団」を侮蔑どころか,排他し逃避的にすらなっていそうな,そんな自分がおかしい.「平均的」でも,「非平均的」でも,それはどっちでもよいとも思うのだが,「自分はまともだ」との迷妄が抱きにくくなった時代である.
 つい10年ほど前までの「まともな平均的」が,近頃どんどん退行変性し,低脳化も進行し,人間の脳髄も変容し,人心は劣化の一途をたどっている.そら恐ろしい認知能力の低下である.最も大切な情動認知力が脆弱となり,他者排他的で自己の社会認知さえ劣悪化し,周囲にお構いなしの言動が蔓延してきた.そう,この「平均的多数」はbio-psycho-socio-ethicalに,見事に顕著に変異した.他者への配慮お構いなしの平均集団が闊歩を始めた.すなわち人間の前頭葉・側頭葉は,確実に機能失調した.器質的変化さえ疑いたい始末である.再びの恐怖社会の到来である.
 老若男女を問わず,同様である.あっちもこっちも,おかしくなった.介護は嫁の務めだと,髪振り乱してファイトする嫁も実娘も減りに減った.「年寄りを尊重しなさい」「親を大切に」などの普遍的道徳感情が通じるはずもない.嫁や娘の「平均」が劣化しているので,「いまさらそんな」の風潮である.かたや「いまどきの若い者は」が口癖の老人は,自分もおかしくなっているのだから,「尊敬,尊重」されるはずもない.
 さて先日の外来診察の血圧測定中に携帯が鳴った.この78歳のおじいさん,「先生,ちょっと」と携帯を,胸ポケットから血圧測定マンシェット付き腕で取り出して,「もしもし,あのなあ,はあはあ,そうやな……」などとやり出した.こんな不躾,ぶざまは,中年おばさんでもしょっちゅうである.「すみませぇ〜ん」などと言って,鳴った携帯に出るのである.鳴ってもいない携帯を自分からかけ始めることさえあり,話し始めるのである,診察室で,である.はてはええいついでにとばかり,義母の診察に同伴した中年嫁は,「はい先生」と言って残薬入りの薬袋をこちらに預け,「余った分,もったいないからね,次の回に加えてね,先生.必要日数分だけにしてくださいねぇ〜!」などとも言って,残数もこちらに数えさせようとするのである.これらの無礼が,少しずつ日常茶飯事となってきた.患者の質も,家族の気質も劣化した.人心は劣化の一途である.
 病院内の廊下や,外来待合席前の患者さんやいろいろでごった返すなか,左手にパン,右手に缶ジュースを持って,むしゃむしゃむしゃむしゃ,平気で「周徊」する研修医もいる.失見当識もなく,意識障害もなさそうであるから,やはり,「公衆の面前」といった「場」の認知の障害である.この「場」の意味を認知機能に照合すれば,「こんな場所では,こんなことしてはいけない」,なぜなら「周囲の人が不快に思う」(情動認知)し,第1「自分は大人(医師)である」うえに「患者さんに尽くす立場」(社会認知)なので,といった認知の障害が垣間見られることになる.マナー云々をはるかに超えた高次脳機能のなかの道徳心の障害である.前頭葉機能障害である.すでにこの底辺には神経認知の機能不全さえ感じられるのである.
 ついさきほど,同門の教え子が教授室にやってきた.院長に昇進したばかりでもあって,張り切っていた.人手不足だそうである.彼は嘆いていた.「精神科医は夕方5時帰りが当たり前なのです,先生.たとえ目の前で自分の入院患者がたいへんな状態であっても,帰るのです.あとお願いしま〜す,当直の先生ねえ,とか言ってですよ,先生.医者が,ですよ,先生」.サラリーマン医師たちが量産されてしまっているのである,全国で.この現象は私のような教育する立場にある者の責任でもあろうが,こんな輩にやれ契約だの,医師の人権だのを持ち出されると,閉口せざるを得ない.そんな実情が存在する苦しさ,そう,医師不足をよいことに.しかし……ねえ!……みなさん.
 認知症患者さんたちのBPSD的症状をただちにBPSDと決めつけてはいけない.ましてやBPSD症状もどきが,なかなか治らないと嘆く必要もない.本当にBPSDか否かの見極めはなかなか困難である.不幸にして認知症に罹患した患者さんの発症前の人柄や癖,指向性などを十分に理解して判断すべきである.病前から存在していた「変異」言動にすぎない場合が,いまや想像以上に多いのかもしれない.ここにおいても,生活史の詳細な把握が重要となるのであろう.

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