2017/12 老年精神医学雑誌Vol.28 No.12
認知症・栄養・血管・細菌のミッシングリンク
小澤寛樹
長崎大学大学院医歯薬学総合研究科精神神経科学

 ドイツ留学中に,ある年配の教授から糖尿病とアルツハイマー病には関連性があり,「脳の糖尿病がアルツハイマー病」ということを言われ,少し研究を手伝った経験がある.当時はまだ疫学的な背景も曖昧で,真実味はあまりピンときていなかったが,脳におけるグルコース代謝は重要であるのでアルツハイマー病に何らかの影響や関連性があることは推察できた.そこで脳室内にストレプトゾトシン(STZ)を注射して,脳情報伝達系の影響を調べてみた.結局論文の執筆には至らなかったが,インスリン様成長因子(IGF)伝達系の変化が認められたため,そこからどのように展開していくのかは気になっていた.その後,久山町研究を中心に耐糖能の異常が認知症に関連することが注目され,20年の年月をかけて糖尿病とアルツハイマー病との関連性が現実の話になってきている.
 また,別のエピソードであるが,これも留学中,たまたま長期出張に来られていた日本人の学者が私の部屋を訪れてくれて,精神疾患がエゴマ油(オメガ3脂肪酸)で改善する可能性があるかについて質問してこられた.そのころはドーパミン受容体関連の薬物療法が主体の時代であったので,そういった論文を見つけては斬新な視点があるものだと感心していた.そしてその後,いずれの見解もこの数十年で非常に注目される問題に発展してきている.
 加えて,別の機会にアメリカの病院を見学中,腸内細菌と精神神経疾患に対する乳製品の有用性を力説されていた内科クリニックの医師の話を伺うことができた.そのときに,脳梗塞のみでなく,高血圧,脂質代謝異常といった生活習慣病も認知症の危険因子となり,その予防が重要な役割をもつ可能性も提示されていた.これらの研究は,食物と脳機能関係の先駆け的な観点を有し,生活習慣の改善が認知症の予防に直結することを示すデータが数多く出されている.
 ところで,血糖を上げるホルモンは数種類あるが,下げるホルモンはインスリンが主体である.このインスリンに対する反応の抵抗,減弱が糖尿病の原因といわれている.進化学的に,人類を取り巻く環境は飢餓から飽食の時代になったが,もともと飢餓に強い形質は,血糖が低下した条件で適応的であるといえる.つまり,このような体質の人々が高血糖の影響を直接受けやすく,血管を痛めやすい.過剰な糖はさまざまな血管に傷をつける.血液脳関門(BBB)の重要な構成要素でもある血管内皮細胞にも影響を与える.おそらく,ある種の神経変性因子も脆弱したBBB機能では脳内に入りやすく,結果として細胞が死滅しやすくなる.このように,神経,血管,栄養(食物)が疫学レベル,細胞レベルで密接に連携しており,神経血管栄養学といった学問分野の今後の発展を想像させる.
 近年BBBは内在性神経幹細胞と連携して機能的な神経血管ユニットを形成し,神経・グリア系と相互作用があることが指摘されている.そこで,筆者らは初代培養脳毛細血管内皮細胞においてcAMP増強薬(ホスホジエステラーゼ〈PDE〉阻害薬)にBBB保護機能があることを報告した.その後,この系統の薬剤が認知症の進行を予防するという報告もなされている.これらのことは,脳内情報伝達系の機能異常が神経血管ユニットの機能破綻と密接に関与していることを示唆しており,内在性神経幹細胞と神経血管ユニットに影響を与える既存の治療薬をドラックリポジションの視点から検討することも今後期待がもてる.

 以上のように,まるでダイエットの変遷かのように各研究分野にも流行があるが,人の認知機能と食物栄養・血液の流れ・腸内細菌叢の未知なる関連性が認知症解明のブレイクスルーにつながる期待を抱かせる.
 今後,老年医学分野で本質的な研究分野が何であるのかを注意深く,慎重に考察する必要がある.

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2017/11 老年精神医学雑誌Vol.28 No.11
分子神経症候学の視点から
吉山容正
稲毛神経内科・メモリークリニック

 近年の認知症を含めた神経変性疾患の病態解明の進展は分子生物学的手法の確立が大きな役割を果たしている.大半の神経変性疾患が特異な異常タンパクの蓄積という共通の病態背景をもち,その点では一つの類似疾患とみることも可能であるが(プロテイノパチー),疾患ごとに蓄積する異常タンパクの種類が異なっており,この特定が確定診断に結びつく.代表的な異常タンパクとしてはβアミロイド,タウ,シヌクレイン,TDP-43などが挙げられる.それぞれのタンパクの蓄積は多くの場合,単一疾患だけにみられるものではなく,いくつかの疾患に横断的に認められる.たとえば,タウが蓄積する疾患群のなかにはアルツハイマー病,ピック病,進行性核上性麻痺,皮質基底核変性症,嗜銀顆粒病などさまざまな疾患が含まれ,しばしばそれらの疾患を総称してタウオパチーと呼んでいる.同様にシヌクレインが蓄積する疾患群はシヌクレイノパチー,TDP-43が蓄積する疾患群はTDP-43プロテイノパチーと総称される.つまり分子生物学視点からは神経変性疾患の分類は異常蓄積タンパクの分類という見方もできる.
 一方,臨床においての診断は,それぞれの神経変性疾患の特徴的な症状や神経症候をとらえることにより行われる.この点で神経症候学が非常に重要である.神経症候学は神経症候からその神経障害の局在部位あるいは錐体路徴候やパーキンソン症状のような神経系統の異常をとらえるものである.もちろんMRIやCTなどの形態的画像診断も役には立つが,あくまでも神経症候学的異常との対応を確認するのに用いる補助的手段である.歴史的に神経変性疾患は神経症候学をもととし分類されてきた.このように考えると,今までの疾患の診断は神経症候による神経機能の欠落症状を中心とした病変診断であり,背景の病態を直接反映しているものではないと考えられる.
 神経変性疾患の異常タンパクの分子生物学的分類と神経症候学的分類を比較すると興味深いことがみえてくる.たとえば上述したタウオパチーについて考えてみる.この疾患群はほぼ共通して認知症を呈する疾患群である.ピック病は前頭側頭型認知症を示す,また進行性核上性麻痺や皮質基底核変性症においても前方型の認知症を示すことが多いが,加えてそれぞれ特徴的な神経症候,たとえば核上性眼球運動障害,易転倒性,他人の手徴候などを示すことが異なっている.これらの疾患の相違をタウ異常という観点からみても実は違いが知られている.タウには異なるスプライシングにより6つのアイソフォームが存在する.詳細は省くがエクソン10の有無により,この6つのアイソフォームは4リピート(4R)タウと3Rタウの2種類に大きく分けられる.興味深いことに,進行性核上性麻痺,皮質基底核変性症は4Rタウ,ピック病は3Rタウが蓄積するという相違がある.さらに進行性核上性麻痺と皮質基底核変性症ではタウの切断様式が異なることが指摘されており,タウの蓄積という点では共通していても詳細な分子生物学的背景が異なっていると考えられる. つまり,症候学を基盤とした疾患分類はただ異常タウの蓄積分布が異なることをとらえているだけではなく,タウの分子生物学的な病態背景と対応していることになる.分子生物学的背景の違いと症候的な違いをみたが,症候が共通するという視点でみても興味深い.シヌクレイノパチーにはパーキンソン病,レビー小体型認知症,多系統萎縮症が含まれる.パーキンソン病とレビー小体型認知症はレビー小体,レビーニューライトという病理学的にも共通の要素をもち,一疾患の連続した病態と考えられる.一方,多系統萎縮症はその名のとおり多系統の変性を示し,シヌクレインの蓄積はおもにオリゴデンドロサイトに生じる.このようにかなり異なる病理学的背景をもつにもかかわらず,パーキンソン症状,レム睡眠行動障害,自律神経障害など共通の症候を示し,あたかもシヌクレイン自体が症候を決定しているかのようである.
 また最近,これら異常タンパクに関してその病理学的伝播に注目が集まっている.プリオン病も広くプロテイノパチーに含まれるわけではあるが,他の異常タンパクもプリオン同様,神経から神経へその病理が拡大していく現象が確認されている.とくにタウに関しては近年タウPETの開発に伴い,生体内におけるタウ病理の脳内拡大と症状の関係が確認され,タウ病理の広がりが症候に反映していることがわかってきている.つまりわれわれは臨床症候をとらえることにより,その背景にある分子生物学的異常や異常タンパクの広がりをみていることになるのかもしれない.今まで神経症候学が,主に症状と神経局在との対応を学問化してきたわけであるが,これら分子生物学的背景と症候の関連を新たに検討して,最終的には背景の病態や病変の広がりをとらえることが可能な分子神経症候学,molecular neuro-symptomatologyが確立できる可能性があるのではないだろうか.

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2017/10 老年精神医学雑誌Vol.28 No.10
道路交通法改正と認知症
古橋淳夫
医療法人古橋会揖保川病院

 2017(平成29)年3月12日に道路交通法が改正された.1960年につくられた道路交通法は,平成にはいってからの29年間に18回もの改正が行われ,時宜にかなった内容が盛り込まれているようにみえる.
 先月私が担当した78歳のアルツハイマー型認知症の男性患者は,入院直前まで毎日車を運転していた.認知症の程度は中等度である.妻は認知症患者の運転がよくないことを理解していたが,自身のうつ病が悪化してなにもできないために,家事と自分の介護もしてくれる夫に頼らざるを得なかった.しかし,夫に突き飛ばされた妻は肩を脱臼骨折し,倒れているところを発見され衰弱と脱水症で緊急入院した.そのあとに夫婦とも当院を初診して即日入院している.この老夫婦の一人息子は東京に単身赴任中で,その嫁は自身の実家で親の介護をしていたという.郡部において,このように深刻な事例は珍しくはない.
 今回の改正の2年前,2015年3月に認知症のチェックを盛り込んだ道路交通法案が閣議決定された.後日,日本精神神経学会は「認知症と危険運転との因果関係はまだわかっていない」とする意見書を警察庁に提出した.それに対して,2014年に死亡事故を起こした75歳以上の高齢者の4割以上が認知症もしくは認知機能の低下を認めるという具体的なデータや,高速道路を逆走した75歳以上の7割が認知症もしくは認知機能の低下を認めるという高知大学の報告など多くのデータが続々と紙面に出てきた.
 2016年11月15日に「高齢運転者による交通事故防止対策に関する関係閣僚会議」が開催された.それまで高齢者運転に関する新聞の記事は少なかったが,この会議のあとに記事が増えた.そして,同日,日本老年精神医学会 新井平伊理事長が改正道路交通法施行に関する重要な提言をされた.高齢ドライバーや自主返納した人への公的支援をはじめ,高速道路の整備内容や生活支援等を求めたのである.マスコミは提言にあまり興味を示さず,翌16日の読売新聞にその内容は小さく掲載されただけである.同年11月16日に精神科病院協会 山崎學会長が,19日には精神神経学会 武田雅俊理事長と提言は続いたが,関係機関はその提言に耳を傾けたようにはみえない.
 2017年1月16日に警察庁にて第1回「高齢運転者交通事故防止対策に関する有識者会議」が行われた.出席者は,警察庁の交通局長ら3人に加え,自動車工学研究者等17人の有識者,関係省庁から8人である.その会議の直後より,高齢ドライバーの事故が急激に増えているという報道が新聞やテレビなどに大きく取り上げられた.当然,国民が認知症や高齢者の運転に不安をもち,注目すると,マスコミも飛びついたが,新井理事長の提言でもある郡部の高齢者の生活支援などの問題はあまり議論されなかった.医師から認知症と診断されても,家族が免許を返納させようとしても患者はいうことを聞かないということや,認知症と診断されたあとも11%の患者が車の運転を継続するという報告などが先走りし,対応についてはなおざりにされた.
 今回の改正にあたり,警察など関係機関の対応は遅かったと思う.都道府県によって差はあるが,兵庫県では2017年2月27日に兵庫県警と県医師会が企画して,主に認知症医療疾患センターの専門医などを対象に改正道路交通法についての最初の意見交換会が行われた.他の県では1月ごろに行われていたことを耳にしていたので,明らかに遅すぎる.
 道理に合わないのは,今回の診断書を「専門医以外にもお願いしたい」と県警は医師会などに頭を下げておきながら,認知症ではないという診断書を作成された患者が起こした交通事故に対して,診断医師に民事訴訟は起こりうるとしたことである.
 ただ,認知症の事故に対する公的補償制度については,2016年12月13日厚生労働省や国土交通省などによる連絡会議において検討がなされ,民間保険の普及などで対応ができると判断されている.これは,2014年に発生した認知症の人が絡む29件の列車事故の損害額が最大でも120万円程度であり,損害額が高額になる事案が確認できないとしたことが背景にあるという.その直後に,大手損保会社が認知症高齢者の事故にも対応するよう保険を見直すという新聞記事が出てくるなど,認知症の患者家族についての保障も見直されてきている.
 2007年に愛知県大府市で,91歳の認知症の男性が1人で徘徊して電車にはねられ死亡した事故で,その結果列車が遅れたためにJR東海が家族に監督義務違反の訴えを起したが,2017年3月1日最高裁は家族に責任能力はないとした.最高裁が患者家族に配慮したことも理解できる.しかし,厚生労働省の在宅介護を基本とする方針は,認知症や精神障碍者の監督責任者に賠償責任を負わせることで被害者を保護するという民法によるため,その矛盾点について今後どのようなかたちで収めていくのか,しっかりと見守っていきたい.

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2017/9 老年精神医学雑誌Vol.28 No.9
脳卒中後うつ病と地域医療連携
木村真人
日本医科大学千葉北総病院メンタルヘルス科

 わが国において脳卒中は,年間約30万人が発症し,有病者数は300万人を超えていることが推測され,介護が必要な身体障害の原因の第1位であり,国民病ともいわれている.脳卒中後うつ病は,脳卒中患者の約3割にも発症し,認知機能の悪化,日常生活動作の回復遅延,死亡率の増加を引き起こすが,適切な介入や治療により予後は改善される.しかし,脳卒中後の落ち込みは当然なこととして見逃されることが多く,いまだにその対策は十分とはいえない.
 筆者は1999年から1年あまりの短期間ではあるが,アイオワ大学医学部精神科のRobert G. Robinson教授のもとで脳卒中後のうつ病や認知障害についての研究指導を受ける機会を得た.Robinson教授はコーネル大学を卒業後,1973年からアメリカ精神衛生研究所(NIMH)神経薬理学研究室,1975年からジョンズ・ホプキンス大学に所属して,脳損傷ラットを用いた大脳半球の左右分化の研究などをNature誌やScience誌に発表し注目された.1990〜2011年までアイオワ大学医学部精神科の主任教授として精神医学の臨床,研究,教育に従事されたが,自らの主要なテーマは一貫して脳卒中や脳外傷による臨床神経精神医学である.私が留学した時期は,精神科には『故障した脳(The Broken Brain)』の著者であるNancy C. Andreasen教授,神経科には『生存する脳(Descartes’ Error)』の著者であるAntonio R. Damasio教授という2大巨頭が在任しており,とても刺激的であった.
 Robinson教授は,「私は脳卒中後うつ病で治療を受けずに苦しんでいる人が1人でもいる限り,この仕事を続けようと思っている.君は日本で脳卒中後うつ病の仕事を先頭に立って続けてほしい」と言われ,ご自身の著書である“The Clinical Neuropsychiatry of Stroke”を手渡された.帰国後『脳卒中における臨床神経精神医学』(星和書店,2002年)として監訳させていただき,第2版(2013年)も監訳出版することが叶った.
 筆者は日本医科大学千葉北総病院での勤務が14年目になるが,当初から脳神経センターの回診に週1回心理スタッフを加えさせていただき,脳卒中後うつ病を中心とした精神科的なかかわりを継続している.最近では脳神経センターの看護師が脳卒中後うつ病のスクリーニングを実施し,主治医の身体科医も精神科的な問題について強い関心をもつようになり,メンタルヘルス科(精神科)との連携強化がなされている.
 脳卒中治療においては予防,急性期治療,後遺症・合併症に対する総合的医療が必要であり,脳神経外科,神経内科,リハビリ科,精神科などの連携とともに,がん患者に対する緩和ケアチームと同様に看護師,薬剤師,栄養士,理学療法士,作業療法士,臨床心理士,ソーシャルワーカーなどの多職種によるチーム介入が必須である.患者,家族,医療スタッフが情報を共有し,患者のステージに合わせた適切な援助を提供するためには,脳卒中地域医療連携パスなどを用いた地域ネットワークの構築も不可欠である.
 千葉県においては2010年より,千葉県共用脳卒中地域医療連携パスが運用されており,筆者は2012年から3年計画の「身体疾患を合併する精神疾患患者の診療の質の向上に資する研究」という厚生労働科学研究(主任研究員:伊藤弘人)のなかで,脳卒中後うつ病対策に着手し,2014年4月より,千葉県では医療連携パスのリハシートのなかに脳卒中後うつ病の評価項目(運用手引きではPHQ-9での評価を推奨)が組み込まれ運用が開始されている.本来であれば,図1に示すように,脳卒中患者のどのステージにおいてもうつ病評価が必要であり,今後の課題である.このような取組みが全国的に展開されることを望むが,各都道府県における脳卒中地域医療連携協議会へ精神科医が積極的に参加することが必要であり,日本老年精神医学会が主導的な役割を果たしてくれることを期待したい.

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2017/8 老年精神医学雑誌Vol.28 No.8
死にゆく患者に対して私たちはなにができるのだろうか?
明智龍男
名古屋市立大学大学院医学研究科精神・認知・行動医学分野

 私はがん医療における精神医学(精神腫瘍学)を専門にしていることもあり,自身に与えられた大切な職務のひとつは亡くなっていかれる患者さんの精神症状を和らげる方法を1つでも多く見いだし,それを普及させることであると考えている.このようなマイナーな領域ではあるが,近年いくつか考えさせられる論文に出会ったので紹介させていただきたい.
 1つ目はアメリカの緩和ケア医が発表した「早期からの緩和ケアによって患者の生存期間が延長する可能性がある」という報告3)である.この研究では,転移を伴う非小細胞性肺がんと診断された患者を,緩和ケアを提供する群と標準的ケアのみの群に無作為に割り付けた.緩和ケアを受ける群に割り付けられた患者は,定期的に多職種による緩和ケアを受けた.本研究の主要評価項目はQOLと精神症状であり,早期から定期的に緩和ケアの診療を受けていた群のほうがQOLが良好で抑うつも有意に少ないという結果が示された.しかし,最も驚くべき結果は,緩和ケアを受けた群の患者は終末期に抗がん治療などを受けている割合が少なかったにもかかわらず,生存期間が有意に長かったことである.なぜ早期からの緩和ケアで生存期間が延びたかの理由は定かではないが,緩和ケアを受けた群では,患者が正しく予後を理解するようになり,緩和ケアを専門とする医師や看護師から意思決定支援などを受け,死亡前の化学療法が減少したことが明らかになっている.
 2つ目は,私が以前国立がんセンターに在籍していた際の経験を紹介したい.私たち国立がんセンターの精神腫瘍学グループは,うつ病は治療可能であるとの前提と患者の余命の予測は正確にはできないとの知見のもと,進行がん患者のうつ病に対して積極的に抗うつ薬治療を行っていた.経口投与ができない場合は,患者の状態によっては,点滴静注投与も果敢に行っていた.しかし,あるとき後方視的に自分たちの臨床実践を振り返った結果,結果的に予後が週単位の終末期のがん患者には抗うつ薬は効果がないばかりか,副作用で患者を苦しめ,せん妄発現を助長している可能性が示された2).以降,私たちは自身の診療スタイルを変え,予後が限られた終末期のうつ病に対しては抗うつ薬中心の治療をやめ,睡眠や不安などの部分症状の緩和や精神療法的なアプローチ,一般的な支持的なケアを中心にするようになった.
 3つ目は最近報告された,オーストラリアのグループが行った緩和ケアにおける終末期せん妄に対する抗精神病薬の効果を検証した無作為化比較試験1)である.彼らは,ハロペリドールとリスペリドンの有用性をプラセボと比較し,その結果,抗精神病薬の有用性が示されなかったばかりか,抗精神病薬の投与は,プラセボよりもせん妄症状を悪化させ,生命予後も悪化させることを示した.
 これらは数少ない臨床研究にしかすぎず,その結果はそれ以上でも以下でもないが,自身の終末期うつ病に対する治療の反省から自戒を込めて考えてみたい.非常にうがった見方をすると,私たち医療者は,とくに死を間近にした患者に対して行うべき医療に関して,その判断を大きく誤っているのかもしれない.つらい症状はとにかく取り去り,1日でも命を長らえたい,と思うのは患者のみならず,医療者も同様の自然な思いである.しかし,人の命は限られているということも厳然とした摂理であり,私たち終末期医療に従事する医療者が,死という課題にきちんと向き合えず,判断を誤り,過度な医療行為,とくに薬剤に頼った治療を行ってしまうと,積極的に患者を害してしまう可能性すらあるのである.さきに紹介した論文は,死の直前には抗がん剤や抗うつ薬や抗精神病薬を控えたほうがよいかもしれないことを現代の医療に突きつけているともいえるのである.
 これら論文の知見のみで,なにかの結論が得られわけではないが,多死社会を迎えるなかで,医療の本来の目的はいったい何であるのかを改めて問い,そして自身の診療を振り返る一つのきっかけにしたい.医学も医療も決して万能ではないのだから.

[文 献]
1)Agar MR, Lawlor PG, Quinn S, Draper B, et al.: Efficacy of Oral Risperidone, Haloperidol, or Placebo for Symptoms of Delirium Among Patients in Palliative Care ; A Randomized Clinical Trial. JAMA Intern Med, 177 (1) : 34-42(2017).
2)Shimizu K, Akechi T, Shimamoto M, Okamura M, et al.: Can psychiatric intervention improve major depression in very near end-of-life cancer patients? Palliat Support Care, 5 (1) : 3-9(2007).
3)Temel JS, Greer JA, Muzikansky A, Gallagher ER, et al.: Early palliative care for patients with metastatic non-small-cell lung cancer. N Engl J Med, 363 (8) : 733-742(2010).

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2017/7 老年精神医学雑誌Vol.28 No.7
医介連携の朝(あした)
松本一生
医療法人圓生会松本診療所(ものわすれクリニック),大阪市立大学大学院生活科学研究科

 医局に入ったころ認知症は精神医学の主流ではなかったということを思い出した.26年前のことである.もちろん精神科医は統合失調症や感情障害を診ることができて初めて一人前である.自分でもその大切さを実感し,精神療法を学びながら同時に生物学的精神医学を疎かにしないよう,画像診断や脳波検査,SPECT検査に明け暮れた日々が懐かしい.
 老年精神医学とともに生きようと思ったのは,筆者が育った大阪の下町で親の代から何代もの人々を診てきた診療所の存在が大きい.町がしだいに高齢化することと並んで受診者も高齢者が圧倒的に増加した.その中核となったのが認知症への医療である.他の疾患と比べても認知症は生活習慣病との関連が強く,悪化を防ぐためにはその人や家族がいる地域での生活全体を見据えた取組みこそ基本である.なるほど,医療だけでなく地域ぐるみで支える地域包括ケアシステムが大切なのだ.
 2016年,あるグループホームから相談を受けて介護と医療の連携が効果を出すことができるかを実証する機会ができた.これまで医療との連携はできておらず,入居した人がかなり悪くなってからいくつもの病院や診療所を受診するしかなかったという.遠方のため筆者の訪問は月に1〜2回であるが,頻繁にお互いの情報をやりとりした.
 それから半年,こちらが考えたよりも効果がみえてきた.介護職が日々の生活のなかでみえてくる入居者の状態をほぼ毎週,診療所に伝えてくれる.そこから指示して処方調整をするが,介護職からの意見でこちらの治療方針を変えることもしばしばである.グループホームを訪れる際は調剤してくれる薬剤師が同席して意見を交わしながら処方調整も行うことができた.その結果として何人かの「対応に苦慮する事態」が安定した.なかには水中毒やせん妄,精神運動性興奮などによる混乱があり,細やかな処方調整が状態像の安定,不眠の改善をもたらすことにつながった.
 予想しなかった効果が出たのは薬物の副作用の抑制である.これまで複数の医療機関が連携なく処方していた薬剤を必要最低限に減らし経過をみたところ,薬剤起因性と思われる焦燥感が改善した例もあった.介護職がどれほど心を尽くしてケアしても,それをはねのけてしまうほどの入居者の焦りが消退した.
 これまでも介護でみえてくる認知症の人や家族の「生活」情報を医療にフィードバックすることが大切であると主張してきた.しかし,それが単なる観念論ではなく実証できるとすれば,介護と医療の連携,いわゆる医介連携は単なる画餅ではなくなる.しかし,今回は偶然にも介護と医療の相性がよかっただけかもしれない.自画自賛であってはならない.時間はかかるかもしれないが,エビデンスのある結果を導き出すことができれば医介連携に寄与できる.
 1つ気になる点があった.このように連携に努めても医療にも介護にもかかわらせてくれない人は必ず存在する.地域に増える高齢者や認知症の人のなかで最大の課題はそのような人の増加であり,セルフネグレクトにどのように取り組むかが連携の大きな課題でもある.
 支援したくてもなにもできないとき,われわれは無力なのだろうか.そのようなときには,だれかが確かな見守りをすることで精神科医サリヴァンのいう「関与しながらの観察」が大切になる.いまここでかかわることができなくても,何らかのチャンスがあれば時期をみて支援することができる.
 みんなが協力することでだれか一人にかかる負担を軽減できれば,介護現場の人材の減少を食い止めることもできるかもしれない.介護の世界では慢性的な人材不足が叫ばれて久しいが,このような取組みがうまく機能すれば職員のバーンアウトや離職を防ぐ可能性もある.連携が進むにつれてそのグループホームにいた職員2人が離職を思いとどまってくれたとの報告があった.介護職として尽力してもなお,混乱する認知症の人を前にして,彼らは「自分のケアがいけないのではないか」と自責的になり,思い詰めかけていたらしい.そこに医療とのきめ細やかな連携ができると,彼らもまた処方調整や医療的なアドバイスでこれほど認知症の人の状態像が改善することに驚きを感じ,自らを責めることがなくなった.身を尽くしても改善できなかった状況が,実はケアの至らなさなどではなく疾患からの混乱であり,医療の関与が状態改善につながると実感してくれたのであろう.
 このような連携ができたことで介護職が課題を自身のケア不足として内在化させることなく,燃え尽きないで現場に留まることこそ,これからの認知症を支えていく大きな力となる.筆者にとって本格的な「医介連携の朝」が始まった.その一助になれるなら人生をかけて老年精神医学を学び実践していけるだろう.「超高齢でもよい国」ができる明日を目指して.

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2017/6 老年精神医学雑誌Vol.28 No.6
医療のICT化に思うこと
福原竜治
熊本大学医学部附属病院神経精神科

 2000(平成12)年にわが国では「高度情報通信ネットワーク社会形成基本法」(IT基本法)が成立し,欧米諸国に比べて遅れていたIT(information technology)インフラの整備と人材育成等を進めるというIT基本戦略が策定された.翌年,「経済財政運営及び経済社会の構造改革に関する基本方針」(骨太の方針)が決定され,それを背景に医療サービスの効率化を目的として,医療サービスのIT化,電子カルテ,電子レセプトの普及による医療機関の運営コストの削減が目指されてきた.2001(平成13)年には,政府・与党社会保障改革協議会による「医療制度改革大綱」に沿って,厚生労働省は「保健医療分野の情報化にむけてのグランドデザイン」を策定し,レセプト電算化と電子カルテの導入の数値目標が定められた.
 筆者が働き始めた1997(平成9)年,地域の病院では処方箋はほとんど手書きであり,とくに外来診療において処方箋を書くのに多くの時間を要した記憶がある.一方,大学病院にはオーダーリングシステムが導入されており,処方箋はコンピュータ上での操作により,膨大なリストになっている処方箋も前回の情報を利用することで簡単に作成することができた.その数年後,MRIやCTなどの画像もコンピュータ上に取り込まれるようになり,重いフィルムを抱えて回る必要がなくなり,端末のあるところならばどこでも閲覧可能となった.印刷された検査データをカルテに貼る作業からも解放された.筆者が医師となった最初の10年間は診療情報が少しずつ電子化されていく過程であり,電子化の利点が実感され,しだいにカルテ記載や紹介状,各種文書も電子化された.
 その後技術の進歩とともに,情報技術を用いて仕事の電子化や業務のOA化を図ることは当然のことになり,これらの電子化された情報をどのように使いこなしていくかという点が重要となった.医療のICT(information and communication technology)化においては,病院,診療所,薬局などを含んだ地域医療連携ネットワークが構想され,複数の地域において試験運用されている.情報のネットワーク化により,他院での過去の詳細な診療情報を活かすことができ,たとえば救急医療などの診療の現場に有用であるほか,関係機関間の連携が円滑となり,またMRIなどの高額医療機器の共同利用ができるなどの多くの利点があるとされる.厚生労働省の公表資料によれば,このようなネットワークを実現するためには,電子カルテの普及率向上や,医療機関へのIDの整備,電子カルテや情報の標準化などのさまざまな課題があるというが,2018(平成30)年度以降,実現に向けて推進していくことがイメージされている.
 デジタルデータの利点は,入力した情報を利用することが容易であることである.そのためには情報の入力にある程度の負担があることは仕方がない.しかし,筆者の限られた経験からではあるが,現時点の電子カルテのシステムでは,情報を柔軟に利用する仕組みが不十分なため,入力の負担に比して利便性がまだ少ないと感じている.研究に役立つようにデータベース機能を充実させたり,文書作成においては類似した内容の書類は書式を統一化させることなどで作業の効率化が図れるのではないだろうか,また他院や行政機関と交わす文書も電子的に作成されているので,そのまま電子メールのようなネットワークを使ってやりとりすれば,紙文書のスキャンや画像などをディスクに記録して送付する手順が省けるのではないだろうか,と思っていたところであった.地域の病院で外来診療していると,独居の高齢患者が初診されることも少なくない.独居高齢者では,配偶者がなく家族も遠方にいるため,初診時に手にはいる情報が限られるときがある.その際,他院での治療歴や画像検査に直接アクセスできれば,一度の受診で行えることも増えると思う.
 今回,厚生労働省と総務省の資料を調べると,ICTを導入した地域医療連携ネットワークが,もう少し未来に全国に展開されることが目指されているようである.実現までには,デリケートな個人情報を守るセキュリティの確保といった技術的な課題や,機器導入やネットワークの運営にかかる費用などコストの問題など,数多くの越えるべきハードルがあると思われるが,医療や研究の質を高め,かつ患者や医療従事者にとって有益なシステムが構築されることを期待したい.

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2017/5 老年精神医学雑誌Vol.28 No.5
MCIと周辺症状とハンマー
高橋純子
岩手医科大学内科学講座神経内科・老年科分野

 外来で遭遇する軽度認知障害(MCI)のなかには,不安感やうつ症状のような周辺症状を抱えていることが多く,初発症状の記憶力低下とほぼ同時,時には先行して症状が出現する症例も認められる.対策として家族へ接し方のアドバイスをする.その場合,中核症状と周辺症状に症状を分けて説明を始めることが多い.中核症状は神経細胞の変性に伴う不可逆的な症状であり,周辺症状は変性を免れた周辺の神経細胞がもたらす行動・精神心理症状であると始め,中核症状は病気そのものの症状であり逃れようがないこと,それに対して周辺症状は患者本人への接し方に気をつけることで予防あるいは回避することができるという内容で締めくくる.しかし,最近,診察室でこの説明をするたびに,疑問符が頭を横切るようになった.実際のところ,中核症状と同様に神経細胞変性が直接の原因となる精神症状もあるにちがいないが,それは無視できるほどのものなのか.アルツハイマー病に移行するMCIでは,神経細胞変性が直接原因となって生じる周辺症状にどのようなものがあるだろうか.
 これまでの研究を紐解くと,病理学的研究では,アルツハイマー病の周辺症状である興奮とアパシーで前頭前野の神経原線維変化が増加しているとしている報告はあったが,周辺症状と病理所見の関係を述べている研究は少ない.そもそも死後解剖を前提とする病理学的研究では,MCIを含む発症早期の研究には限界がある.画像検査では,2000年ごろから機能画像を使った研究がなされており,アルツハイマー病のアパシーや抑うつ状態では,SPECTやPETを使った脳血流検査において,それぞれ前部帯状回,前頭前野の血流低下が,FDG-PETによる糖代謝の検討でも前頭前野の代謝の低下が報告されている.より病理所見に近いアミロイドPETでも,MCIでは不安が重症になるほど前頭葉や全脳のアミロイド沈着が増加することが報告されている.最近のMRI画像解析のひとつであるvoxel based morphometryでもアルツハイマー病の精神症状と関係する灰白質の容積変化部位が検討されており,脱抑制は両側前部帯状回や右中前頭回の灰白質容積減少と,また,妄想は海馬の灰白質容積減少と関係していることが明らかにされている. 周辺症状が灰白質の萎縮,言い換えると神経細胞変性によって生じていることを反映している.私の研究室で行ったMCIのメラニン画像による分析でも,アルツハイマー病に移行するMCI症例では青斑核のノルアドレナリン作動性ニューロンであるメラニン含有細胞の減少が認められ,注意や不安感とノルアドレナリンの減少との関連性を考察している.
 普段の不勉強を嘆きつつ,論文に目を通してわかったことは,MCIでは早期に周辺症状が出現することは不可避であり,家族による環境整備だけでは対策として不十分なこと,治療が必要な周辺症状にタイミングよく対応できるよう常に細やかな観察が求められることである.MCIとして順調に通院していた症例でも,突然の周辺症状の出現に戸惑うことがあり,家族からの説明で,実は数か月前から前兆があったこと,環境の変化が引き金になっていたことなど,外来診療での聞き取りの足りなさ,むずかしさを痛感することも少なくない.1回1回の診察の大切さを肝に銘じなければならない.
 今回,画像の論文に接し,つい,私が医師になりたてのころを思い出した.認知症を神経内科が診察することも珍しく,画像診断はやっとCTが使えるようになりつつある時代であり,MRIも大学外の施設まで撮りに行った記憶がある.つまびらかに病態を解明するためには病理解剖が絶好の機会であったが,症例数は数少なく,担当症例の病因を視覚的に明らかにする機会にはほとんど恵まれていなかった.中枢神経系はまったくのブラックボックス状態だった.このころからすると,いまの画像検査は隔世の感がある.現在は認知症のような変性疾患についても,MRIによる画像検査により,萎縮などの形態学的検査にとどまらず,神経線維の走行と密度,細胞膜の透過性,脳循環など脳機能を解析することもでき,アミロイドPET,タウPETにより確実性の高い診断も可能となっている.自由自在に頭蓋骨の中身を観察できることに感謝である.しかし,画像に頼ろうとする自分を戒めるため常に教訓としている言葉がある.神経内科医なりたてのころの先輩から教わった「基本は病歴と神経学」という言葉である. これだけ画像診断が進歩しても,神経学者のとる神経学には魔法のハンマーが教えてくれる秘密がたくさん隠れていて,画像だけではわからないことをたくさん教えてくれると信じたい.

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2017/4 老年精神医学雑誌Vol.28 No.4
地域での高齢者支援に活かされる互助のこころとは!;上越市の地域支え合い事業に協力して
川室 優
川室記念病院,高田西城病院

 今日の超複雑化社会において,地域における良好な人間関係は大きな力を生み,その力の活かし方次第で,地域が活性化されることは当然と考えられます.その関係性の良し悪しは別として,人と人とのかかわりは人間が生き,生かされるなかでとても重要なことです.
 地域も一つのグループとしてとらえるならば,私のライフワークの“グループの形成と力動”は大切な要素であり,住民1人ひとりの力の結びつきがグループ力となります.私の尊敬しているヤーロム博士の教えでは,対人関係性の重要要因は「信頼=trust」であると指摘しています.対人関係ではグループ内の強い信頼力が,互いに“触れ合い,感じ合い,分かち合う”ことで“助け合いのこころ”を生み出し,それが「互助のこころ」の基礎となります.グループワークやグループセラピーでは,グループが社会の縮図として治療効果を上げますが,地域でも,人と人が互いにかかわることで同様の成果があります.地域住民が主体的に,自発的にかかわることで,よりよい効果的な互助力が生じます.国が政策的に提唱している「介護予防,日常生活支援総合事業の基本的な考え方」(厚生労働省老健局施策資料)でも,この力を活用することを重視しています.
 日々,高齢者のために地域の精神科医療福祉に取り組んでいる私は,高田西城病院設置の新潟県認知症疾患医療センターを中心に,上越市の地域包括ケアシステム構築に協力しています.2015(平成27)年4月の介護保険制度改正で,全国統一の制度から,地域の実態に合った取組みへ方針転換となったことは周知のとおりです.同年4月より,上越市でも,市町村が実施すべき地域支援事業として次の5つの事業を開始しました.@新総合事業:要支援1,2の人の訪問型・通所型サービスを地域の実情に合わせた事業とする,A地域の支援体制事業:地域における助け合い事業展開の取組み・仕組みづくり,B在宅医療・介護連携推進事業,C地域ケア会議の開催,D認知症初期集中支援チームの設置であります.これらの事業は,地域包括ケアシステムの理念である“高齢になっても住み慣れた上越市で暮らす”ことの実現のために,@高齢者が地域で支え合う体制,A介護予防(生活習慣病の重症化予防)の認識の強化,B認知症高齢者の安心・安全な生活,C医療・介護・住まいなどの充実した環境という4つの仕組みづくりの作業が進められています.
 私どもは,上越市新総合事業「上越市の実態に合った新たなサービス」提供の28区地域支え合い事業のひとつとして“すこやかサロン諏訪”を担当しています.全国各地で類似した事業がありますが,そのなかでも上越市の特徴は,「住民の力」を活用する点です.初年度は行政が援助し,住民のなかから“生活支援コーディネーター”を養成し,地区ごとに協議体メンバー(町内会長,民生委員,ボランティア組織,商工会,介護保険事業所,社会福祉協議会,行政等)による協力者を構成し,地域の支え合い体制では協議体会議をもちます.その内容は“高齢者が気軽に集い,交流をもつことで閉じこもりを予防し,心身の機能の低下を予防する”ための「すこやかサロン」や,生活習慣病の重症化を予防するための「介護予防教室」,そして「家族の集い(認知症カフェなど)」が実施されます.具体的なプログラムは各28区に特徴があり,たとえば,中学生の総合学習の一環で敬老会の企画が盛り込まれたり,時に中学生の歌や踊りが披露されることもあります. “すこやかサロン諏訪”では,地区にある川室記念病院のスタッフが自発的に認知症予防教室に参加し,主体的な話し合い形式(グループワーク)で“地域でどのように支え合うことができるか”を援助し,“互いに支え合い助け合うこころ”を根づかせていきました.
 一般的に助け合いとは公的機関の援助(公助),自発的に生活課題を解決する力(自助)や制度化された相互扶助(共助)の3つが強調されてきました.しかし地域包括ケアシステムではさらに地域で互いに助け合って解決し合う力,すなわち「互助のこころ」が重要となるのです.地域では住民が主体的・自発的に力を発揮し,その互助力が高齢者の地域生活を豊かにして健康な生活を構築するものです.今,総合的な助けとして,この4つの助け合う「こころ」が住民には最も必要です.
 今後,上越市で積極的に取り組んでいる「地域支え合い事業」のように,“元気老人”の互助力のある生活が地域をより活性化し,それがさらなる力を生むことになるのではないでしょうか.私どもは,このサロンに参加されるお1人おひとりが,自分のこと,自分の力を自覚・認識していただくため,地域連携ノート「にっこり手帳」を持っていただいています.その手帳を,まるで自分の分身であるように,ご利用いただいている姿を見かけると,作成発案者の私にとっては望外の喜びです.同時に,その気持ちが地域のなかで援助する力になり,地域住民と私との互助力にもなっています.この地域の互助力を大切に,日々,医療・福祉に協力できることを念じ,日本の充実した超高齢地域社会形成の構築を祈りたいと思います.

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2017/3 老年精神医学雑誌Vol.28 No.3
高次脳機能障害の“高次”とは
鹿島晴雄
国際医療福祉大学大学院,木野崎病院

 高次脳機能障害という用語は,脳損傷による記憶障害,注意障害,遂行機能障害,社会的行動障害を指す行政用語として導入され,現在,定着しよく使われるようになっているが,“高次”とはなにを意味するかは必ずしも明確ではないように思える.神経心理学の領域では,巣症状を含むより広い認知機能障害を指す高次皮質機能障害という用語はあったが(Luria AR : Higher Cortical Functions in Man. Basic Books, New York, 1966),高次脳機能障害という表現は用いられてこなかった.ここでは,高次脳機能障害を行政用語としてではなく,神経心理学的障害という意味でより広くとらえて考えてみたい.
 私は,高次脳機能や高次脳機能障害における“高次”とは,“意味にかかわる”ことと考える.たとえば,発声や構音は意味にかかわらないが,発語は意味にかかわる機能である.運動は意味にかかわらないが,パントマイムや道具を使うことは行為であり意味にかかわるものである.視覚や聴覚は感覚であるが,それらを介して知覚すること,すなわち視知覚や聴知覚は意味にかかわる機能である.意味にかかわるこれらの機能の障害は高次脳機能障害といえ,従来より失語,失行,失認と呼ばれてきた.また記憶,随意的注意,遂行機能の障害など,いずれも意味にかかわる脳機能の障害であり,高次脳機能障害である.また,ここでは意味にかかわらない脳機能を要素的脳機能と呼んでおく.
 高次脳機能障害と要素的脳機能障害は2つの点で相違がある.第1は脳の損傷局在の厳密さである.要素的脳機能障害では症状と脳損傷の関係は厳密である.たとえば,交代性片麻痺では脳損傷部位の個人差はほとんどないであろう.要素的脳機能障害の診断において脳画像検査が重視される所以である.他方,高次脳機能障害においては脳損傷局在の厳密さは要素的脳機能障害に比べてそれほどではない.たとえば,同程度の症状を示す右利き運動失語の脳画像での脳損傷部位は,左側前頭葉下部を中心として,かなり小さい損傷からより大きな損傷まで個人差がある.このことは大きな損傷で症状が出現している例では,より小さな損傷では症状が出現しなかった可能性を示唆している.失語の診断において,脳画像検査は有用な手段であるが,より重要なのは症状の把握であるといえる.他の高次脳機能障害においても同様であり,高次脳機能障害の診断においては脳画像検査は有用であるものの,症状の個別的,臨床的把握がより大切であること,すなわち,高次脳機能障害の診断における神経心理学的ないし精神医学的アプローチの重要性を指摘しておきたい.
 第2の相違は症状の一貫性である.要素的脳機能障害では,たとえば運動麻痺は状況にかかわらず常に認められ症状の一貫性がある.しかし,高次脳機能障害ではそうではない.失行を例にとると,外来診察室において歯ブラシで歯を磨く真似をすることは困難であっても,自宅の洗面所で朝,自分の歯ブラシで歯を磨くことは,スムーズではないとしてもできることがある.また失語症では,診察室で「ご飯が食べたい」と言うことが困難であっても,空腹時にはスムーズではないにしてもそれを言いうることがある.高次脳機能障害では要素的脳機能障害のような症状の一貫性はない.しかしながら,できない状況とある程度できる状況には,法則性があるように思える.外来診察室で歯を磨く真似をしたり,「ご飯が食べたい」と言えなくても,磨くべきときに歯を磨いたり,空腹時に「ご飯が食べたい」と言うことはある程度できるのである.これは従来よりBaillarger-Jacksonの原理といわれてきたもので,前者は抽象的な状況,後者は具体的な状況といえ,その間で差異があるということである. 高次脳機能障害の症状は,抽象的状況で出現しやすく具体的状況ではそうでもない.症状の出現は状況に依存する.このことは,高次脳機能障害の診断において状況や文脈を考慮することの大切さを意味している.
 脳損傷局在と症状の一貫性という点で,意味にかかわる高次脳機能障害と要素的脳機能障害で相違があるのはなぜか.私はこれらの相違は高次脳機能障害が意味にかかわる機能である故と考える.脳損傷の局在に個人差があるのは,“猫”という言葉を例にとると,“猫”という言葉はその人のそれまでの経験や体験と関連して頭に貯えられており,より猫に関する体験,とくに情動的なそれをもつ人と,そうでない人では,同じ“猫”という言葉でも頭のなかでの貯蔵の状況は異なると考えられるからである.関連した体験の多い人はそうでない人と比べて,“猫”という言葉に関する手かがりはより多く,より失われにくいであろうと考えられる.また抽象的状況でより症状が出現しやすいことも,意味と関連している.空腹時にはそれほどの困難がなく「ご飯が食べたい」と言いうるのに診察室では困難であること,つまり具象的状況では言えても抽象的な状況では言い得ないという現象は,意味にかかわる本質的な障害と考えられる.言葉とは意味を担う記号である. 記号とは,実際にそのものがなくともそれを表せるから,つまり抽象的な状況でそれを表せるから記号なのであり,抽象的な状況で言い得ないということは,意味を担う記号としての本質的な障害といえる.
 このように高次脳機能障害は,脳損傷の局在において個人差があり必ずしも脳画像だけでは完全には評価しきれず,また症状の出現は状況依存的であり,症状の診断や評価には状況を考慮することが必要となる.これらのことは,高次脳機能障害の診断,評価には個別的かつ精神医学的なアプローチが必要であることを意味していると考える.

 本稿は,拙稿「高次脳機能障害」精神経誌第117巻第8号:663-668(2015)に準拠したものであることをお断りしておく.

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2017/2 老年精神医学雑誌Vol.28 No.2
華やかな世界の中心ではなく,貧しい社会の周縁にこそ
寺田整司
岡山大学大学院医歯薬学総合研究科精神神経病態学

 経済とか財政は,非常に重要な領域であり,それを無視して生きていくことは,自分のような凡人には困難であるが,昨今の金融偏重の社会には,さすがに非常な違和感を覚える.「日経平均が上がった,下がった」などという話題が新聞の一面を飾るようになったのは,いつごろからだろうか.昭和と平成を比較すると,まさに隔世を感じる.日々,日経平均や円相場の乱高下に一喜一憂するお金持ちは少なくないが,少なからぬお年寄りがアパートの一室で,毎日のように孤独死していることを気にする富豪はまれであろう.
 弱者に対する優しい言葉が,とくに選挙前の日本には,氾濫するほど溢れている.が,実際の行動で優しさを示している者がどれだけいるのだろうか.莫大な資産や財産を有する者は,さまざまなテクニックを駆使して,払うべき少額の税さえ合法的に逃れ,ますます貧富の差は拡大しつつある.良心の呵責なく従業員を酷使・解雇し,短期的な業績を向上させた人間が,優れた経営者と褒めたたえられる.まちがった場面で,自己責任という言葉が使われているように感じるのは自分だけであろうか.実際には独裁国家であった共産主義国の崩壊とともに,資本主義が露骨にその牙を剥いて,日本の社会を蝕みつつある.
 不採算部門を売却したり,職員を解雇することで黒字化を図ることは,少しだけ頭がよくて情けを知らない人間であれば,だれにでもできる.しかし,本当の意味で組織を再生させ,働く人々の姿勢を変え,やる気を引き出そうとするときには,上に立つ者自身のあり方が問われよう.口先で甘言を弄することは容易だが,自らの財産を切り崩してまで社会に貢献している資産家がどれだけいるのだろうか.
 介護・看護・医療は,障害や病気を抱え苦しむ人々とともにある.そのなかでも,老年精神医学や認知症学は,病や老いを抱えた高齢の人々,経済効率だけからいえば,まさに社会から切り捨てられつつある弱者の人々とともに歩んでいくべき領域である.しかし,残念ながら,そうした医学や医療,介護の現場にも,お金の話は否応なく入り込んでくる.経済効率や費用対効果などという言葉が使われることも少なくない.しかし,いったいだれのための効率なのだろうか.社会は本来,矛盾を抱えたものであるとはいえ,やりきれないような気持ちになる日も少なくない.
 介護・看護という,経済的には恵まれることの少ない厳しい現場で,黙々と,しかも笑顔を絶やさず働いておられる多くの方々がおられることも事実である.社会にとって重要なことは,ごく少数の人間が巨万の富を築くことではなく,多くの普通の人々が充実した生活を送ることであろう.華やかな世界や会議の中心でスポットライトを浴びている人や出来事に目を向けることは容易だが,周辺の暗闇のなかでもがいている人々の哀しみや苦しさに気づくことはむずかしい.中央ではなく周縁にこそ,真実は隠れている.分断ではなく統合が,排除ではなく包摂が,日本の社会の目指すべき目標であろう.昨今,わが国において,短絡的で排外的なナショナリズムの嵐が沸き起こりつつあること,弱者や少数者へのヘイトスピーチが事実上,野放しになっていることなど,本当に心が痛む.また逆に,「患者様」などという空疎な虚言が,医療現場で飛び交っていることを深く悲しむ.そして,社会のあり方自体が大きく変容していることを痛感する.
 巧言令色,鮮し仁.まずもって,このような綺麗事を書き連ねている者自身が,身を正さなければならないのであろう.少しでもよい方向に進んでいくことを信じつつ,同じ想いをもつ人々とともに,微力を尽くしたい……と思うのだが,生来が怠け者の質であり,ついついやすきに流されている毎日である…….日本の社会に,真の連帯が生まれることを祈りつつ,筆を擱く.

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2017/1 老年精神医学雑誌Vol.28 No.1
人心の劣化を憂う
堀口 淳
島根大学医学部精神医学講座

 この『老年精神医学雑誌』で,2回目の巻頭言を書いている自分は,「さあどうだ,初回のころより少しは成長しているか」,と気になってしまうので,前のものは読まないことにした.本誌とともに,自分もだいぶ老けてきた.時代もずいぶん変貌した.高邁な話ではない.俗世間の変容への嘆きである.
 山手線でもメトロでも,手鏡片手にお色直しのお姉様方が登場したころ,あのころにはたしかまだ「携帯電話」「スマートフォン」の類いはなかったのではないか.いまではこの女性陣,中学生たちさえも混じり合っての大忙しである.お色直しにスマホいじり,ペットボトルにドーナッツ,カラコロカラコロ缶ジュースが電車の床を徘徊する.こんな携帯おしゃべりに,不自然感じぬ同乗者たち.どっこい,田舎の年寄りも,携帯だって負けていない.温泉湯船に持ち込んで,ドイツかパプアかわからぬほど,方言混じりの大声で,「ニャー,ギャー」「ギャー,ニャー」やかましい.
 他国の話に転ずれば,超大国や隣国のリーダーたちの人格低下も目に余る.リーダー候補者の選挙戦,相手候補のバッシング,あの情けない低次元さ.この低品格のありさまを,聞いて歓喜の国民たち.あの低級性にも虚しささえ,湧いてくるくる,もう勘弁してほしい.さてもかような色彩は,他国だけではないのである.
 どこかの国の,来日客たちのマナーの悪さを非難できるのか,わたしたちは?「赤信号,みんなで渡れば怖くない」的気質,これ日本人の大特徴である.自分一人「かっこよく目立つ」のも嫌,さりとて再び自分一人「かっこ悪く目立つ」のも嫌だから,中間,平均,真ん中でいたがる.そう,「平均的多数の一人である自分」「中間層の一人」でありたがる.ここらにいれば落ち着くし,目立たずにすむ,と勘違いしている.この残念な対人緊張病的指向性が,随所で大問題を誘発する.なぜなら昨今の,身近な小集団から,大集団たるわれらが日本丸まで,何だかおかしいし,妙だし,不自然だし,不安定だし,とうてい好きになれないので,悔しいし,寂しいし,情けない.そんなふうに思考し,そんな「変異」を嘆くどころか,「自分だけは変性してないはずだ」といった,やや妄想的な色彩の濃い念慮を抱き,結果的には「変異集団」を侮蔑どころか,排他し逃避的にすらなっていそうな,そんな自分がおかしい.「平均的」でも,「非平均的」でも,それはどっちでもよいとも思うのだが,「自分はまともだ」との迷妄が抱きにくくなった時代である.
 つい10年ほど前までの「まともな平均的」が,近頃どんどん退行変性し,低脳化も進行し,人間の脳髄も変容し,人心は劣化の一途をたどっている.そら恐ろしい認知能力の低下である.最も大切な情動認知力が脆弱となり,他者排他的で自己の社会認知さえ劣悪化し,周囲にお構いなしの言動が蔓延してきた.そう,この「平均的多数」はbio-psycho-socio-ethicalに,見事に顕著に変異した.他者への配慮お構いなしの平均集団が闊歩を始めた.すなわち人間の前頭葉・側頭葉は,確実に機能失調した.器質的変化さえ疑いたい始末である.再びの恐怖社会の到来である.
 老若男女を問わず,同様である.あっちもこっちも,おかしくなった.介護は嫁の務めだと,髪振り乱してファイトする嫁も実娘も減りに減った.「年寄りを尊重しなさい」「親を大切に」などの普遍的道徳感情が通じるはずもない.嫁や娘の「平均」が劣化しているので,「いまさらそんな」の風潮である.かたや「いまどきの若い者は」が口癖の老人は,自分もおかしくなっているのだから,「尊敬,尊重」されるはずもない.
 さて先日の外来診察の血圧測定中に携帯が鳴った.この78歳のおじいさん,「先生,ちょっと」と携帯を,胸ポケットから血圧測定マンシェット付き腕で取り出して,「もしもし,あのなあ,はあはあ,そうやな……」などとやり出した.こんな不躾,ぶざまは,中年おばさんでもしょっちゅうである.「すみませぇ〜ん」などと言って,鳴った携帯に出るのである.鳴ってもいない携帯を自分からかけ始めることさえあり,話し始めるのである,診察室で,である.はてはええいついでにとばかり,義母の診察に同伴した中年嫁は,「はい先生」と言って残薬入りの薬袋をこちらに預け,「余った分,もったいないからね,次の回に加えてね,先生.必要日数分だけにしてくださいねぇ〜!」などとも言って,残数もこちらに数えさせようとするのである.これらの無礼が,少しずつ日常茶飯事となってきた.患者の質も,家族の気質も劣化した.人心は劣化の一途である.
 病院内の廊下や,外来待合席前の患者さんやいろいろでごった返すなか,左手にパン,右手に缶ジュースを持って,むしゃむしゃむしゃむしゃ,平気で「周徊」する研修医もいる.失見当識もなく,意識障害もなさそうであるから,やはり,「公衆の面前」といった「場」の認知の障害である.この「場」の意味を認知機能に照合すれば,「こんな場所では,こんなことしてはいけない」,なぜなら「周囲の人が不快に思う」(情動認知)し,第1「自分は大人(医師)である」うえに「患者さんに尽くす立場」(社会認知)なので,といった認知の障害が垣間見られることになる.マナー云々をはるかに超えた高次脳機能のなかの道徳心の障害である.前頭葉機能障害である.すでにこの底辺には神経認知の機能不全さえ感じられるのである.
 ついさきほど,同門の教え子が教授室にやってきた.院長に昇進したばかりでもあって,張り切っていた.人手不足だそうである.彼は嘆いていた.「精神科医は夕方5時帰りが当たり前なのです,先生.たとえ目の前で自分の入院患者がたいへんな状態であっても,帰るのです.あとお願いしま〜す,当直の先生ねえ,とか言ってですよ,先生.医者が,ですよ,先生」.サラリーマン医師たちが量産されてしまっているのである,全国で.この現象は私のような教育する立場にある者の責任でもあろうが,こんな輩にやれ契約だの,医師の人権だのを持ち出されると,閉口せざるを得ない.そんな実情が存在する苦しさ,そう,医師不足をよいことに.しかし……ねえ!……みなさん.
 認知症患者さんたちのBPSD的症状をただちにBPSDと決めつけてはいけない.ましてやBPSD症状もどきが,なかなか治らないと嘆く必要もない.本当にBPSDか否かの見極めはなかなか困難である.不幸にして認知症に罹患した患者さんの発症前の人柄や癖,指向性などを十分に理解して判断すべきである.病前から存在していた「変異」言動にすぎない場合が,いまや想像以上に多いのかもしれない.ここにおいても,生活史の詳細な把握が重要となるのであろう.

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