2016/12 老年精神医学雑誌Vol.27 No.12
来春施行の改正道路交通法の問題点を考える
川畑信也
八千代病院愛知県認知症疾患医療センター
高齢者の自動車免許更新の厳格化を目的とした改正道路交通法が2017(平成29)年3月12日から施行される予定である.筆者自身も愛知県公安委員会から適性検査を行うための医師として認定を受けていることもあって,認知症患者の自動車運転ならびに免許更新について多大な関心をもち診療を行っている.改正の細部に関して十分な情報提供がなされていないなかで,筆者が知り得た範囲でこの改正に関しての問題点を考えてみたい.
今回の改正の最大の問題は,免許更新に際して75歳以上の高齢者が受ける講習予備検査(認知機能検査)で第一分類(記憶,判断力が低くなっている者)と判定された受検者全員に医師の診断書の提出あるいは適性検査が義務づけられたことであろう.医師の診断書提出あるいは適性検査は通知書を受け取ったのち,「3か月以内」と規定されるようである.2015年の講習予備検査総受検者は1,630,709人であり,第一分類と判断された受検者は53,815人(3.3%)であった.2014年の第一分類は53,082人であったことから,2017年以降も第一分類と判定される受検者が5万人以上に及ぶことは確実である.この5万人以上の受検者全員について,認知症の有無を医師が判断する仕組みになるのである.
適性検査を受け持ってきた筆者の経験から,運転免許に関する認知症診療では,受検者が示す認知機能障害は軽度のことが少なくない(認知症は軽度なほど診断がむずかしい),活発な行動障害・精神症状を示す事例が少ない(これらが目立つ事例は運転免許更新よりも医療機関を受診することが多い,これらが目立たない事例は診断を下しにくい),家族が認知症との視点で本人をみていない(家族からの病歴聴取がしにくい,情報収集が困難),本人自身が診療に前向きではない(自分は免許更新に行ったのになぜ医師の診療を受けなければならないのか不満)などの問題点が浮き上がってくる.実際に筆者の外来では,診療の途中で本人が怒り出して帰ってしまった事例,診察中に激高し暴力行為に進展する寸前になった事例,公安委員会と病院を訴えると威嚇する事例などがしばしばみられる.
次に,今回の改正道路交通法の問題点について考えてみたい.まず,認知症を専門としないかかりつけ医・非専門医が第一分類と判定された受検者について認知症の有無を判断する,すなわち診療をしてくれるだろうか.答えは“No”であろう.したがって,第一分類と判定された受検者の多くは認知症専門医療機関を受診することになると推測される.認知症専門医療機関のもの忘れ外来の待機が数か月に及ぶ現状で,さらに5万人以上の受検者の診療をどう進めていくのか,悩ましい問題である.ただし実際には5万人の受検者すべてが認知症に関して未診断ではないと推測される.かなりの数の受検者はすでに認知症と診断されているにもかかわらず,運転を継続し免許更新を希望しているものと思われる.それを考慮しても,認知症の有無を判断しなければならない受検者の数は少なくないだろう.2番目の問題として,認知症の診断精度を確保することができるのか.筆者は過剰診断が増えるのではないかと危惧している.この運転免許の問題に限らず,最近,認知症の診断が粗雑になってきている印象を強く受けている.
MRIや脳SPECT検査の結果のみでアルツハイマー型認知症と診断された患者をしばしば経験する.認知症ではないが前頭側頭型認知症の可能性があるからサプリメントを購入しなさいと勧められ,疑問を感じた家族が筆者の外来を受診し,病歴や問診,診察から健常者と診断した女性がみられた.免許更新の話に戻るが,認知症か否かが疑わしい受検者に対して,後々トラブルになるのを避けるために認知症と診断してしまう可能性はないのだろうか.たとえば,ある医師が認知症ではないと診断した者が後日交通事故や違反を起こし,別の医師から認知症と診断されたとき,最初の医師の診断の是非が問われるかもしれない.最初の医師が認知症と診断していれば免許証の取り消しがなされ,その後,交通事故や違反を起こすことはなかったとの論理が成り立つかもしれない.それならば,認知症と診断し免許を取り上げたほうが後日のトラブルを生じる可能性がないことから,過剰診断につながる可能性も想定される.診断後にセカンドオピニオンを求めてきた受検者に対する処遇はどうなるのだろうか.
最初の診断がアルツハイマー型認知症であったが本人が納得せずに別に医師の診断を希望したとき,それは可能なのだろうか.その間の免許証の有効性はどうなるのだろうか.
運転免許更新に関する診療を数多く行ってきた筆者の経験から,診断書作成あるいは適性検査を施行するよりも患者さんならびに家族を説得し自ら運転免許証の返納をさせるように診療を進めるほうがトラブルが少ないと最近考え始め,自主返納を患者さんに強く勧めている.
2016/11 老年精神医学雑誌Vol.27 No.11
オートファジーと神経変性
布村明彦
山梨大学大学院総合研究部医学域精神神経医学講座
科学的真理の探究が哲学的真理の深淵をのぞかせることがある.2016年のノーベル生理学・医学賞「オートファジーのメカニズムの発見」(東京工業大学栄誉教授・大隅良典博士)は,万物の営みを「かつ消えかつ結びて,久しくとどまりたるためしなし」と看破した無常観と相通ずるものがある.そう言ったら飛躍が過ぎると感じられるだろうか.「久しぶりですね,以前とお変わりないですね」と言っても実はあなたは「お変わりありまくり」なのです,と分子生物学者・福岡伸一博士は生体の「無常」を平易に説明している.すなわち,生物が生きている限り,身体を構成する細胞の中身は絶え間なく入れ替わりながら,常にバランスがとられている「動的平衡」状態にある,という.オートファジーはこの生命の基本的営みを支える中心的なメカニズムとみることができる.大隅博士の研究概要を受賞決定時の東工大ニュースは,「オートファジーは,細胞内におけるリサイクリング機能です.
細胞が栄養環境などに適応して自らのタンパク質分解を行う自食作用『オートファジー』に関して,酵母を用いた細胞遺伝学的な研究を進めて世界をリードする成果を上げ,その分子機構や多様な生理学的意義の解明において,多大な貢献を果たしています」と紹介している.
1955年にリソソームを発見した細胞生物学者Christian de Duve博士(1974年ノーベル賞受賞)は,1962年,細胞が自己の構成成分の一部をリソソームに送り込んで分解する過程を「オートファジー」と命名した.この過程の詳細はその後長らく謎であったが,大隅博士は酵母を用いた研究によって見事に打開した.まず,タンパク質分解酵素が欠失した酵母を飢餓条件においてオートファジーの光顕観察に世界で初めて成功すると,その過程を電顕レベルで詳細に解析した.続いて,酵母のオートファジー不能変異株の分離からオートファジー関連遺伝子(autophagy-related gene ; Atg遺伝子)を18個突き止め,各Atgタンパク質がオートファゴソームと呼ばれる膜構造の生成に寄与していることを解明した.現在では,オートファジーが飢餓適応に重要な栄養リサイクル機構であること(誘導的オートファジー)にとどまらず,細胞内の老廃物や有害物質を取り除く浄化作用を担うこと(恒常的オートファジー)が注目されている.ここにオートファジーと神経変性との接点が見いだされるわけである.
東京大学教授・水島昇博士は,Atg5遺伝子を神経系特異的に欠損させたマウスを研究した.オートファジー欠損マウスは生後1か月から運動障害を呈するが,脳の神経細胞には広範にユビキチン化タンパク質の蓄積とその凝集が認められ,軸索腫大や神経細胞脱落も観察された.従来このような細胞内品質管理はユビキチン・プロテアソーム系によって行われると考えられてきたが,オートファジーによる協調的作用の重要性が明らかになったのである.Atg遺伝子の変異によってSENDA(static encephalopathy of childhood with neurodegeneration in adulthood)という神経変性疾患が生じることも知られている.Atg18遺伝子のヒトホモログWDR45/WIPI4遺伝子に変異が同定されており,黒質および淡蒼球の鉄沈着と大脳萎縮が認められる.
ノーベル賞受賞の報道では,オートファジー研究がパーキンソン病(PD)やアルツハイマー病(AD)を解明するのに役立つ可能性が盛んに取り上げられた.常染色体劣性遺伝性PDの原因遺伝子にParkin遺伝子とPINK1遺伝子がある.障害を受けた異常ミトコンドリアを選択的に分解・除去するオートファジー機構をとくに「マイトファジー」と呼ぶが,正常なParkinとPINK1は協働的にマイトファジーにかかわっている.変異をもつParkinとPINK1はこの過程が障害されるため,異常ミトコンドリアが蓄積し,活性酸素種が増加して神経細胞が損傷を受けると考えられている.ADについては,Atg6の哺乳類ホモログBECN1の発現低下の報告がある.また,電顕的にAD脳の変性神経細胞内に多数のオートファジー小胞が観察され,内容物が分解されない異常な特徴が認められている.筆者はアメリカ留学中の1999年,ラボの同僚が撮ったAD脳の免疫電顕写真を見て,リソソーム消化の残余体リポフスチンの空胞にミトコンドリアDNA反応が密に存在する像に驚いたことを鮮明に憶えている(Hirai K, et al., J Neurosci, 21: 3017-3023, 2001).
マイトファジーの障害はPDとADに共通の病態である可能性がある.また,α-シヌクレインおよびAβの代謝にオートファジーが関与する可能性や,家族性ADのPresenilin-1遺伝子変異とリソソーム機能障害との関連性も示唆されている.
そのほか,前頭側頭型認知症(FTD),ハンチントン病,筋萎縮性側索硬化症などの病態とオートファジーの関連性についても知見が集積されつつある.老化(寿命制御)の細胞内シグナルとオートファジーの関連も解明されており(本誌第26巻第6号,589-598頁参照),AD,PD,FTDなどのモデル動物では,オートファジー制御シグナルの調節によって神経変性過程を遅延させることに成功している.
2016/10 老年精神医学雑誌Vol.27 No.10
高齢者の5D+E
一宮洋介
順天堂大学医学部附属順天堂東京江東高齢者医療センターメンタルクリニック
1970年,大阪で万国博覧会が開催され,アポロ宇宙船が持ち帰った月の石が注目を集めたが,実はこの年,日本は高齢化率(65歳以上の老年人口が総人口に占める割合)が7%に達し,高齢化社会と呼ばれる国の仲間入りをしたわけである.しかし,当時このことはあまり話題とならず,高齢者問題がマスコミに取り上げられるようになったのは1972年に有吉佐和子氏の『恍惚の人』が出版されてからである.
1981年,筆者は医学部を卒業し精神医学の門をたたいた.学生時代,精神医学の講義では統合失調症や気分障害に重点がおかれ,認知症(当時は痴呆症という用語が使用されていた)については,血管性認知症が代表で,次いで老年認知症(senile dementia),まれな初老期認知症としてアルツハイマー病とピック病があるということを学んだくらいであった.その後,大学院で,飯塚禮二順天堂大学名誉教授(当時,精神医学教室主任教授)にアルツハイマー病研究のテーマを与えられ,小阪憲司横浜市立大学名誉教授(当時,東京都精神医学総合研究所副参事研究員)にご指導をいただき,アルツハイマー病の臨床と研究の仕事を東京都立松沢病院でスタートした.しかし,駆け出しだった筆者には,アルツハイマー病が,医療,経済,社会的に,ここまで重要な問題となることを,このときには想像すらできなかった.
2004年に厚生労働省の通達で,それまで使用されてきた「痴呆症」という用語が「認知症」に改められた.このころから認知症に対する一般の関心も高まった印象がある.1990年代からわが国の人口高齢化は急速に進行し,2005年には高齢化率は20%になり,5人に1人が高齢者という状況になった.このような経過のなかで,認知症,とくにその代表格であるアルツハイマー病の問題が広く取り上げられるようになった.アルツハイマー病の最大の危険因子は加齢であることから,高齢化が進むほどアルツハイマー病が増加するわけである.現在,認知症の患者数は462万人と推計(厚生労働省研究班,2013年)されており,そのうちの約60%がアルツハイマー病である.
2007年から筆者は順天堂東京江東高齢者医療センターで認知症の診療に取り組んでおり,129床のベッドを有する認知症病棟の入院患者数は年間500人前後である.臨床の現場で,認知症との関連や鑑別が問題となるのが高齢者のせん妄,うつ病,妄想性障害である.これらを列記すると,認知症(Dementia),せん妄(Delirium),うつ病(Depression),妄想(Delusion)で,これに薬物(Drugs)を加えると5つのDとなる.さらに,高齢者のてんかんに多い非けいれん性発作も認知症との鑑別を要するので,てんかん(Epilepsy)をプラスした5D+Eが高齢者の精神症状を取り扱う場合の重要なキーポイントになる.
せん妄は意識の障害であり,軽度の意識混濁に,幻覚や妄想などの精神症状を伴うものである.臨床上,認知症との鑑別が問題となる.症候学的には認知症と意識障害は別のものであるが,せん妄のリスクファクターのひとつが認知症であり,認知症患者にせん妄を生ずることも少なくない.さらにさまざまな治療薬物により誘発されるせん妄も忘れてはならない.とくにベンゾジアゼピン系薬剤による離脱せん妄には注意が必要である.
高齢者のうつ病では認知症との鑑別がしばしば問題となる.一見認知症のようにみえるうつ病性仮性認知症には注意が必要である.また一方で,うつ病性仮性認知症を呈したうつ病は認知症へ移行するリスクが高いとの報告もある.とくに血管性うつ病は認知症へ移行する場合があるので慎重な経過観察が肝要である.さらにはレビー小体型認知症では認知症に前駆するうつ状態を認めることがあることを忘れてはならない.
また,高齢者に非器質性の妄想が出現することがあり,遅発性パラフレニーないし遅発性統合失調症と分類されている.一方,認知症も物盗られ妄想や嫉妬妄想などを呈することがあり,妄想が認知症に随伴するものか否かの鑑別が臨床上重要である.
高齢者は,治療薬物の吸収や排泄が悪くなり,効果を得にくい一方で,副作用を生じやすい傾向がある.感冒の治療薬で意識混濁を生じて認知症様の症状を呈したり,胃潰瘍の治療薬でせん妄を起こしたりする場合がある.また複数の医療機関を受診して多数の治療薬を服用していることがあり,薬物相互作用に対する注意も必要である.
2014年にわが国の高齢化率は26.0%に達しており,日常診療のなかで,高齢者の精神症状を取り扱う場面が増えている.その場合には,認知症,せん妄,うつ病,妄想性障害,薬物,プラスてんかんの5D+Eを念頭において評価を行うことが肝要である.
2016/9 老年精神医学雑誌Vol.27 No.9
ロボットが創る介護の未来
都甲 崇
医療法人社団みのり会いなほクリニック
私たちのいなほクリニックグループでは,この6月にARFIT(アルフィット)というリハビリ型デイサービスをオープンした.ここでは,介護サービスに「オーダーメイド・フィットネス」を取り入れた新しい概念の介護予防デイサービスを展開し,クリニックと連携しながら認知症予防にも取り組む.そのなかで今回,コミュニケーション型のロボットによるサービスを導入した.この機会に,ロボットが創る介護の未来について少々思いを巡らせてみた.
ロボットというとソフトバンクのPepper®(ペッパー)などがイメージされやすいが,このようなコミュニケーション機能を有した人型のロボットは現状ではロボットのごく一部である.現在,介護分野で開発が進んでいるロボットは,移乗・入浴・排泄などの介護業務の支援をする「介護支援型ロボット」,歩行・リハビリ・食事・読書など本人の自立支援をする「自立支援型ロボット」,本人を癒したり見守りをする「コミュニケーション・セキュリティ型ロボット」の3つに大別される.そのなかで経済産業省は,移乗介助(介助者のパワーアシストを行う装着型・非装着型の機器),移動支援(屋内外での立ち座りや歩行支援機器),排泄支援(排泄物の処理にロボット技術を用いたトイレ),認知症の人の見守り(センサーや外部通信機能を備えた機器),入浴支援(入浴の一連の動作を支援する機器)を重点分野に指定してその開発を支援している.このように,現在,介護分野で開発が進められているロボットは,センサーや制御装置,駆動装置によって特定の動作を支援したり機能を果たすものが中心である.
コミュニケーション機能を有した多機能の人型ロボットが介護の現場で使われるのはもう少し先の話なのだろう.
オープンしたデイサービスだが,ここでは革新的なサービスに取り組みたいという管理者の思いから,またご縁がありコミュニケーション型ロボットのPALRO®(パルロ,富士ソフト株式会社)を導入した.パルロは簡単な会話ができるほか,高齢者向けレクリエーションの機能が充実していて,クイズやゲーム,体操を行い,利用者をリードしながら懐かしい歌や音楽を奏でることができる.顔の認識機能もあり,私がはじめてパルロに会ったときには「都甲さん,今日はようこそお越しくださいました.都甲さんはクリニックでお仕事をされていて……」と話しかけられ驚いたものだ(顔を認識したうえであらかじめ設定された質問をすることができる).また,なによりも可愛らしいところがいい.
ロボットとのコミュニケーションというと何だかドライだと思われるかもしれないが,ロボットを気にいっている利用者にはそのドライさがよいようである.2015年にオリックス・リビングが行った第8回「介護に関する意識調査」では,約8割の人がロボットによる介護を受けることに肯定的な回答を寄せ,その理由として約9割が「ロボットは気を遺わないから」「本当は人の手がよいが,気を遺うから」と回答した.たしかに排泄の支援など他人に頼むには気を遣うようなことであっても,ロボットに対してであれば気を遣わずに頼めそうである.またコミュニケーションにおいて,ロボットはなにを言っても,何度同じことを言っても怒らない.この点に関して,介護現場でパルロの使用経験が豊富な施設管理者は,「認知症の人のなかには同じ話を繰り返して怒られた経験がある人が多いですが,そういう人にとってはなにを何度話しても怒られないので安心して話せるようです」と話していた.自立支援にしてもコミュニケーションにしても気を遣う必要がない介護ロボットには,介護を受ける人の心理的負担の軽減というメリットもありそうである.
コミュニケーションのなかで認知症予防ということであれば回想法が最も適していると考え,昔の写真,思い出の品などを持ち寄りながら,過去の思い出を引き出すような会話をパルロにしてもらおうと考えた.しかし実際には,パルロから話しかけたり質問をすることはできるものの,相手の会話内容を音声認識しながら会話を発展させることはむずかしかった.現時点では,スムーズな会話のキャッチボールを続けるほどには発達していないのである(繰り返しになるが,簡単な会話は可能であることをパルロの名誉のために付け加える).国内の他の研究機関でも会話ロボットによる回想法の開発が行われているが,会話内容の音声認識というのはやはりむずかしいようである.しかしながら,愛らしいパルロはすでに利用者の人気者となっており,利用者はパルロとコミュニケーションをとることで頭と身体に心地好い刺激を受け,認知機能に何らかの好影響をもたらすことは期待できそうである.その成果を実証することができたら,パルロとの共著で本誌に投稿したい.
2016/8 老年精神医学雑誌Vol.27 No.8
ダブルケアとワークライフバランス
中村紫織
湘南病院
ワークライフバランスという言葉は内閣府によれば「仕事と生活の調和」とされ,「国民1人ひとりがやりがいや充実感を感じながら働き,仕事上の責任を果たすとともに,家庭や地域生活などにおいても,子育て期,中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる社会」と定義されている.老若男女だれもが対象である.
しかし,自分が女性であるせいか,男性よりも女性のほうがそのバランスの取り方はむずかしいように感じている.男性は学業を修め就職したら多くの時間と労力を仕事に注ぐことができる.結婚しても子どもができても,それまでとほとんど変わりなく仕事に従事する人が多い.一方女性は,学生時代は男性と同様に努力して成果を得ることを目標にしてきたのに,社会に出ると性差の大きさを思い知る.結婚すればほとんどの女性が姓を変えることになり,家庭と仕事の両立に悩まされるようになる.仕事におけるスキルと立場を獲得すべき研鑽の時期は,ちょうど妊娠・出産の適齢期に重なる.育児をしながら仕事を続けようとすれば,保育所不足の壁にぶつかる.運よく保育所に入れても,集団生活にさらされてまもない子どもはしょっちゅう発熱し,預けられない日々が続く.健康であっても夕方には迎えに行き,夕食を食べさせ,入浴させ,就寝させるという生活リズムを守らねばならない.夜勤ができないのは当然だし,帰宅が遅くなることも許されない.職場には頭を下げ通しである.
やっと子どもが就学しても,学童保育は保育園よりも預かり時間が短く,そのうえ,授業参観・懇談会・個人面談があり,さらにはPTA活動への貢献を求められる.学校にもよるだろうが,1人の子どもにつき毎年何らかの係を,6年間で一度は委員をしなければならないというルールがあるという話をよく聞く.PTAの委員ともなれば,学校に出向く頻度も高くなり,そのつど仕事に穴を開けることになる.自身のスキルのブラッシュアップなどままならない.
政府は少子化対策だ,女性活躍推進だ,一億総活躍だとかけ声は大きいが,子育て支援制度は不十分である.そして,制度があったにしても,それを活用するためには周囲の理解と協力も必要である.学校行事の出席者,PTAの役職者は,圧倒的に女性が多いが,女性が会社における重要プロジェクトのリーダーに就いた場合,納期の近い殺気立った時期に,たとえば「子どもの学校で草取り係をするため休みます」というのは,有給休暇の範囲内だからといって,現実的に可能だろうか.近年は男性の収入も右肩上がりというわけではなく,いまや専業主婦よりも有職主婦のほうが多くなっている.学校やPTAも行事や役職を見直して必要性の高いものに絞り込む,有職者が参加しやすいよう活動時間帯を工夫するなど,変革の余地があるのではないか.
そんなことを日々考えていたなか,今年の4月下旬,新聞の見出しに釘づけになった.「育児も介護も 25万人」という記事であった.子育てと家族の介護に同時に直面する「ダブルケア」をする人が,全国で少なくとも25万3000人いるという.この「育児」の対象は未就学児ということだが,育児は就学時点で終了ではないので,実際に育児と介護を両立している人はもっとずっと多いということになろう.ダブルケアとは,横浜国立大学の相馬直子先生,英国ブリストル大学の山口順子先生によってつくられた言葉で,両氏は晩産化,少子化,高齢化が進むことで今後の日本の大きな社会問題になると警鐘を鳴らす.女性の社会進出に伴い,結婚・出産年齢が高齢化し,兄弟数や親戚ネットワークが減少して,介護の担い手が不足している.親世代の長寿化で子育てと介護を同時進行で担うことになり,肉体的,精神的な負担が増し,教育費用と介護費用を捻出する時期が重なり経済的苦境を招くケースもあるという.子育て支援と高齢者介護を別々のものとしてではなく融合することが必要だと両氏は言う.
男女雇用機会均等法が施行され,女性にとっては社会進出の門戸が開き,自己実現のチャンスが広がった.しかしそれは,家事,育児,介護,仕事と,女性の役割を増すことにもなった.これらをバランスよくこなすことは,かなりむずかしい.一方,男性に目を向ければ,長時間労働が常態化し,育児に積極的に参加したい人でも,職場の風土として育児休暇が取得しにくいという問題も耳にする.また,シングルファーザーとして仕事と家事と育児に追われる人への支援は乏しかったり,独身で介護を担うことになり離職を余儀なくされ困窮する人もいたりする.今後増加が予測されるダブルケアの対策も含めて考えると,男女家事育児介護参加機会均等法とでもいうものを新設し,男性であれ女性であれ,軸足を仕事におく時期,育児や介護に注力する時期を柔軟にシフトできるようにワークライフバランスを調整できる仕組みが必要ではないだろうか.
2016/7 老年精神医学雑誌Vol.27 No.7
熊本地震お見舞い,そして少子化の意味について
一瀬邦弘
聖美会 多摩中央病院
カメラが動いて熊本城を写し出し,ライトアップされた天守閣が土煙に囲まれているのが見えた.2日後の本震のあとではまさに文字どおりの瓦解で,2つの鯱を含めて天守瓦のほとんどが姿を消してしまっていた.1877(明治10)年2月19日午前11時10分,熊本城内で突然火の手が上がり,天守閣をはじめ城内の建物が消失した.迫る薩軍に対して,熊本鎮台の谷干城司令長官が籠城の方針を決めた最中である.寒風のなか火は城下へも延焼し,「日が沈むころ,火勢はますます募った」と城下に育った石光真清は書いた.この火災は薩軍の放火,あるいは鎮台側の自焼,「怪し火の由」失火とさまざまにいわれている.同じ日の朝9時に八代の日奈久を発した薩軍が熊本に迫っていた.六番隊病院掛の児玉実義は日記に,「熊本方角に向いて黒烟天にたなびけり,決まって出火ならん」と記している.6年前の第25回日本老年精神医学会の折,ホテルの部屋から飽きずに眺めた夜の熊本城が,今見るも無残である.
2週間後に通行止めとなっていた九州自動車道(植木インターチェンジ〜嘉島ジャンクション間)は,通行止めを解除された.ここから10 kmほど南下すると熊本城である.久留米方面から南下して攻める政府軍と北上する薩軍との攻防戦で名高い田原坂がある.両軍にとって攻めねばならぬ,あるいは守らねばならない交通上の要衝であった.今回の地震と西南戦争での熊本城包囲開通戦のときの地名がよく重なるのはなぜだろうか.この城にまつわる日本近代化の歴史と,阿蘇や不知火海の自然は熊本の大きな魅力である.
丹精込めた麦畑の畝が5列分ほど,地割れでずれているのをテレビ映像で見た.今まで地震は,大きなエネルギーが歪みとして蓄積され,それが一気に解放された動きであると考えられてきた.その動きがさらに新たな歪みを生み,それが次々と地震が連鎖する原因であると言う人がいる.まるで永久運動機関説を連想させる説である.阿蘇の火山灰(含水層)と粘土層の多層性構造に断層破壊によって,水の動きによる重心の移動が起き,これが新たな岩盤破壊の引き金となっているのかもしれない.さらなる連鎖が南西の八代市,北東の別府湾,そして阿蘇中岳の再噴火へと連ならないよう,強く念ずるばかりである.
この熊本地震は,典型的な内陸直下型地震で大分島原地溝帯に起きた横ずれ断層だという.地下の岩盤が長さ18 km,幅10 kmにわたって60 cmほどずれた,と鎌田浩毅京都大学教授は言う.素人目にも明らかな特徴は地震が連鎖していることである.これによる死への恐怖と不安は深睡眠を分断し,人の精神や身体の健康に与える影響は大きいと思われる.地震発生から5週間後に熊本市から上京した義妹は,東京で3泊したのち,やっと“陸揺れ感”がなくなってぐっすり眠れたと語った.
この悲惨な出来事で亡くなられた方々に心からのお悔やみを申し上げたい.それだけでなく,引き続いて避難先で不安のなか不自由な生活を強いられ,心の不調を感じられる方々を思うと言葉がない.
さて,近頃頭に引っかかっている疑問を述べたい.それは少子/高齢化は一括りにいわれているが,根は一つなのであろうか,たまたま軌を一にして別々の現象が起こっただけなのだろうか,ということである.
高齢化と対句でいわれる少子化とは結婚数の減少,晩婚化の進行,高年齢産婦の増加と,妊娠の高齢化も含んでいる.こうした統計でみられる数字は,かつて身近でともに苦闘していた総合病院産婦人科医のおかれていた状況と重なっている.医学が進歩するにつれて不妊外来の繁盛,排卵促進薬による多胎の増加,ハイリスク分娩の増加,未熟児数の増加などを含みつつ,にもかかわらず結果として子どもの数が少ないという事態が起きている.異なった夫婦の間で次代に寄与する子どもの数の間に差が少なくなってくると,厳密な意味での自然淘汰が減少する.このため長い進化の過程のなかで,淘汰による除去と突然変異による新生が釣り合う状態で,低い頻度で保たれてきたバランスが傾く.過去には有害であった遺伝子が医学の進歩によって自然淘汰に中立となり集団中に固定するようになる,と木村資生は警告した.核家族化はますます進行し,1世帯あたりの人員(2015年国勢調査速報値)は2.38人になった.少子化の問題とは,われわれの作り出してきた家族制度の衰退と富の再配分の失敗に起因するミームの問題なのだろうか.
高齢化については,本学会が30年も前から警鐘を鳴らし,戦後生まれのベビーブーマーの数がその下の年代と比べておおまかに3倍にもなるために歪みは社会的にも大きいことから注目されている.少子化と高齢化が同根かどうかは,はっきりとはわからないが,少なくとも同じ時期に起きているので,相互に干渉し合って2つ玉低気圧のようにわが国の社会全体に大きな影響をもたらすと考えられる.
2016/6 老年精神医学雑誌Vol.27 No.6
超高齢者の軽度認知障害と今後の人生
高橋 恵
北里大学北里研究所病院精神科
超高齢社会に突入したことを診察室でも実感することが多くなった.外来に認知症の診断を求めてくる超高齢者が多くなったからだ.超高齢者ではさまざまな病態が混在していることが多い.したがって,認知機能に関しても身体的,精神的,環境など多くの視点から現状を評価する必要がある.超高齢者では軽度認知障害(MCI)の診断が多いが,実は認知機能の標準をどこにおくのか,どこから社会機能の障害と考えるのかは迷うことが多い.オートロックが使えないことは都会では社会機能障害になるが,90歳でもそう考えるべきなのか疑問をもつのだ.なぜなら,超高齢者の正常に関するコンセンサスはいまだないからである.
軽度認知障害(MCI)は,認知症の前段階と考えられているが,臨床診断上はさまざまな病態を含んでおり,いくつかの調査から認知症への移行率は年10%程度とされている.また数年の追跡により,正常化してしまうこともある.理論的にはいくつかの神経変性疾患による認知症への進展の前段階が含まれている状態からなるが,高齢者ではさまざまな病態が混在していることも珍しくない.最終的な病理解剖により,どの病態が最も認知機能低下に関与したのかを丁寧に検討することが大切な視点であり,これにより,昨今の画像診断の進歩による病態把握との整合性が確認されていくことになる.認知症の脳内の変化は加齢に伴う変化と共通しているが,どこから異常と判断するのかは,超高齢者になるといままでの標準をそのまま使用してよいのかもわかっていない.疫学調査やブレインバンクからの成果が積み重ねられていくことが必要である所以だ.昨今の画像診断技術の進歩とともに,アミロイドの蓄積のみならず,タウタンパクの蓄積も可視化できるようになり,最先端の診断技術を用いれば脳の中で起きている病態をかなり正確に把握することができるようになってきている.
しかしながら,一般臨床でのこれらの技術利用は高価であることや検査装置の管理の問題から,標準的な診断法とするには無理がある.やはり経過,症状と神経学的症候や簡便な画像診断である程度の正確な診断をすることが医療経済学的には必要であろう.現在のところMCIへの薬物治療の適応はないが,超早期の認知症が診断できるようになったとしても,その治療法がどの年齢層でどの程度推奨すべきかを明らかにすることは,これからの解決課題である.
近年の認知症施策においては当事者の意見をいかに反映させていくかも大きな課題となっている.MCIや軽度認知症の診断をされたときに,絶望でなく,希望につないでいく工夫が求められている.これには2つの方向があると思う.比較的若い60〜70歳代で認知症の診断をされたときに,したいことを実現できる仕組みづくりが必要と考える.働きたいというのならその願いをかなえる方法を考えたい.また,85歳を超える超高齢者が徐々に社会との接点を失って孤立していくことを防ぐことも喫緊の課題である.高齢になるほどさまざまな喪失体験をして,社会とのつながりが薄れてしまうことは避けられない.そして,新たなつながりをつくることにためらいをもつ人が多い.その結果,どうしても配偶者や兄弟,友人がいなくなると孤立してしまいがちである.そして多くの超高齢者が諦めのなかで「早くお迎えがきてほしい」と話されることにとても悲しみを感じる.なぜこの長寿の国で長寿であることが幸せと実感できないのか,日々の臨床のなかで考えさせられてしまうことが多い.街角の取組みがこの問題の解決になっていってほしい.
もう1つの課題として,人生のクロージングが挙げられる.私の臨床フィールドでは一人暮らしの高齢者が多く,日々の臨床のなかで,時々どのように人生に終えたいのかを尋ねている.どこかで本人の意思を確認することも必要だと考えるからだ.本人が考えられるときに一緒に検討できると本人が安心する様子をみせることもある.最近は,「終活」などの言葉ができ,自分の人生の終わり方を考える人も多くなった.自分の人生の最期を考えるときと親や配偶者である家族の人生の最期を考えるときはやはり違う考え方になることも多い.認知症の人の最期の医療はどうしてもその病態から家族が決めざるを得ないことが多い.そのときに以前本人がどう考えていたかを知っていることはそのときに判断する拠り所にもなる.認知機能について評価を希望したときに今後の人生についてどうしたいのかを本人と一緒に一度考えるのも一つのいい節目と感じる.その後も折にふれて家族とそのような話ができるとよいだろう.
軽度認知障害(MCI)を特集した本号が超高齢者の生活の充実に貢献することを願っている.
2016/5 老年精神医学雑誌Vol.27 No.5
認知機能が低下した人の安全な暮らしのために
成本 迅
京都府立医科大学大学院医学研究科精神機能病態学
「都会で老いることは危険だ」という言葉を聞いたことがある.判断力も体力も低下した状態で,都会で生活していると,振り込め詐欺や違法な訪問販売など,さまざまな犯罪の被害に遇ったり,事故に巻き込まれたりする危険を感じるのだと思う.たしかに外来をしていると,都会に限らず認知機能が低下した高齢者が,その判断力の低下ゆえに被害に遭っていたり,遭いそうになったりする事例に出会う.記憶障害が主体の軽度アルツハイマー型認知症の独居女性が,自分のお葬式のことが心配になって,葬儀会社と生前からの葬儀契約を結んだ事例があった.実際には生活保護を受給していてそのような経済的な余裕はなく,ケアマネジャーが気づいて葬儀会社に解約を掛け合ってくれた.難色を示されたそうだが,粘り強く交渉して結局解約に応じてもらったそうである.たしかに記憶障害のみで身なりは整っており,取り繕いもあることから,認知症に関する知識がなければ葬儀会社の社員もとくに疑問を抱かず契約を結んだのかもしれないが,逆に取り繕いを利用して,こちらの思うままの契約を結ばせることも可能であろう.
本人は契約したことをすっかり忘れていて,ケアマネジャーが請求書に気づかなければずっと口座から引き落とされて,生活が困窮していたかもしれない.同じくアルツハイマー型認知症の独居女性.ずっと移動販売の魚屋から魚を届けてもらって購入していた.バスに乗らないと買い物に行けない地域に住んでいて,認知機能の低下のために買い物に行くのがむずかしくなっていたので,地域生活を支えるありがたいサービスだと思って聞いていたが,その後ケアマネジャーから,どうも高価な魚を買わされているようだという話を聞いた.
NHKと成年後見センター・リーガルサポートが2010(平成22)年に成年後見人を対象に行ったアンケート調査では,後見人(保佐人・補助人)を務めた高齢者のうち22.6%がすでに何らかの権利侵害を受けていたと報告されている.明らかな詐欺や経済虐待に加えて,上述のようなグレーゾーンの事例も加えると,相当な数の高齢者が被害に遭っていると考えられる.独居高齢者の増加やコミュニティの崩壊で,せっかくの老後の備えをとられてしまってつらい思いをする高齢者が増えていくのではないかと心配している.新オレンジプランでは,認知症になっても住み慣れた地域で生活し続けることを目指しているが,住み慣れた地域が弱肉強食の危険な地域であれば認知症の人の幸せにはつながらないだろう.老年精神医学の立場から,安全な暮らしを支えるにはどうしたらよいのか,行政,法律家や経済学者とともに考えていくことが重要だと考えている.
一億総活躍社会や生涯現役社会の取組みのなかで,高齢者の社会参加をいっそう進めていくことは重要なことであるが,一方で一定の割合で認知機能が低下してくる高齢者が出てくることは避けられない.株取引や元本保証のない金融商品の購入といった財産形成のための活動も多くの高齢者が日常的に行っているが,判断能力が低下していることに気づかれないまま損失を出してしまっているケースがある.インターネットで株取引をしているようであるが,取引内容を家族が把握していないことも多い.今後,いっそうインターネット取引への移行が進むことが予想されるが,窓口での取引きよりも金融機関が異変に気づくことはむずかしい.サイバースペースでの高齢者の安全についても今後は考えていく必要があるだろう.FinTech(Finance Technology)と呼ばれるITを用いた新しい金融サービスが注目を集めているが,うまく応用すれば高齢者の取引きの安全性を高めることにも使用できる可能性があるのではないかと考えている.
急速なテクノロジーの進歩に,高齢者,とくに認知症高齢者が取り残されることがなく,むしろその恩恵に浴することができるようにするために老年精神医学が果たす役割は大きいと思われる.金融機関やICT関連の民間企業とは,これまで縁が薄いわれわれ老年精神医学専門家であるが,今後は積極的に連携を模索していくことを提案したい.
2016/4 老年精神医学雑誌Vol.27 No.4
メモリークリニックの認知症医療への期待
井関栄三
シニアメンタルクリニック日本橋人形町
私事で恐縮であるが,定年を数年前にして,今春から30年あまりの長い大学生活に別れを告げて,クリニックを開くことになった.横浜市立大学と順天堂大学の精神医学教室でお世話になったこの間,私は大学で診療と研究,教育を行ってきたが,後半は老年精神医学を専門として,そのほとんどを認知症医療に費やしてきた.
病院勤務医が開業を決意する理由は人によりさまざまであろうが,私自身は大学病院という大きな組織のなかでの医療に疲れを覚えたことが主たる理由であった.研究や指導が好きで大学に長くいたこともあり,自ら研究する力がなくなったと感じたときが大学から離れるときであり,ほかのことに煩わされずに,こうありたいと思う認知症医療に専念できるクリニックを開くことが望ましいと考えるようになった.
認知症医療については,厚生労働省の新オレンジプラン(認知症施策推進総合戦略)で,役割分担と連携の制度が提唱されている.ここでは,かかりつけ医がまず認知症の気づきと受け入れ,日常の医学管理,患者や家族の支援の機能を担い,次に認知症サポート医がかかりつけ医や介護専門職に対するサポート,多職種の連携,かかりつけ医の講習や地域住民の啓発を行う.すなわち,認知症サポート医はかかりつけ医の機能と専門医の機能を併せ持つことになる.しかし,認知症サポート医は一定の講習を受けて認定されるが,専門医としての訓練は積んでおらず,鑑別診断や専門的な治療を行う専門医と同列にみなすことはできない.さらに,専門施設である認知症疾患医療センターがかかりつけ医や認知症サポート医と連携して専門医療の提供を行い,地域包括支援センターや介護専門職とも連携を行う.ただし,認知症疾患医療センターにいる専門医は,地域により差があるものの数は限られており,認知症医療の幅広いニーズに応えることは困難である.
ここに,専門施設ではないが,鑑別診断や専門的な治療を行う専門医のいるメモリークリニックの必要性が生じる.新オレンジプランの認知症医療の改革はすでに進行中であるが,いまだ役割分担と連携が十分機能しているとはいえず,メモリークリニックの位置づけはなお明瞭でない.
メモリークリニックで認知症患者を診る場合,診療科としては,精神科,神経内科,老年内科,さらに脳外科の医師が診ることになる.このなかで,私のような精神科医がメモリークリニックを開く場合は,認知機能障害のみならず認知症の行動・心理症状(behavioral and psychological symptoms of dementia ; BPSD)の治療も可能である点,薬物療法のみならず精神療法や家族療法が可能である点などが,メリットとして挙げられる.また,認知症医療を,専門施設で高度な診断と治療を行う専門医療の立場と,クリニックで患者や家族に寄り添った治療を行う実地医療の立場に分けることもできる.これは,認知症の病態機序を解明して初めて根本治療が可能となるという立場と,認知症は根本治療ができなくとも認知症をもつ生活者としてサポートしていくことが大切であるという立場にもつながる.
通常,認知症患者をクリニックで診る場合,認知症疾患医療センターで行う専門医療は困難であり,外来で対応可能な患者の治療や家族のサポートを行うかかりつけ医の立場が多い.私自身は,認知症は疾患である以上,可能な限り早期に診断して,新しい治療法の開発とともに早期からの治療を行うべきであると考える.クリニックであっても,専門施設と連携しながら,早期診断や治療などこれまでと同様のレベルの認知症医療を行える専門医としての立場を大切にしたい.一方,福祉行政と密接に連携をとって,これまで以上に患者や家族に安心してもらえる認知症医療を行うことができればとも思う.
認知症医療における専門医療と実地医療は決して相反するものではなく,専門医としての能力とかかりつけ医としての心配りができるメモリークリニックは数少ないことから,今後の認知症医療のなかでさらに重要な役割を担うことが期待される.
2016/3 老年精神医学雑誌Vol.27 No.3
老後について
武内廣盛
国立病院機構 さいがた医療センター精神科
ごくあっさりとした表題で,老後を考察した.もとより私的な管見だが,一臨床医の可能性を熟慮した結果である.
「お一人様とご家族様」
ご家族様よりはご一行様のほうが対語としてふさわしいかもしれない.先日の新聞報道を俟つまでもなく,概して老後はお一人様に幸せ度が高い.たしか老年自殺もご家族様に多かったように思う.ご家族様にはリスクが多い.配偶者,子孫,親戚などリスク山積だ.そこをうまく潜り抜け,バランスのよい比較的自由な老後を迎えるのは至難の業である.そもそも家族には,はなから何らかの期待が込められている.だれも彼もがいっせいに期待するのだから,その重圧はたいへんなものであろう.人間のもつ欲望のあらかたがそこにはありそうで,欲望の礎と考えてもたいして外れていないように思う.こうやって欲望に関する多くを抱えているわけだから,ご家族様にご苦労の多いことは合点がいく.そうであれば,家族の欲望を鎮め,構成員の自由度を増すことが,今後に求められることは容易に想像がつく.つまりは,欲望をコントロールし,自由を束縛しない叡慮をもちつつ,家族を構成する方向にいければよいだろう.でも,言うは易く,現実は矛盾をはらみ,実現への道のりはとてつもなく険しい.
「孤独と孤立」
認知症と診断されてからの問題に,デイサービスに出るか出ないかがある.大勢は出ることになっているので問題はない.一部渋る人たちがいて,参加に一工夫がいる.配偶者に一緒に出てもらったり,知り合いの仲良しに誘ってもらったりする.これで大体8割以上は参加する.参加はほぼ前提で,出ないという人に裏技でも仕かけなければ,無能をさらけ出すことになりかねない(ような雰囲気になる).デイサービス参加を渋るのは男性に多い.世間体(が悪い),必要(求めるもの,解決するものがない),居場所(ただ何となくいて,何となく話す)などの問題が,男性高齢者をためらわせ,敬遠させている.送り出し方を工夫し,迎える方も策を練る.選択に幅をもたせ,自由度を増してみる.ぽつぽつと参加して,よかったという人もある.しかし,頑として,てこでも動かない人がいて,近頃,こうした順わぬ人々にある種畏敬の念を抱きかける.孤独に耐え,孤立をいとわない孤高の存在なればだが,ほとんどはそうではなく,家族の苦慮にあらがっていることが多い.ある年齢からの共同体処遇の覚悟の気持ちを涵養する必要を感じることが多い.
「老後の主体性」
多くは健康に左右されるが,それだけではない.病気だって主体性はもてる.配偶者と暮らす老年期のうつでは,逆説めいて女性向きであるが,うつに身を任せて決してあらがわない心情が,あえかでいて崩れない主体性につながる.嫉妬妄想も,老年期の女性に至ると,妄想か否かは判然としなくなる.「どうしたいのですか」などと尋ねると,「出て行ってくれるといいのですが」とのたまったりする.なかには,応援団や後援者が控えていて,早くも次なる主体性の発露がすでにして備わっている場合すらある.認知症とせん妄では,主体性を自覚しにくいので無理のようだが,隷属性や束縛性の認識も薄れているので,そもそも主体性云々の枠を,無意識裡に別空間に移動してしまっている.統合失調症はどうであろうか.最も困難な人生を生きて,老年にたどりつく.締めつけていた,または締めつけられていた箍が緩々になり,彼女自身も息子さんお嫁さんもにこにこと楽しげな顔になっている.もっとも両親は,はるかな昔に亡くなっているのであるが…….
「そして老後」
何としても,老後にたどりつくのである.悟りきった,思いを残した鬼気迫る,枯れ果てたなど多種多様.選んだようだが決してそうではない.必ずたどりつく.幼年期,少年期,青年期,壮年期,老年期と並べると,初めと終わりに自由さは制約されている.制約の度合いには,多くの要因が関与している.偶然も必然も,主体性も従属性も,個人主義も共同体も,人によりさまざまな程度に関与している.今かりに不条理と呼ばれるものが,その制約の度合いをブレンドしているのである.自由さの度合いを決める主体的な拒絶と受容など考える間もなく,終わりのほうの何でもありの瀬戸際が,遠慮も会釈もなく,ぬっくりと早くも立ち現れようとしている.医学であるような,スピリチュアルでもあるような,はなはだ茫漠とした最前線のなかで,そのような考えも及ばない眩い体験が煌めき出す.
最前線の一臨床医には,初めと終わりの何でもありの間の,ほんの束の間の,自由を守る役割が与えられている.
初春や 象の群れおり ひっそりと
2016/2 老年精神医学雑誌Vol.27 No.2
認知症診療雑感
地引逸亀
金沢医科大学名誉教授,加賀こころの病院
2010(平成22)年3月に大学を退職して加賀市の大聖寺駅の近くにある私立の単科精神病院「加賀こころの病院」に勤めるようになってから早6年が過ぎようとしている.毎日金沢から特急で加賀温泉駅までの約30分の電車通勤であるが,最近の北陸新幹線の開通の影響で客足が増えて自由席の空席を見つけるのに一苦労している昨今である.
どこの精神科病院でも同じであろうが,当院での最近の外来診療では近年の高齢化社会を反映して認知症患者が著しく増えている.また200床余の当院は精神疾患の急性期病棟や療養病棟,重症の身体疾患を併発した際に入れる合併症病棟の機能的ユニットに分かれるが,もちろん約50床の認知症病棟もある.近隣では約100床の老人保健施設や約80床の特別養護老人ホームも運営している.加えて,当院が厚生労働省の事業である認知症疾患医療センターにもなっていることから,私の日々の診療における認知症とのかかわりは大学時代に比べていたって増えている.ここでは,この日常の認知症診療からとくに印象深い症例や,考えさせられた事柄を述べさせてもらうこととする.
認知症のほとんどはアルツハイマー型認知症であるが,時々遭遇する他のタイプの認知症も興味深い.当院に来てから意味性認知症(semantic dementia)の4例目に出くわし経過を追って4年になる.言語理解の障害が進み当初はまだ可能であった会話が今はほとんど成立しなくなっているが,仮名の読み書きはまだ可能で(漢字は自分の苗字も困難)語義失語類似の全体的な病像はまだ保たれている.「わが道を行く(Going My Way)行動」の顕著な前頭側頭型認知症は当院に来てから3例診ている.レビー小体型認知症は珍しくはないが,幻視や軽度の認知症で初発し当初はMIBG心筋シンチグラフィーでも確定できなかったが,約1年半後に明らかな両上肢の筋強剛が出現してきて確定できたケースはまれな症例と思われた.また,42歳のダウン症候群に合併した早発性のアルツハイマー病の1例には驚かされた.本例は従来遂行できていた施設での作業や入浴,トイレなどの生活習慣ができなくなり,興奮や介護抵抗,重篤な便秘と尿閉がみられて受診したケースであるが,金沢大学病院に紹介して診断や治療を受けていただいた.
MRIでの両側海馬の著明な萎縮と髄液のリン酸化タウタンパク/Ab42比の高値が決め手になったように思う.記憶障害よりも行動変化や情動変化が前景にみられた点や,低用量のドネペジルで自発的な排尿が得られて病状も安定した点など,教えられたケースであった.
アルツハイマー型認知症の周辺症状として「家にだれかいる」妄想が多いことに最近,驚いている.「自分の寝床に精液のようなシミが見られた」など視知覚に関係したり,「娘と似た人物がいる」などカプグラ症候群様であったりする.これらの妄想は通常は比較的低用量の抗精神病薬で消失・改善できるのであるが,今,60歳代発症の難治性の言語性幻聴とこれに基づく被害妄想を主とするケースの治療に苦心している.幻聴は卑近な近所の人の声で患者に対する悪口や誹謗であるが,しばしば命令調のこともあり,これに対する<させられ体験>や行動化もみられたりする.頭部CTにて脳萎縮はあるがほぼ年齢相応で,改訂長谷川式簡易知能評価スケール(HDS-R)は24〜25点で軽度認知障害(MCI)がみられる.認知症の前駆的な幻覚妄想状態など器質的なものか,あるいは人生後半期の内因性の精神病(遅発性パラフレニーや遅発性統合失調症)か,診断にも苦慮している.
アリセプト®をはじめとする抗認知症薬を投与するようになって久しい.しかし患者や家族にこの薬の効き目を理解させるのはむずかしい.まれに服用後すぐに「寝てばかりいたのが草むしりや散歩をするようになった」など自発性が出たり,せん妄や不眠が改善したりして効果が明らかにわかる場合はよいが,大方は投薬によるはっきりした変化はない.「認知症の予防になっていて薬を服用しない人と比べると進みが遅いことがわかっているのですよ」という医師の言葉を信じて漫然と服用しているわけである.時にはもの忘れが改善するものと勘違いして変化がないことに不平を言う患者や家族がいる.私などは半年ごとにHDS-Rを施行して,得点にあまり変化がないか1点でも増えていれば薬の効果もあるようなことを言って喜ばせたりしているが,もとより根拠のないお為ごかしである.
認知症末期に食事が経口摂取できなくなった場合や身体合併症が起きたときなど,主治医として最善の診療を勧めても患者家族が同意せず医療側としては不本意な診療で甘んじる場合がある.看護師など慣れてくるとあまり気にしない人も多いが,患者や家族がよりよい治療を求めて入ってくる大学病院から来た私としては,かなり苦痛に思うケースが時々ある.このような問題は老人保健施設や特別養護老人ホームなどではさらに多いにちがいない.ただし,認知症患者本人があの世でどう思っているかはだれにもわからないむずかしい問題ではある.
2016/1 老年精神医学雑誌Vol.27 No.1
「レビー小体型認知症からの復活」への疑問
須貝佑一
浴風会病院精神科
認知症の早期診断が可能になったこともあり,認知症と告知された本人がその思いをさまざまなところで語り始めている.筆者を含め,認知症を専門としている医師も毎日,認知症の人と向き合い,その声に耳を傾けて診療を続けているが,彼らはその場では語りきれない思いを家族から,広く社会一般の人に向けて発信しているともいえよう.
そのような声が書物になり,マスメディアに登場して一般の人の目にもふれるようになった.喜ばしいことである.そのような折,筆者は一冊の本に出会った.『私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活』(樋口直美著)である.著者は53歳の主婦.日記をまとめたもので,あらすじはこうだ.30歳代から幻視をみた.41歳(12年前)でうつ病と誤診され,抗うつ薬(パロキセチン)の服用で重い副作用が生じた.そのため投薬はアモキサンに変更されて重い副作用は軽快したが,6年間治療は続いた.それでもうつ状態は軽快せず,50歳で幻視を自覚したため,自らレビー小体型認知症(DLB)ではないかと疑い,別の総合病院神経内科で検査を受けた.しかし,画像を含めてほぼ正常であったため診断には至らなかった.2012年10月のことであった.さらに別のクリニックを訪ね,うつ状態,自律神経症状,幻視という症状のみから「若年性DLB」との診断を受けて治療を始めた.1年半の治療により症状は消え,現在,認知機能は正常に回復した,というものである.
2015年1月には東京で行われた「レビーフォーラム2015」にパワーポイントを使って講演を行い,以後,この1年間忙しく講演活動で飛び回っている.この本は2015年度日本医学ジャーナリスト協会賞の書籍部門にて優秀賞を受賞したのである.
筆者はなかを読み進めるうちに,いったいこれは変性疾患であるDLBといってよいのか,という疑問にぶつかった.繰り返し読み直してみて気づくことは,「認知機能は正常に回復した」と著者は述べるが,この日記のどこにも認知機能が低下しているという客観的根拠が見当たらないのである.「うつ病が誤診である」と言う医師も,「認知障害がある」と告げる医師も登場しない.家族さえも気づいていない.DLBであろうという推測で治療を受けている.そして最も重要と思われたのは,本人は認知症治療とは別に,橋本病ないし甲状腺機能低下症を患って,ほかの病院で治療を受け続けていたことである.一貫して進行らしき症状がない.ひょっとしてこれは本人の思い込みで出来上がったDLBではないのか,という思いに至ったのである.このままでは,本人に「故意」や「悪意」がなくても,一般の人々やマスメディアに誤ったメッセージを送り続けることにはならないか,という思いに駆られた.
2015年9月以降,何回か講演会を聴講した.2015年11月6日,日本記者クラブで行われた記念シンポジウムにも出かけ,短時間ではあるが直接本人にいくつかの疑問点を質すことができた.そして,本に書かれた事実を時系列で整理し,見直した結果と照合してDLBとみなすのは早計であろうという結論に達した.
著者本人が本のなかでもふれているように,DLBとの診断は受けていない.そうかもしれない,という程度である.初診時,頭部MRI正常,MIBG心筋シンチグラフィー正常,脳SPECTでは前頭葉の血流低下.Mini-Mental State Examination(MMSE)は計算ミスのみであった.パーキンソン症状もなかった.あるのは自覚症状のみである.彼女がこの12年間一貫して感じている不調は自律神経症状と「うつ」.むくみ,横になるほどのだるさ,寒気,体温低下,起立性低血圧,声が出にくい,食後の眠気と“爆睡”である.幻視は主に小さな虫で,それも数秒ちらついては消える.2012年4月に体調不良と関節痛で受診した病院では橋本病とされた.甲状腺機能低下症の治療が始まったばかりの2012年10月9日に神経内科を受診したという経緯である.その間にも甲状腺機能は「また低下したと言われた」(2012年10月6日)という.
神経内科の結果はDLBを裏づけるデータではなかった.その後「なにを買ったらよいかわからなくなる」といったうつ病によくみられる思考が停止するような感覚を何度も経験,記載している.そして,これらこそが,DLBの「見当識障害」「意識障害」「認知の変動」ではないかとして2014年9月ごろまで悶々と思い悩むというのが,この日記である.本人に確認したが,MMSEは毎回満点だという.おわかりと思うが,これはうつと自律神経症状の出現,虫の幻視等々は粘液水腫に近い甲状腺機能低下症で十分説明ができる.うつ病はもともとあったのかもしれない.回復はうつ状態と甲状腺機能の正常化によると考えるのが自然であろう.DLBか甲状腺機能低下による症状精神病かの決着がないままDLBだと思い込み,突っ走った.臨床診断はどの病気の蓋然性が高いかを確かめるプロセスでもある.いくつかの病院を巡っているが,どの医師も全貌を把握できず,はっきりしたことを言わなかったことが彼女の思い込みを増幅させたのではないかと思える.これを自戒としたい.