2007/12  老年精神医学雑誌Vol.18 No.12
第13回国際老年精神医学会(IPA 2007 OSAKA SILVER)を振り返って
田中 稔久
大阪大学大学院医学系研究科精神医学教室
 2007年10月14日から18日にかけて,大阪国際会議場において第13回国際老年精神医学会(IPA 2007 OSAKA SILVER)が開催された.本誌2007年9月号の巻頭言に,IPA 2007 OSAKA SILVER組織委員長である武田雅俊教授の開催にあたっての文章が掲載されているので,ここでは事務局長を務めさせていただいた私の開催後の所感を記させていただきたい.
 国際老年精神医学会(International Psychogeriatric Association ; IPA)が組織されたのは1982年であるが,当時から世界各国における高齢者人口の増加に伴い,高齢者の精神障害(認知症,うつ,せん妄など)が問題となっており,それに対応すべく国際的組織が設立された.日本老年精神医学会もこれに呼応して,この分野の科学的研究の進歩・発展を図ることを目的に,1986年に組織されている.また,認知症疾患の科学的研究に関しては1982年に日本認知症学会が組織されているが,今回IPA 2007 OSAKA SILVERでは,第22回日本老年精神医学会(大会長:守田嘉男教授〈兵庫医科大学〉)および第26回日本認知症学会(会長:本間昭先生〈東京都老人総合研究所〉)との合同開催を行った.ご存知の通り,前者の会員には老年精神医学に関与する臨床医および介護・看護の専門家が多く,後者の会員には認知症に関与する臨床医および基礎研究者が多数存在する.今回の学会ではIPA創設25周年という記念すべき年に,急激な高齢化の進む日本という国で,高齢者のメンタルヘルスの改善とその科学的研究に貢献してきた国内2学会との合同開催で行われたということはたいへん意義深いものであったと考えている.
 総会テーマとして“Active Aging : Wisdom for Body, Mind and Spirit”を掲げ,高齢者の精神疾患に関する研究,医療,看護,介護,福祉,家族の支援,社会政策などの幅広いテーマで,世界各国(50か国)からの研究者,医師・看護師などの専門職,企業,行政など幅広い領域から約2,900人が参加し,幅広い意見交換と人的交流が図られた.生命科学の先端領域の研究者から,医療・介護に携わる実地の専門家までが集まり,現代の高齢者のメンタルヘルスに関連する諸問題を討議するまたとない機会となった.今回のIPA総会の運営方針のひとつとしてMultidisciplinary Approach(多くの専門領域からのアプローチ)を尊重することになっていたが,これにより多くの領域の専門家が一堂に会して,臨床上の問題点を多方面から理解し議論し,各人が各領域でのさらなる進歩を達成するためのヒントを数多く得られたものと考えている.また,このことが約2,900人というきわめて多数の方が参加していただけたという結果にも現れたものと推測している.さらに,特別講演と一部のシンポジウムでは同時通訳も設けられ,日本人の看護師・保健師,また看護およびリハビリテーション系の学生にとってもたいへん聴講しやすい環境であり,とくに学生さんには大きな刺激となったものと考えている.
 学会プログラムとしては10月14日(日)は開会式にあてられ,15日(月)および16日(火)は日本老年精神医学会との合同開催,17日(水)および18日(木)は日本認知症学会との合同開催という形式が採用された.開会式の当日には式に先立って,セミクローズドの形式であったが,日本・香港・韓国の合同ミーティングが開催され,約100人の参加者のもと,テーマに沿ったグループごとのディスカッションが行われた.同じアジアに住むにもかかわらず,他の諸外国と等間隔になってしまいがちなわれわれにとって,貴重な交流の経験ができたものと考えている.また,同時刻には公開講演会「認知症の人が安心して暮らせる社会を目指して」も開催され,多くの市民が参加された.開会式では,創設25周年を記念してIPAのこれまでの経緯と業績を振り返るビデオ上映が行われ,また,これまでに老年精神医学に大きく貢献してこられた,国内外の諸先生への功労賞の授与なども行われた.日本からは長谷川和夫先生,西村健先生,平井俊策先生,松下正明先生という,日本の老年精神医学研究の礎となってこられた4先生の功績が讃えられた.そして,ますます高齢化する社会への視点を踏まえた,老年精神医学の重要性に関する基調講演が行われ,たいへん格調高い開会式となった.学会全体の内容としては,1つの基調講演(4題),8つの特別講演(23題),34のシンポジウム(141題),および115題の口頭発表(一般演題)と565題のポスター発表が行われ,今までのIPAの規模を超える大きな総会となった.
 振り返ればこの25年の間に,アルツハイマー病,レビー小体型認知症,前頭側頭型認知症など認知症疾患に関する基礎生物的研究の進歩や診断法・治療法の進歩,老年期の心理に基づく看護・介護の精神の変化,介護保険法や成年後見制度を含む社会システムの改革はきわめて目覚ましいものがあるようにみえる.今回の学会ではこれらを概観することができたが,この総会が参加された臨床医,研究者,看護師,介護士,臨床心理士,学生など多くの方にとって,さらなる次の進歩へのステップへの契機に役立つであろうことを心より願っている.
 最後に,このような大きな国際学会の運営に関しては,日本老年精神医学会と日本認知症学会の諸先生方のご協力はもとより,数多くの関連諸学会の先生方,製薬企業および関連企業,厚生労働省,大阪府,大阪市など公的組織,および運営に携わったボランティアの方々の多くの組織や人々のご協力がありましたが,誌面を借りて厚く御礼申し上げます.また,武田教授のもとで国際学会運営に携わらせていただいた筆者自身も,貴重な経験をさせていただいたことを感謝しつつ,多方面の先生方との協力のもとに,これからもこの領域の進歩にいくばくかの貢献をさせていただくことを願っている.
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2007/11  老年精神医学雑誌Vol.18 No.11
認知症の臨床医として
川勝  忍
山形大学医学部発達生体防御学講座発達精神医学分野
 まず,はじめに,去る7月1日にご逝去されました田邉敬貴教授のご冥福を心からお祈りいたします.田邉先生の意味性認知症(SD)やピック病についての臨床は,小阪憲司先生のレビー小体型認知症や三山吉夫先生の運動ニューロン疾患を伴う認知症とともに,私たち認知症の臨床を学ぶものの手本であります.田邉先生は,若年認知症研究会(その前身の前方型認知症研究会やピック病研究会)の代表や,日本神経精神医学会の理事長を務められ,筆者が日頃の臨床で症候の把握や診断に迷う症例を発表し,先生にコメントを頂くのが一つの楽しみでもありました.本誌の本年6月号の特集「ピック病・再考」にあるように,田邉先生は,SDがきちんと診断できれば認知症の臨床医として一人前と考えておられたようです.また,筆者も以前から感じていたことですが,ピック病の臨床に関するアメリカの教科書やそれを引用したわが国の教科書には明らかなまちがいや欠落が現在でもあることを指摘されています.さらに言えば,DSMをはじめ各種の認知症や軽度認知障害(MCI)の診断基準がアメリカ主導で作られていますが,それでよいのかという疑問も出てきます.
 筆者が認知症の臨床に携わるようになったのは,約20数年前ですが,当時ちょうど脳SPECT専用装置が導入され,認知症の画像を研究することになりアルツハイマー型認知症を中心に診るようになりました.とくに早期発症(若年)型では,頭頂葉の巣症状が出ているのにCTでは目立った所見がない一方でSPECTでは頭頂葉の明瞭な血流低下がみられることに驚いたものです.その後,可能なかぎりそれらの患者さんたちを縦断的に診て,亡くなられた場合には病理解剖(剖検)をさせていただいてきました.同じアルツハイマー型認知症でも臨床経過や病変分布にみる表現型には,共通する部分と多様性がある部分があります.アルツハイマー型認知症の経過は,若年例では20年近くになりますので,その全経過をみて病理解剖までみるというのはなかなか大変なことですが,臨床医としてはこれ以上の勉強はないと思います.そのなかには,患者のさまざまな精神症状と精神病理,神経心理,神経症状,身体機能の低下や合併症,家族関係,福祉の理解など認知症の臨床医として必要なすべての要素が含まれています.
 いうまでもなくアルツハイマー型認知症をはじめとする変性疾患による認知症の確定診断は病理診断ですが,認知症の臨床医のなかでも,しばしばそのことが忘れられているように思います.極論すると,アルツハイマー型認知症の確定診断をした(例を診たことがない)ことがない専門医も多いということになります.現在の医療福祉制度では,認知症の診療は,初期,中期,末期の病期ごとあるいは診断,治療(精神科的あるいは内科的),介護などによって異なる施設に細分化・マニュアル化され,同じ患者さんの経過をみることがむずかしくなっています.また,医師-患者-家族関係の継続性と情緒的つながりが失われることが,剖検率の低下に影響しているようです.次世代の認知症治療や研究を考えたとき,少なくとも若年例については,がんや他の成人病や難病のように登録制を導入してデータベースを作ったり,地域ブロックごとのセンター機能をもつ施設を決めてブレイン・バンクまでを含めて整備することが必要と思われます.
 介護保険の導入とともに,各県各地域に多数設置された認知症疾患センターも,現在は予算が廃止され,次々と業務を取り止めるところが増えています.また,診療報酬でも痴呆患者在宅療養指導理料の廃止がこれに拍車をかけています.せっかく,認知症診療に意欲をもつ臨床医が増えつつあるのに,この状況では先細りになるのは目にみえています.近い将来,アルツハイマー型認知症のアミロイドワクチン療法やアミロイドイメージングが可能になっても,きちんとした臨床医がある程度いなければ,実は診断が違っていたとか,効果の検証ができないとか,大きな混乱に陥ることはないかと危惧するところです.
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2007/10  老年精神医学雑誌Vol.18 No.10
破綻寸前の介護保険サービス,計画性のない老人医療の今後は?
新貝 憲利
医療法人翠会成増厚生病院
 小泉内閣での医療構造改革に伴う医療費抑制策そして介護保険改正を行い介護報酬の切り下げの結果,老人医療・介護・福祉について,サービス提供法人の運営が非常に厳しい状況に立たされている.結果,利用者に対して苦痛を与えることになっている現状である.
 介護保険が創設されて7年目にはいっている.予想以上に掘り起こしがみられ,2000年では3.6兆円であったのが現在7.4兆円規模となった.また全国平均での一号保険料も当初2,911円から現在の4,090円となり,5年目の昨年改正を行ったが,結果,サービス提供側の抑制となり,破綻する施設は徐々に多くなってきている.このままでは施設側および制度自体破綻は目に見えている.
 また,厚生労働省の政策により,特別養護老人ホームはユニットケア,個室化となったが,規定以上の介護職員を必要とし,人件費の大幅な増加のため運営自体困難となってきており,利用者の負担が増大する結果となっている.国としては選択性をとっているが,自治体レベルでは上記方針を固めているところは多い.このままでは特養も有料老人ホームも特に差はなくなってきている.経済的困窮者の入所する場所がなくなってきている.
 デイサービスも同様に切り下げにあって,これも今まで誠実に行ってきた施設ほど運営困難となり始めており,継続が困難な法人が増えている.
 認知症の治療に関して,施設入院・入所以外,地域で支え安定させるには,デイサービス,ショートステイおよび家族ケア以外効果が薄いと思われる.しかしながら,これらを提供する法人の施設経営が徐々に困難となってきている.このような状態では地域で支えることは困難となり,さらに老人医療費の増大は避けられないと思われる.
 結果,政策として抑制的になり,認知症を中心とした老年精神医学を目指す臨床医は少なくなってしまうであろう.
 また一般科においては現在医療療養病床25万床,介護療養病床13万床あるが,厚生労働省は昨年突然に,医療療養病床の削減,介護療養病床の廃止を平成23年度までに決定.療養病床の転換支援策として新たに有料老人ホームや高齢者専用賃貸住宅の医療法人での経営を拡大,そして福祉医療機構の融資優遇策を提供させている.
 このように老人医療・介護のおける厚生労働省の方針転換など一貫性のない医療・療養政策が露呈しているが,入院している老人の行き場がなく,介護難民が出るのは避けられないと思われる.振り回されるのは国民と医療・介護施設である.
 つい数年前には療養環境が重要といいながら,療養病棟に向かせ,今度は廃止・削減である.
 無論,これには高齢化の進行の結果,老人医療費の増大で総医療費のおおむね1/3以上を占めており,このままでは医療保険制度の破綻の危機などが理由であろう.  また健康保険組合からの老人医療拠出金の負担割合が80%に達しているところもあり,経済界からの圧力もある.
 そのため来年度から実施される高齢者医療保険制度があるが,一時的な財源確保であり,介護保険同様になることを心配する.
 老人医療費の増大は避けられない事実であり,予想はできていたはずであるが,政策としてまちがっていたのであろう.国として国の負担金をより少なくしようとして,地方自治体に押し付け交付金として拠出し抑制している.精神科医療政策,介護保険も同様である.現状では地方自治体でできるような実態ではないはずであろう.精神科病院での高齢化が徐々に問題となってきている.毎年1.6%の伸び率で高齢化が進んでおり,平成17年患者調査では43%になっている.数年で高齢化率50%となるのである.これは長期在院者の高齢化とともに老人の認知症の患者の新規入院者の増大である.そのため特に長期在院者の高齢化に伴う合併症医療が近年問題となっている.
 また,精神科病床における認知症入院患者は毎年徐々に増加しており平成17年ではおおむね16%に達している.
 このようなため,精神科病院での転倒事故や高齢化に伴う事故は急激に増加している.とくに長期在院高齢者は転倒,窒息などによる事故が絶えなく,また予見できにくいことが多い.今後の精神科老人医療および精神科病院のあり方を再考する必要がでてきている.
 一方,近年の精神科病院での病床利用率の低下,長期在院者の診療報酬の切り下げにより,経営不安をきたしている病院は多い.またそのような病院ほど在院患者の高齢化およびその合併症対策の遅れや欠如がみられる.
 現在,認知症の患者数の増大に伴い,精神科医療での認知症患者に対する役割が問われてきている.老人医療を含む介護のなかで診ていくのか,精神科医療で診ていくのか.診断およびアセスメント,入院医療では急性期での周辺症状の管理に徹するのかが,今後の問題であろう.しかし,隔離・拘束など閉鎖処遇を要する認知症の患者には精神科病床での精神保健指定医での対応しか困難であることにはまちがいはない.
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2007/9  老年精神医学雑誌Vol.18 No.9
第13回国際老年精神医学会 (IPA2007 OSAKA SILVER)開催にあたって
武田 雅俊 
大阪大学大学院医学系研究科精神医学教室,IPA2007OSAKA SILVER組織委員長
 いよいよ2007年10月14〜18日の第13回国際老年精神医学会(IPA 2007OSAKA SILVER)開催を迎えることになった.前半2日間[15日(月曜日)と16日(火曜日)]は日本老年精神医学会との合同,後半2日間[17日(水曜日)と18日(木曜日)]は日本認知症学会との合同開催であるが,14日(日曜日)午後からの市民フォーラムと開会式には,3つの学会の参加者は自由に参加していただけることになっている.老年精神医学会,認知症学会の会員の皆さんに限らず,高齢者のメンタルヘルスに関する仕事をしておられる医師,看護師,薬剤師,臨床心理士,精神保健福祉士,作業療法士,理学療法士など多職種の方々の参加を呼びかけたい.老年精神医学はもともと多職種の協力があって初めて成り立つ領域だからである.
 国際老年精神医学会(IPA)は今年で創設25周年を迎える.1982年にカイロでの第1回総会を開催したときの参加者は422人であったが,この25年間には予想以上の速さで「社会の高齢化」が進んでおり,高齢者のメンタルヘルスは先進国だけでなく発展途上国をも含みこんだグローバルな問題となっている.このような社会変化を背景として,IPA総会は回を重ねるごとに参加者が増加してきており,今年の25周年大会(IPA2007OSAKA SILVER)では2,500人の参加者が予想されるまでになった.
 IPA2007OSAKA SILVERでは25周年の節目をお祝いするためにいくつかの企画を考えている.まず老年精神医学の歴史を振り返るために,老年精神医学の揺籃期から活躍されてきたパイオニアとも呼ぶべき著名な精神医学者・臨床家を多数お呼びする.Carl Eisdorfer先生(USA),Raymond Levy先生(UK),Ho Young Lee先生(韓国),Kazuo Hasegawa先生(日本)には,初日10月14日日曜日の開会式で講演をしていただくことになっている.これまで来日の機会が少なかった「老年精神医学の父」と敬愛されるTom Arie先生(UK)にも魅力的な題で講演をしていただくことになっている.そのほかにも,Manfred Bergener先生(ドイツ),Sanford Finkel先生(US),Barry Reisberg先生(US),Edmond Chiu先生(オーストラリア),Alistair Burns先生(UK)と歴代のIPA理事長のほとんどに来ていただけることになっている.そして,このような人たちの参加を得て,老年精神医学の歴史に関する映像プレゼンテーション,写真パネル展示などを通じて,老年精神医学の歴史を知っていただくとともに,現在の問題点,さらには将来の進路を描き出したいと思っている.
 高齢者人口の増加とともに,老年精神医学はこれからもますます重要な部門となっていく.昔から老年精神医学の中心的な議題であった認知症(dementia),抑うつ(depression),妄想(delusion),せん妄(delir-nium)などの主要な病態だけでなく,MCI,BPSD,VCIなどの新しい概念,高齢者の拘束,虐待,意思能力,自動車運転,倫理的側面,法的側面など老年精神医学が取り扱うべき領域は拡大している.そして,このような広範な問題に対処するためには広く多職種の専門家の関与が強く求められている.
 この時期に大阪で国際老年精神医学会を開催することの意義について述べてみたい.まず,社会の高齢化は,先進諸国だけの問題ではなく,むしろアジア諸国を含めた発展途上国において社会の高齢化が始まっており,社会的対応を迫られているという現実がある.WHOは65歳以上の人口が7%を超えると高齢化社会(aging society),14%を超えると高齢社会(aged society)と呼ぶことを提唱しているが,欧米諸国が100年かかってaging societyからaged societyに移行したのに対して,わが国は24年で移行した.これは史上最速のスピードであったが,これからaged societyを迎えようとしている韓国では,さらに早い21年でこの移行を終了する見込みであるという.人口の急激な高齢化は社会のシステムに歪みをもたらすものであり,このような問題について,広く議論しようという学会である.世界の経験をわが国に取り入れるとともに,わが国が経験したさまざまな問題を確実にこれから高齢化問題を経験するであろうアジアの各国に対しても,役立つ情報として提供したいものである.IPA2007OSAKA SILVERでは,このような考えの下に,アメリカ,ヨーロッパ,アジアからの発表が均等に位置づけられている.
 国際学会の企画運営には膨大な労力と費用が必要となる.IPA2007 OSAKA SILVERについてもその通りであり,準備期間だけでもすでに5年が経過した.第11回シカゴ大会の理事会において大阪での開催が決定されて以来,日本老年精神医学会は足並みを揃えて,その準備を進めてきた.今ようやく,準備の最終段階となり,国内,国外の多くの方々をIPA2007OSAKA SILVERにお招きする運びとなった.組織委員会を代表してこれまでお世話になった多くの方々に御礼を申し上げるとともに,1人でも多くの方に参加していただき実りある大会にしていただくことをお願いしたい.また,最新の情報についてはhttp://www.congre.co.jp/ipa2007/のホームページでご確認いただければ幸いである.
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2007/8  老年精神医学雑誌Vol.18 No.8
専門医に求められるもの
守田 嘉男
兵庫医科大学精神科神経科学講座
 日本老年精神医学会の専門医に関する事柄であるから本誌の読者には周知のことであろうが,蛇足を承知のうえで認定委員会での議論を紹介しつつ筆者の専門医に対する期待を述べたい.
 唐突であるが,私たち診療現場で働くものの心の支えは医師の資格ではないだろうか.もちろんだれもが同じことを考えているとは限らないし,たった1枚の証書といえば身も蓋もない.しかし,このことはなにかの事情で必要に迫られているのに医師の資格が使えないとき身にしみてわかるし,同時に医師であることの誇りについても再認識させられる.私たちの持っているいわゆる医師免許証は他の国家資格と比べても最も誇り高く,それゆえ課せられた義務も大である.そのためもあろうか,大部分の臨床医は自分の名刺に「医師」の二文字を印刷する.最近では駅で見かけるクリニックの案内にも医師の出身大学まで書いてあることも少なくないが,自分の診察室に専門医証を掲示するのはきわめてまれだと思う.
 さて,日本老年精神医学会の専門医については専門性の実力認定として妥当であり,これについては異論は少ない.また認定のための過渡的措置を経て受験資格者と合格者の人数の差を危惧していたが,継続すればともに増えるであろうし,そのための工夫が求められる.受験準備用の参考書として「老年精神医学講座」の総論1冊と各論1冊を読了しなければならないが,これは専門医を標榜するための基準といえよう.学会会員の老年期精神障害に対する診断治療は他科の医師にひけをとらないので自らの専門性のしるしをもっと表明したいし,そのために義務が課せられるのは当然であると思う.これについて昔のことであるが,留学で知ったアメリカの専門医はかなり刻苦勉励していたことを記憶している.4年制大学を優秀な成績で卒業し,さまざまの審査を経て医学部へ入り,卒後はインターン1年とレジデント数年を過ごす.そして合格率が約50〜60%の専門医試験に合格すると大多数は臨床に専念する.しかし,繰り返し繰り返し常にブラッシュアップのための研修や試験を受ける義務があり,毎日の診療を続けながら新しい知識の吸収に努めていた.医師に必要なのは医師免許証と専門医の資格である.医学部卒業証明(MD)は医師免許証に含まれている.MDは最高位学位であるから他の学位は必要とされない.当時のレジデンシィは過酷なトレーニングであったから,それ以外の研究室での仕事を続けるのは特別の条件(経済的,能力的)に恵まれた一部の人々であると聞いていた.多くの医学部卒業生は専門医取得を目標とし専門医の同業組合的保証と経済的裏づけを守っていたのだと思う.彼らの診察室にはその州の医師免許証と専門医証が掲げられていた.
 そこで私たちの問題であるが,5年ごとの更新は必須であるし,更新のためには常勤医として高齢者の精神障害を診療している本学会専門医が容易に更新できる方策を作り出すべきではないか.数多くの選択肢が用意されるべきであり,年1回の学術集会の参加が専門医制度のために形式的になるのは本道とはいいがたい.
 現行の研修会は有益であるが,広く高齢医学あるいは老年医学全般にかかわる研究会への参加を高く評価すべきである.また研修会の開催回数を増やすことや,会場の都市をきめ細かく設定することがあろう.各地方での精神神経学会(例:近畿精神神経学会)と連携することなど工夫すべきことが残っている.
 これに関連して老年精神医学会専門医でなければできない治療技術について案外知られていないと思うので,治療コンセンサスをまとめて広く公開することに努めたい.日本医師会の活動が手本となろう.たとえば認知症の行動と心理症状(BPSD)には国際老年精神医学会のガイドラインを日本老年精神医学会が監訳した著書が参考となる.具体的にはまだあいまいな知見のままである新規抗精神病薬の微量の臨床効果とか,副作用の有無と対処法について,また睡眠薬の処方例などがあろうが,これらについての日本老年精神医学会としての治療ガイドラインの呈示が求められる.広報委員会の連絡は電子媒体が用いられるので,いまでも学会出版物は重要であり頼るところが多い.
 筆者の在籍している約700床の一般総合病院でも医療崩壊の文字に過敏となっている.医師たちは専門性への特化を求められるし,同時にセーフティー・マネジメントに苦労している.各科の医師の専門医認定の有無は公開されているが,求められるのは病院の大小ではなく真の治療実力であるので当然のことであろう.近年,介護家族の医療者をみる眼は厳しさを増しており医療チームの悲鳴を聞くことも多いし,医師に対する市民の求めるところも同様である.私たち老年精神医学専門医も心すべきであると思っている.
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2007/7  老年精神医学雑誌Vol.18 No.7
最近の話題
保崎 秀夫
慶應義塾大学名誉教授
 筆者はかつて本誌第4巻第7号(1993年7月号)の巻頭言で,それ以前の40年間のわが国の老年期精神疾患の変遷等についてふれたが,その後社会の高齢化が進み,脳の組織化学的検討を含めて大きな進展がみられ,老年期精神疾患の分類,再編成,認知症(この用語も異論はあるが)の予防,医療,介護,収容施設の問題など医療費に絡んだ問題が増え,さらに成年後見制度も人権に絡んで問題になってきた.
 老年期の認知症の研究はわが国の先駆者は留学に際し諸外国の組織病理学を中心に学んだということから古くから盛んであり,筆者も辻山義光先生からオリゴデンドログリア染色を習い老人脳の染色を繰り返したものである.露木新作先生がピック病を見つけたと喜んでいたのが忘れられない.
 今日ははるかに研究が進み認知症の分類も変化しレビー小体病(わが国では小阪憲司先生が研究)が加わり,かつて分類されていたクロイツフェルト・ヤコブ病は解剖すら断られ,老年期疾患からはずされている.認知症は精神疾患とはいえだれにでも身近な疾患であり,その早期発見や予防,治療の研究,介護の施設の充実が目下の急務である.認知症の初期の治療や進行を遅らせる薬物が登場したが治療というのにはほど遠く,進行してからの介護の問題も家族形態の変化もあって適切な施設も少なく費用がかかるという点でも問題が多い.よその年寄りは世話するが身内の年寄りの世話は困るという時代になり,とにかく自分の生活で手一杯という時代で老親を介護する姿や老老介護の姿が美談として報道されるくらいである.
 もの忘れを気にする人は多く,若い人でも認知症を気にする時代になってきたし人の名前を思い出さぬと相談に来る人の大半は神経症者といわれているが,認知症の初期とうつ状態との鑑別がむずかしいのは以前からあることで,経過をみればわかるのであるが,いつまでも鑑別がつかぬこともある.
 統合失調症の既往がある人と気分障害の既往のある人とではどちらに後年認知症がみられやすいかという問題は気分障害に多いようであるが,その解釈はむずかしいが考えてみるのも意味があろう.
 成年後見法が制定されて認知症症状が進む前にあらかじめしかるべき人に本人の意思を伝ておくなど,上手に利用すれば後の混乱を防ぐことができよう.しかし,これを悪用する人もでてくるという時代である.
 遺言や契約が行われた時点の精神状態の精神鑑定はさまざまな点で問題がある.しかるべき病院や施設に入っていれば精神状態の把握は比較的問題はないが,精神状態の記載が不十分であったり医師や看護師の記載が食い違っていたり,家族間で精神状態の評価がまったく相反していることが少なくないので問題となる.また勝手に面会に行って本人が一人でいる場面で一筆書かせたり外に無断で連れ出して書かせたという例もでてくる.
 筆者は運転免許更新の際の高齢者の講習を3回受けたが,今後は簡単な知能検査で判断すると言われた.しかし精神面,身体面の判断以外に家庭や居住地域の事情もあり簡単そうでむずかしい問題であろう.
 入院,療養の施設の問題は費用や制度の問題が絡んでむずかしい問題であり,長期療養が必要であっても国の方針は厳しくなる一方で,入院できても期間が限定され次の施設を探すことが容易ではない.国の予算は削減される一方でなるべく自宅でと言われてもそれがさらに困難であるのが現状である.
 認知症といっても,実はきわめて多くの精神身体症状を有している.脳動脈硬化性のものはもちろんであるが,ほとんど全科にわたる症状をもち,どの専門科が主として治療に当たるかにより自ずから治療が異なってくるし,さらに介護の面でも各方面の介入が必要であり,なにを優先させるかといっても主として扱う科により異なり介護面でもなにに重点をおくかにより異なってくる.それぞれの領域が主張するので治療が困難であったり,なにを最優先するかの判断が必要になる.
 認知症が中心の場合,廃用症候群を伴う場合,身体症状が主となる場合などいろいろあるが,なにを重点的に治療するかにより自ずから異なってくるし,それぞれにふさわしい施設が揃っているわけではないので治療や扱いがむずかしい.
 そこで,放置されて困るという訴えや,あまりにも治療介護が行われすぎて費用がかかって困るという訴えがでてくるのもやむを得ないし,なによりも施設が乏しいというのが現状であろう.
 最期は自宅で迎えたい,あるいは家族が身近にいる場所で,合併症が生じても対症的で苦痛が少ない状態でという希望も多くだされるようになってきたが,一方身内がほとんどいない場合も多くなり,早くからいろいろ考えておくほうがよさそうだ.
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2007/6  老年精神医学雑誌Vol.18 No.6
高齢患者と人生,ことに幼児期体験
西園 昌久
心理社会的精神医学研究所
同一性発達の研究で名高いE. H.エリクソンが同夫人らと共著で出版した『老年期―生き生きとしたかかわりあい』1)は訳の素晴らしさもあってたいへんに魅力的な本である.1928〜1929年の1年半の期間に出生した人たちが生涯どのように成長していくか,研究者は年代によってリレー式に交代していくという気の遠くなるような調査研究がアメリカ・バークレーで行われたそうである.1940年の調査を担当したエリクソンは,改めて1981年に調査対象となった人々の両親について精神健康の実態について調査して,その結果に基づいて著したのが『老年期』である.親たちの年齢は75歳から95歳であったという.その本のなかでエリクソンは,かねて彼が主張する「発達についての漸成原理」を再確認するとともに,老年期の徳目である「英知,それはおそらくかかわりあいからの撤退に本気でかかわることであろう」と述べるとともに,老年期の精神的健康が幼少期に祖父母とかかわることに端を発するということを記している.老年期のこの役割をエリクソンは「祖父母性」と呼んでいる.老年になりきることは人にとって大きな課題であるが,幼少期の体験が終生消えることなく影響を及ぼす学習になるとすると高齢者にかかわる人々,ことに老年精神科医療に携わるわれわれには,現在のことばかりではなく生涯についての深い人間理解が求められる.
 私が大学で現職であったころ,ある時期,私どもの科を受診してくる高齢患者を私が集中的に担当した時期があった.診断の多くは気分障害圏であったが,すっきり治る人たちとある程度の症状の改善はみられるが残存する症状にこだわり延々と通院してくる人たちとの2群があった.後者に属す人々は,家族との関係も和らいだものでなく,QOLも低い傾向がみられた.担当医である私と会うことが唯一の場と幻想しているように思われた.すっきり治った人たちと比較して幼少期の不幸な体験,親の死,長期間の病気,離婚,それに,その後の人生各期での別離体験,さらに,自身の子どもの精神障害発病が多いことが印象的であった.不幸な人はどこまでも不幸という感を強くしたものである.しかもそれらの不幸な体験は決して自ら話題にされることはない.今日の高齢者が体験しているはずの第2次世界大戦の苦労さえほとんど口にすることはない.医療と無関係としてこちらが聞かぬから言わないだけではなさそうである.今日の苦労を口にして医療従事者に理解と解決を求めても,自分の過去は語らない.その閉ざされた心情を思いやる治療者の態度があってはじめて高齢患者とのラポールは深まっていく.
 現在,主として思春期のいじめ問題をめぐって幼児教育や子どもの遊びのあり方が議論されている.昔のわが国の子どもたちの遊びには,柳田国男が指摘したように,(1)年長者が年少者を受け入れる,(2)年少者も年長者に追いつこうとする,(3)遊びのテーマのなかに,親たちの日頃の言動が取り入れられる,(4)子どもの遊びのなかにその集団独自の言葉とルールがつくられるといった特徴があったという.今の子どもたちの遊びにはそのような特徴はない.それが人の成長にどのように影響していくのであろうか.
 高齢者の問題に話を戻そう.核家族が一般的となり,さらに,単身家族化が広がっていく現在,世代間断絶はますます進むであろう.医師や医療従事者を志す人たちも,エリクソンのいう「祖父母性」にふれることなしに育ち職を得ることが一般的になっているであろう.高齢患者の人間理解に人生,ことに幼児期体験理解が必要なように,医療スタッフも卒前教育の段階で高齢患者の人間性にふれる体験が望まれる.私は医学部入学後まもない学生に「医学心理学」を兼担していたが,実習に老人保健施設でのケアを試みたことがある.その報告のなかに次のようなものがあった.それはある女子学生からのものであったが「ある認知症と診断された老婦人と手をつないで廊下を歩いていたら,その人が,よく見ておきなさい.あなたは私のようになるのではないよと言った.私ははっとするとともに今やっていることは医師になるための実習というより自分の人間教育だと思った」.そうした経験からいえるのであるが,専門的知識と技術で身を固める前の豊かな感性でふれた全人間的体験こそ,その人の老年精神医学における同一性の基礎になるものであろう.

「文 献」
1)E.H.エリクソン,J.M.エリクソン,H.Q.ギヴニック(朝長正徳,朝長梨枝子訳):老年期;生き生きとしたかかわりあい.みすず書房,東京(1990).
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2007/5  老年精神医学雑誌Vol.18 No.5
老いを考える
福居 顯二
京都府立医科大学大学院医学研究科精神機能病態学
 ここ数年,老人保健施設に入所中の知人と,近県で介護保険を利用している高齢で一人暮らしの身内を,月のうち週末の1〜2回訪ねる機会が多くなりました.知人は軽いもの忘れのある方で,身内は転倒による腰部の圧迫骨折で入院加療後は,在宅でヘルパーさんのお世話で安静の毎日を送っています.腰痛から不眠がちとなり睡眠導入薬を服用し,時に錠数が増えて一過性にせん妄症状が出たりします.このため夜間歩き出したりして知らないうちに転倒し痛みがぶり返すといった悪循環を繰り返しています.
 最近50歳代もなかばになると,周囲の友人,同僚から見聞きするのは,身内(親がほとんど)が何らかの病気で入退院したり,施設に入所ないしショートステイ利用などをしていることです.多くの方々が,老人医療・福祉において,少しでも当事者や介護者のQOLの向上を図ろうと勉強していることを改めて感じます.そんななか,今の高齢者(認知症を含む)に対する治療,ケアなどの医療,福祉は決して十分なものではないことをつくづく感じます.
 介護保険についてはこれからも利用者が増えるなか,十分な財政基盤は保障されていません.また認知症高齢者に対する虐待についても,最近,無認可の老人施設での手錠やペット用柵での拘束などの報道がありました.詳細は今後を待たないといけませんが,このような事例は氷山の一角かもしれません.社会福祉行政として,多くの方が入所の順番を待ち続けている特別養護老人ホーム等の早急な増設が望まれるところです.
 また,認知症の人で金銭管理への援助の必要な人については,地域福祉権利擁護事業として,一定のサービスが各都道府県,市町村の社会福祉協議会を中心に行われています.周知の通り,この権利擁護事業は,運営適正化委員会が運営監視や契約締結を行っています.私も平成12年のスタートから定期的にこの委員会に出席しており,すでに7年が経過しましたが,まだ十分には軌道に乗ってこない印象です.最近の本事業の傾向として,皆さんも類似の印象をおもちかと思いますが,契約件数が増え仕事量も多くなり,一部の支援員には疲弊がみられます.これは支援員養成講習会に受講し登録される人は結構おられるのですが,実際にはボランティアに近いような待遇も一因です.
 一方,契約締結審査会で,権利擁護事業で扱うにはむずかしい事例の場合,成年後見制度の利用を勧めます.しかしながら,決定までの手続きの煩雑さ,期間の長さ,費用の点などから,まだこの制度を利用されている数は多くなく,その狭間で昨今の悪徳商法などの被害を受けている事例も多いものと推測されます.権利擁護事業が円滑に機能するためには,国・地方自治体の経済的支援がどうしても必要で,最近,運営適正化委員会を中心に,現場からの声と一緒に「提言」も出されるようになってきたことは好ましいことです.
 もう1つは,認知症に使用できる新薬の認可の遅れです.もちろん,副作用や健康被害には十分な注意が必要ですが,わが国では,アセチルコリンエステラーゼ(AChE)阻害薬である塩酸ドネペジルしか使えず,他の先進国からは相当遅れています.他のAChE阻害薬,経口ワクチン,アミロイドタンパク除去の新薬など,国は早急な治験の進展と認可を図り,できるだけ早く治療薬として使用できる薬物の幅を広げることが必要です.
 話は少し変わって,最近,北里大学の新村拓教授著の『健康の社会史』を読む機会がありました.新村氏は数年前まで私どもの大学で社会学の教授として講義をされ,『老いと看取り』などの好著を次々と上梓されています.ここでは,江戸時代の養生訓から近代国家の衛生施策までさまざまな角度から「健康の意味」を考えさせてくれます.筆者の言う「ほどほどの養生」による「ほどほどの健康」を得て,「ほどほどの生」を終えるのも1つの「生き方」であるかもしれないという考え方が紹介されています.「長生きは恥」といった江戸時代からの教えも引用され,このあたりは小説『楢山節考』にもつながります.ただ,老人を捨てるといった古くからの悲しい風習はすでになく,もっと健康で長寿であればという「健康長寿」の願いに変わってきています.
 最近「老い」を考える時間が増えてきました.職場で高齢の患者さんに接し,高齢の知人や身内との語らいのなかで,「老い」への自覚が知らず知らずに身についてくるのかもしれません.年を重ねること,さらには超高齢者へ向かうことは,みな,毎日が初めての体験であり,これからどうなるのだろうかという漠然とした不安がつきまといます.現在のように閉塞した世の中では孤独感も増してきます.これらが少しでも緩らぐよう努めることが大切なことだと思われます.
 わが国最初の公立精神病院である京都癲狂院の神戸文哉が翻訳した精神医学の教科書『精神病約説』(1876年)には,認知症について「老耄は脳の萎縮による不治の病であるが,看護の仕方がよければ症状の改善が見込める」とあり,原著『内科書』の分担執筆者であるヘンリー・モーズレーはこのことをすでに看破していたようです.
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2007/4  老年精神医学雑誌Vol.18 No.4
新しい疾患の発見
小阪 憲司
聖マリアンナ医学研究所
 新しい認知症は臨床病理学的研究により確立されてきた.そして,昔は発見者の名前が病名になった.たとえば,Alzheimer病は,1906年のAlois Alzheimerの最初の症例報告の後,1910年にKraepelinにより命名された.Pick病は,1892年以降のArnold Pickの一連の症例報告後,1926年に大成・Spatzにより命名された.ところが,最近は発見者の名前が病名に使用されなくなった.たとえば,進行性核上性麻痺は,1964年のSteeleらによる最初の症例報告の際に彼らが使用した病名である.1971年にDixらがSteele-Richardson-Olszewski症候群と呼んだが,もっぱら進行性核上性麻痺という名称が使用されている.1968年にRebeizらにより最初に報告された疾患は1996年にGibbにより皮質基底核変性症と呼ばれ,その名称が使用されている.最近では,遺伝子変異に基づいて新しい疾患が発見されている.FTDP-17がその好例である.
 さて,筆者は1976年以降の一連の報告に基づいて1984年に「びまん性レビー小体病」を提唱したが,その後これは1995年の国際ワークショップでレビー小体型認知症(dementia with Lewy bodies ; DLB)と呼ばれた.第1回国際ワークショップでもその後のワークショップでもKosaka's diseaseという声もあったが,DLBが広く用いられている.それはともかく,「どうしてこの病気を発見したのか」とよく質問されるし,「若い医師にぜひその経緯を話してほしい」という依頼を受けることもある.そこで,その経緯を紹介しておこう.
 筆者が名古屋大学精神神経科で神経病理研究室に属して間もない1960年代後半に,当時はまだ珍しいといわれていたAlzheimer病やPick病に関心をもって患者を診ていたが,ある精神科病院で少し変わった高齢女性患者をたまたま診る機会があった.認知症はすでに目立ち,精神運動興奮やParkinson症状を呈し,早い経過で亡くなった.筆者は(Alzheimer型)老年認知症と臨床診断したが,その病像が従来の記載と異なっており,疑問をもったので自分で病理解剖し,脳標本を検索した.脳幹にレビー小体がありParkinson病の所見があるうえに,大脳皮質には老人斑や神経原線維変化がありAlzheimer型老年認知症の所見もみられた.よく見ると大脳皮質深層の小型神経細胞にエオジンにぼーっと染まる小体があり,その眼で見るとたくさんあるではないか.これは何だろうかと疑問をもったことがその後の発展につながろうとは思いもしなかった.脳幹のレビー小体に似ているが,境界明瞭ではなく,ハーローもなく,染まりも弱く,しかも当時はレビー小体は大脳皮質にはないか,あってもごく少数というのが常識であったので,神経病理の大家の先生方に見てもらったが,はっきりした答えは得られなかった.学会発表の際,多くの先生から標本を見てもわからないがどれがそれかと聞かれたものである.見えているのに見えなかったのである.同じころに岐阜大学の故難波益之教授の教室から若くてAlzheimer病変のない症例が学会発表されたが,筆者が見たものと同じと思われた.さらに,当時筆者が最初から最後まで診ていた高齢男性が亡くなり,その脳を鏡検して驚いたことに,最初の症例よりは軽いが同じ所見が見いだされた.これはただごとではないと考え,検討し始めた.ちょうど学園紛争のころで,大学での研究が困難なため東京都精神医学総合研究所に移り,当時の所長・石井毅先生の勧めでこの症例を神経病理の国際誌に報告した.当時は国際誌に投稿することは少なく,今と違って文献を調べるのにたいへんなエネルギーを要したので,この症例が発表されたのは1976年であった.その後,日本では同様の症例が次々報告された.だれかが見つけると次々に見つかるのが常である.筆者は1978年にその小体が脳幹のレビー小体と基本的に同じであり,大脳型レビー小体として報告した.その際,レビー小体は大脳皮質や扁桃核や前障にも多数出現し得ることを強調し,大脳皮質での分布,レビー小体と神経細胞死との密接な関係を指摘した.ミュンヘン留学中に同様のドイツ人2症例を報告したが,これはヨーロッパでの最初の症例である.1980年にレビー小体病,1984年にびまん性レビー小体病を提唱したところ,欧米でも同様の症例が次々報告され,注目された.最近では免疫組織化学的手法により大脳皮質のレビー小体は簡単に見つかるようになり,臨床診断基準も発表され,国際的によく知られるようになった.昨年11月に横浜で国際ワークショップを主催してからはマスコミでも取り上げられ,一般人にも知られようになってきている.
 DLBの発見は偶然に診た症例から始まり,それが重要な疾患の発見につながったものであり,偶然から重大な発見へと導く能力はserendipityと呼ばれ,多くの重要な発見はこのserendipityによるものであることが知られている.Serendipityはだれにでも備わっている能力であると思うが,まず疑問をもつことが最初にあり,それを極めていくことがserendipityにつながるものと思われる.
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2007/3  老年精神医学雑誌Vol.18 No.3
認知症ケアの「生活主体」「エンパワメント」「尊厳」
今井 幸充
日本社会事業大学大学院福祉マネジメント研究科
 2003年6月に高齢者介護研究会がまとめた「2015年の高齢者介護―高齢者の尊厳を支えるケアの確立―」の中で,新しいケアモデルの確立は「認知症ケア」と謳っている.そこでは「これからの高齢者介護において,認知症高齢者の対応が行われていない施策は,施策としての存在意義が大きく損なわれていると言わざるを得ない」とし,認知症高齢者のケア抜きには高齢者ケアはあり得ないと断言している.この2015年は,堺屋太一氏がいう戦後の「団塊世代」がすべて65歳に達する年であり,超高齢社会がもたらす社会構造の変化を十分に見極めたうえでの制度改革や社会サービスの提供が求められる年でもある.すなわち高齢者の豊かな精神生活の確立であり,逆の見方をすれば,高齢者の孤立,閉じこもり,孤独死といった心理的側面の支援や虐待,権利侵害といった生活弱者としての高齢者への社会支援の確立である.そのひとつに「尊厳を支えるケア」を基本とした認知症高齢者の新しいケアの確立が望まれている.
 わが国で認知症高齢者ケアの理念を初めて明確に提唱したのはおそらく室伏君士氏であろう.室伏氏は,『痴呆老人の理解とケア』(1984年,金剛出版)の中で,認知症ケアは「理にかなった介護」を行うこととし,認知症の人への尊厳とその人の生活,生き方を支えるケアを行うためには,日々の認知症の人同士の会話や仲間関係の観察から,彼らの安寧や良好な「なじみの関係」を見いだし,それをケアに積極的に取り入れる必要性を説いた.また最近長谷川和夫氏1)は,認知症高齢者の尊厳を支える介護の重要性をTom Kitwoodのパーソン・センタード・ケアの理念から説明したが,20年前の室伏氏の「その心を知って」が長谷川氏の「個別的な人間存在」に,「生きれる人間」が「自分らしさ,ユニークな個性をもって生きていこうとする」と,その表現が変わっても基本的理念は変わらない.すなわち認知症ケアの実践においては,「生活主体」「エンパワメント」そして「尊厳」のケア理念が欠かせないキーワードなのである.
 生活を主体としたケアとはなにか.認知症は生活障害がその病態の主である.「国際生活機能分類―国際障害分類改訂版―:ICF」では,生活障害を心身機能・構造の障害と社会活動の制限,社会参加の制約のすべてを包括したものと定義した.すなわち,生活障害を身体の機能と構造に視点をあてた「身体レベル」,個人の生活活動に視点をあてた「個人レベル」,そして社会への参加,個人の社会へのかかわり方,社会への統合と相互作用に視点をあてた「社会レベル」,この3つのレベルから多角的にとらえようとしたのである.それゆえ,認知症の人の生活を主体としたケアとは,彼らの日常生活の適応と行動変容を目標とした治療的かかわりと,認知症の人が自由に活動でき,制限なく日常生活・社会生活に参加できるような環境を提供することであり,人権擁護を最優先する社会全体の行動であるといえる.
 生活主体のケアで重要となるのが,エンパワメントである.これはソーシャルワーク実践でよく使われる言葉であるが,「ある困難な状況におかれた者がその状況を自分自身でよい方向に変化させる力を強化するように導くこと」を意味する.つまり,医療関係者や介護関係者等が,認知症高齢者とその家族に一方的な情報提供や助言,援助の押しつけではなく,彼らがもっている力を最大限に活用し,自身で問題を解決していくパワーを発揮できる方向に導くことがエンパワメントである.
 尊厳を支えるケアの実践とは,ケアスタッフが医療・福祉現場でクライアントのニーズや権利を明確にし,それを最大限に尊重したケアを提供することである.すなわち,尊厳を支えるとは,アドボカシー(権利擁護,advocacy)であって,ケアスタッフは,クライアントの代弁者として彼らの権利を守るアドボケイトであることを表明することである.この権利擁護については,その解釈が専門家により多少異なるが,平田氏は「自己決定権の尊重という理念のもとに,本人の法的諸権利につき,本人の意思に即して過不足なく本人を支援すること」2)で,権利擁護で最も重要なことは本人の自己決定を尊重することである,と言う.この考え方では,従来の権利擁護が権利侵害から守ることに主眼がおかれていたのに対して本人の意思や意向が十分に生かされるような支援を行う「過程としての権利擁護」も重視したのでもある.認知症の人は,その病初期から認知機能障害により適切な判断が冒され,自分の意思意向を明確に伝える能力に欠けることから,彼らの自由な選択や決定が他者に委ねられることが多い.それゆえ尊厳を支えるケアの実践にはこのアドボカシーの視点が欠かせない.

[文 献]
 1)長谷川和夫:認知症ケア標準テキスト 認知症ケアの基礎.ワールドプランニング,東京(2006).
 2)平田 厚:これからの権利擁護.筒井書房,東京(2001).
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2007/2  老年精神医学雑誌Vol.18 No.2
もの忘れ外来の間で
井関 栄三
順天堂大学医学部附属順天堂東京江東高齢者医療センターメンタルクリニック
 最近,「もの忘れ外来」という名称があちらこちらで使われているが,これには認知症患者を専門に診ている外来で,認知症の早期発見と治療を目的とするというニュアンスが含まれている.もの忘れ外来を担当する医師は「認知症専門医」ということになり,そういう意味では筆者もその一人ということになる.認知症専門医は,文字どおり認知症の専門医であって,認知症の研究者という側面は含まれていない.
 認知症専門医は,本来の専門分野として,精神科,神経内科,さらに老年内科などに属している.このため,同じ認知症患者を診る場合でも,専門分野によって診る視点に違いがでてくる.たとえば,診療は診断と治療を含むが,これは同時に臨床研究につながっている.認知症の診断において,症候学のほかに,神経心理学,画像診断やバイオマーカーを用いた診断学など,臨床研究の手段にはさまざまなものがあり,これらをどのように使いこなすかで個々の医師に違いがみられる.また,治療についても,新しい薬物療法を模索している医師があれば,非薬物療法を工夫している医師もいる.病院での治療以外に,ケアに重点をおいて,コメディカルと協力している医師がいる.
 これらは,個々の医師の関心のほかに,認知症患者をどこで診ているかによっても異なっている.画像設備や人員の整った大学附属病院や専門医療機関の専門医のほか,一般の総合病院でリエゾンとして認知症患者を診ている医師,重度認知症治療病棟をもつ精神科病院でBPSDの治療に当たっている医師,ホームや老健で認知症患者を診ている医師,クリニックで認知症を含む高齢者を診ている医師など,個々人の背景も診療行為の内容も異なる.
 本誌の読者には,認知症患者を診る機会があるか,少なくとも興味をもっている精神科医が多数含まれていると思われる.認知症患者を診るにあたって,精神科医であることは,どのような意義をもっているであろうか.画像やバイオマーカーなどの手段を利用して,客観的に認知症を診断しようという姿勢は,精神科医より神経内科医や老年内科医のほうが熱心であるように思われる.彼らは,臨床研究の分野でも,基礎研究との協力を大事にし,これを診療に反映していこうとする.一方,精神科医は,統合失調症や気分障害など,いわゆる機能性精神疾患に比べて,認知症の診療を苦手としている者が多いのではないだろうか.精神科医は,患者との言語ないし非言語的交流によって患者の内面を理解しようとし,適切な介入をすることで症状の改善を図ることを精神療法と呼ぶ.認知症の場合,脳の器質的変化により言語ないし非言語的交流が困難になるとともに,患者の内面も失われてしまい,症状の改善は望めず,精神療法の関与する余地がないと感じるのが,精神科医が認知症を苦手とする理由のひとつであろう.
 しかし,少なくとも初老期以降の患者を診る場合,気分障害や神経症領域とされる疾患でも,認知症と共通する視点が必要である.すなわち,脳の老化により柔軟性に乏しく脆弱となった人格が,性格要因と状況・環境要因とのかかわりのなかで破綻をきたすことが発症機序として考えられる.認知症では,脳の器質的要因がより明確に発症機序に関与するものの,私たちは患者の従来の人格や周囲とのかかわり方を探り,これが器質的要因によりどのように破綻をきたしているのかを知らなくてはならない.正確な診断には,さまざまな手段を用いて器質的要因を客観的に評価することが必要である.しかし,診断のついた後には,適切な薬物療法ないし非薬物療法に加えて,認知機能の低下とともに人格が変化して生ずる不安や混乱に受容的に対応し,その時その時を安心して生きてもらえるように介入を行っていく必要がある.これは精神療法そのものであり,熟達した精神科医にこそ可能であると思われる.
 筆者の外来は,認知症患者の専門外来,いわゆるもの忘れ外来であるが,認知症以外に,老年期のうつ病,心気神経症,妄想性障害など,多彩な患者が訪れる.彼らと認知症患者を診る筆者の姿勢にさほど大きな違いはみられない.
 逆にいうと,初老期以降の患者を診る場合に,機能性精神疾患と認知症を安易に区別しようとしないことが大切である.現時点での診断に対して薬物療法や精神療法を行うが,先入観を省きながらも想像力を失わず,症状の変化に応じていつでも診断と治療の方向を変えるつもりで,患者と長く付き合っていく姿勢が必要である.
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2007/1  老年精神医学雑誌Vol.18 No.1
日本の認知症臨床のレベルと今後に期待すること
池田 学
熊本大学大学院医学薬学研究部脳機能病態学分野
 昨年の医学系の新聞の新春号にも「認知症医療の今」というタイトルで私見を書かせていただいていた.そのまとめの部分に若干加筆して,もう一度この年の初めの機会に紹介してみたい.
 わが国の臨床に直結した認知症研究は,これまでも世界的なレベルで貢献を果たしてきた.1926年に前頭葉や側頭葉の限局性萎縮例に対してピック病と名づけたのは後の旧満州医科大学の大成潔教授であった.また,レビー小体型認知症(DLB)の発見者は横浜市立大学の小阪憲司名誉教授である.1970年代から続いている東京都の調査や剖検例に基づく久山町研究は,世界に誇るべき認知症に関する縦断的疫学研究である.さらに,アルツハイマー型認知症(AD)の治療薬として世界に認められているドネペジルや前頭側頭型認知症(FTD)の行動異常に有効性が確認されたSSRIの一つであるフルボキサミンはわが国で生成された薬物である.後部帯状回の機能低下に着目した早期ADの診断法,ADの物盗られ妄想,DLBの転倒や心筋シンチを用いた補助診断法,FTDの非薬物療法,認知症の精神症状に対する漢方薬の使用に関する研究なども,最近わが国の研究者から発信された臨床研究である.また,認知症ケア学会と東京都老人総合研究所の本間昭参事研究員が中心となって全国に展開されつつある認知症対応実践講座は,まず各都道府県において講座の指導医となる医師の研修を実施し,その指導医がビデオを活用した共通の教材を使用して,かかりつけ医やケアスタッフを教育するという地域レベルの認知症臨床の向上を目的とするユニークな試みである.この事業は一昨年ストックホルムで開催されたIPAのプレシンポジウムでも各国の研究者から注目された.専門医教育に関しては,愛媛大学の田邉敬貴教授による「痴呆の症候学」がある.これらの教材は,症状や診断法を映像化し,言葉ではなく実像による教育・啓発を目指している点で,これからの精神医学教育の一つの流れを示していると思われる.
 今後も,このような多方面からの臨床研究・教育の進展が期待される.また,欧米よりもはるかに急速な高齢化と認知症患者の増加が続いているわが国は,今後同様の道筋をたどると思われるアジア諸国のモデルとして,介護保険制度や医療経済に関する社会医学的な研究分野についてもエビデンスを蓄積し,われわれの貴重な経験から得られたデータを近隣諸国に提供していくことが期待される.新春の特集ということで,多少,自分を鼓舞する意味でも身贔屓に書いたかもしれないが,1年経った現在でもまったく気持ちは変わっていない.このように,日本の認知症臨床のレベルは決して低くない.むしろ,先駆的な研究や独創的な試みもたくさん存在するのである.少なくとも,アメリカの臨床レベルが圧倒的に優れていて,彼らの主張する診断基準,ガイドライン,薬物の治験方法などをすべて鵜呑みにして,追随する必要はないと考える.もちろん,世界各国において,優れた認知症の臨床医,臨床研究者が活躍していることはまちがいない.しかし,筆者の専門とする臨床症候学の分野で,欧州や日本に比べて,とくにアメリカに優れた研究者が集中していると感じたことはない.認知症の臨床研究の分野でも,過剰にアメリカに追随していると,日本の国際外交の手詰まりと同じ状況に陥る危険すらあるように思われる.
 一方,わが国の認知症臨床において早急に解決すべき課題も存在する.たとえば,この数年,上記の全国で認知症かかりつけ医を養成するための指導医教育プロジェクトに参加する機会を与えられた.そこで驚いたことは,認知症医療の指導医(専門医)や研修医療期間の地域偏在である.都道府県によっては,ほとんど該当者がいないところすら存在した.このような真の意味での専門医の偏在化は,精神医療全般においても検討すべき課題かもしれないが,認知症患者の数や治療法の進歩,高齢化のスピードを考えると,喫緊の課題であろう.また,認知症の臨床研究の拠点づくりも必要かもしれない.こちらは,ある程度,人的資源や物的資源を集中させる必要があろう.たとえば英国では,FTDならマンチェスター大学の神経科,DLBならニューカッスル大学の精神科,semantic dementiaならケンブリッジ大学の神経科といった世界的な研究センターが点在しており,研究者も患者も周辺地域から集中するシステムになっている.そして,そこで学んだ若い研究者や臨床医が,地元に戻って(あるいは私のように自国に戻って)新たな地域拠点を築いている.筆者の前任地である愛媛大学では,ここ数年,他大学や施設から老年精神医学の臨床研究を志す医師が集まっている.1,2年で診療ならびに研究で大きな成果を挙げて地元に戻って行かれるが,私も含めて愛媛大学のスタッフにも刺激になり,共同研究の輪が広がっている.新医師臨床研修制度の開始によって,若い医師の全国的な異動が比較的容易になりつつある現在,このような臨床研究の拠点で学んだ老年精神科医が地元に戻って医療や研究を展開してはじめて,全国的な規模でのレベルアップが可能になると思われる.今年は新年を新天地で迎え,さらに大風呂敷を広げた巻頭言になったかもしれない.御容赦いただきたい.
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