2006/12 老年精神医学雑誌Vol.17 No.12
サフォン,ガウディ,時間の流れ
三村 將
昭和大学医学部精神医学教室
 カルロス・ルイス・サフォンの『風の影』という小説が日本でも話題になっている.靄につつまれたバルセロナ旧市街の一角に,無数の書物が眠っている「忘れられた本の墓場」.その「本の墓場」にこっそり隠された1冊の小説の作者と,偶然その本に出会った1人の少年をめぐる時間を越えた不思議な物語である.『風の影』の心象景色を追いながら,先日,20年ぶりにバルセロナを訪れた.いちばん印象深かったのはガウディの聖家族教会が確実に完成に近づいていたことである.20年前と比べると,新しい鐘塔が何本も建てられ,以前なかった彫刻も増えていた.教会内部でもガウディの設計図に従って建築が続けられていた.しかし,完成予定図を見ると,まだまだ道半ばで,これからあと100年,ことによると200年も営々と作業を続けていくのだという.
 聖家族教会の塔の上から市街を俯瞰すると,中心にまるで六本木ヒルズのような高層ビルが建てられていた.やはり20年前にはなかったこのハイテクビルを眺めながら,ガウディの設計図を1年で完成させようとすれば,まちがいなく技術的には可能なのだろうと考えた.やりようによってはできることをあえてやらない,手作業で進めていく.一見,遅々とした歩みでありながら,確実に時間が流れていく.そこにしっかりと芯の通った,ゆとりのようなものを感じた.
 今回初めて気づいたことだが,バルセロナもマドリッドも,エレベータに「閉」のボタンがないように思う.もちろん「開」はあるわけだが,あえて急いで閉めるという操作がない.もともと,町や住居の仕組みが若い人や動きの早い人向きにできていない,言い換えると高齢者や障害者にも暮らしやすいようにできているのではないか.そういえば昔,中学生のころに,ヨーロッパのどこかの国を旅行してきた担任の先生から「最新型の電車が走っているのに,自動ドアではない.自分で開けるのだ」という話を聞いたことがある.「自分でドアを開ける」ということはいろいろに解釈できるし,なにも懐古趣味がよいわけではない.しかし,科学技術の進歩を日々の生活のなかに収束していく時間の感覚がおそらくは日本とは異なるのだろう.
 ヨーロッパ各国では,社会の高齢化が始まって,それが完了するまでに比較的長い時間がかかっている.英国でもドイツでも約半世紀,フランスにいたっては,1世紀以上かかって,いわば社会がゆっくり熟成している.これに対して,日本では1970年代に老年人口の比率が全体の7%を上回って高齢化社会に突入してから,14%に達するまでにわずか四半世紀しか経っていない.さらに,加速度的に現在は20%を突破し,あっという間に未曾有の超高齢社会になってしまったことは周知の事実である.少子化問題,介護保険の見直しなど,問題は山積しているが,日本でこういった社会の高齢化にどのような対策をとっていくのかが議論されるようになったのは比較的最近のことである.いや,そもそも,議論や対策というより,その基盤に流れる「老いと向き合っていく」姿勢や世界観が十分ではないといったほうがよいのかもしれない.自分が,家族が,街が,社会が齢を重ねるとはどういうことなのか.そのような問題について,一部の専門家のみが議論するのではなく,社会全体が共有する屋台骨のようなものが欠けているのではないか.
 最近,話題に上ることが多い認知症の患者さんへの告知の問題や,自動車運転の問題についても,科学技術の進歩と社会の成熟という背景を無視しては考えられないと思う.たとえば,アルツハイマー病の告知が問題となるのは,それが単なる疾患宣告ではなく,医学の進歩によって症状進行を抑止する,あるいは将来的には根治しうる治療技術が現実となってきているからである.いずれ医学は記憶力をよくする夢の薬を発見したり,脳の移植によって認知症を治そうとするかもしれない.これが是か非かといった議論は告知の問題と無縁ではない.
 また,認知症と運転にしても,自動車のハイテクを扱う技術者に言わせると,認知障害があってもそれを克服するような車を作ること自体は決して夢物語ではない.車間距離や側方距離を自動制御して走る車や,死角になっている横断歩道に人がいるかを探知して伝えるシステムがすでに実現されているように,認知症の人でも安全に運転できるハイテクカーを作ればよいのだと言う.なぜ車は危険なのか.それは人が運転するからだ,機械が運転すればいい,と.しかし,これでは「おサルの電車」が安全なのと同じ論理である.技術と社会,機械と人間の折り合いをつけるには,そして主体的に生きるには,われわれはしばし立ち止まって,ゆっくり考える時間が必要な気がする.
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2006/11 老年精神医学雑誌Vol.17 No.11
認知症予防検診の必要性と今後の課題
浦上克哉
鳥取大学医学部保健学科生体制御学講座・環境保健学分野
 認知症は現在65歳以上の高齢者の10人に1人の頻度でみられるきわめて“ありふれた疾患”である1,6).また,認知症のなかで最も頻度の多いアルツハイマー型認知症は20人に1人の頻度で存在する.アルツハイマー型認知症には現在塩酸ドネペジル(donepezil,商品名:アリセプト)が治療薬として使用可能であり,有効性が広く報告されている2).さらに,現在アミロイドbタンパクのワクチン療法などの根本治療薬となりうる薬物が急速な勢いで開発され3),おそらく10年以内には使用可能となることが期待される.しかし,根本治療薬が出来ても早期に診断ができなければ効果が期待できない可能性が高い.そこで,今後の対策としては,来たるべき治療可能な時代に向けて,認知症の早期検診を実施する必要があると考える.そこで,現在認知症早期発見のための検診および予防事業がさまざまな地域で行われている.予防というと病気にならないようにすることとのみを考える人が多いが,予防の概念は広く,1次から3次予防まである.認知症発症の予防が1次予防,認知症の早期発見,早期治療は2次予防,認知症の症状悪化,進展を防止するのが3次予防である.軽度認知障害(Mild Cognitive Impairment ; MCI)レベルの人に対して認知症予防教室へ参加していただき予防を図る(1次予防).治療可能な認知症を早期発見して治療する,またアルツハイマー型認知症を早期発見して塩酸ドネペジルによる治療を行う(2次予防).認知症の進行したケースによいケアを行い,合併症の治療を行う,悪い環境の改善を図ることにより,症状の悪化,進展が防げる(3次予防).
 認知症予防検診および予防教室は地域である程度の効果が得られているとする報告1,5)がなされているが,問題点としては地域での認知症への偏見が根強く,認知症予防検診および予防教室への参加率がまだまだ高くないことである.認知症への正しい理解を広めて,早期発見,早期治療,予防が行われることが望まれる.とくに筆者も認知症予防検診を地域で実践して感じることは,若い世代への啓蒙活動の必要性である.検診で認知症の軽度と思われる人を見つけても,家族の理解が得られないとなかなか受診につながらない.また,受診されて治療に入っても,家で対応される家族が認知症を理解しているか否かで臨床経過が大きく異なる.筆者は,これまで市民フォーラム,地域の公民館での講演などで啓蒙活動を行っているが,対象のほとんどが高齢者である.これからの啓蒙活動として,若い世代へ向けたものが必要と考える.学会としても市民フォーラムなどを企画しているが,若い世代が多く来ていただけるようなプログラムを考える必要があると思う.大牟田市認知症ケア研究会が認知症の絵本を作成し4),これを材料として子どもたちに認知症および認知症の人を理解する学習を推進しているが,それとともに認知症の講演と絵本を使ったコンサートを行っている.これは,若い世代に多く参加していただける企画であり,これからの市民向け講演会プログラムのよい提案と考える.

[文 献]
 1)朝田 隆:厚生労働科学研究費補助金効果的医療技術の確立推進臨床研究事業「痴呆性疾患の危険因子と予防介入に関する研究」平成14年度総括・分担研究報告書.1-4,平成15年3月.
 2)Homma A, Takeda M, Imai Y, et al.(E2020 study group): Clinical efficacy and safety of donepezil on cognitive and global function in patients with Alzheimer's disease ; 24-week, multicenter double-blind, placebo-controlled study in Japan. Dement Geriatr Cogn Disord, 11 : 299-313(2000).
 3)中村 祐:将来の抗認知症薬の展望.老年期認知症ナビゲーター,266-267,メディカルレビュー社,東京(2006).
 4)大牟田市認知症ケア研究会:いつだって心は生きている.大切なものを見つけよう.中央法規出版,東京(2006).
 5)斉藤 潤,井上 仁,北浦美貴,谷口美也子ほか:認知症予防教室における対象者の判別法と評価法の検討.Dementia Japan,19(2):177-186(2005).
 6)涌谷陽介,石崎公郁子,足立芳樹ほか:鳥取県大山町における2000年度痴呆性疾患疫学調査.Dementia Japan,15:140(2001).
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2006/10 老年精神医学雑誌Vol.17 No.10
認知症の名称変遷と今後について―考察
田子 久夫
福島県立医科大学医学部神経精神医学講座
 従来用いられていた「痴呆」という用語が「認知症」に置き換わり,今年度の老年精神医学会でも正式に使用が承認された.これで認知症はこれにかかわるほぼすべての学会で認定されたとみてよいだろう.名称そのものの決定は,平成16年3月の柴山提言以来,同年12月24日の用語検討委員会での採決まで,わずか9か月の短期間のことであった.精神分裂病の統合失調症への名称変更に比較するとあまりにも短期間であり,拍子抜けするほどでもあった.これについてはさまざまな議論もあろうかと思われるが,マスコミの威力もあり,われわれ専門医の話題に載る間もなく,一般にはあっけないほど受け入れられてしまったようである.専門外来でも「うちのおばあちゃんは認知症ではないのですか」などと先手をとられてしまい,「痴呆かもしれないですね」などとうっかり言おうとして冷や汗をかいたりすることもあった.一般の人に対する「認知症」改称の効果は大きく,病名の説明や告知でも従来より切り出しやすくなったといえよう.
 筆者は以前,厚生労働科学研究費で本間昭主任研究者を中心とする班研究でガイドライン作りに携わり,認知症(当時は痴呆)診断を担当したことがあった(アルツハイマー型痴呆の診断・治療・ケアガイドライン:老年精神医学雑誌 第16巻増刊号-I,2005).そのとき認知症確定の基準が実際はかなりあいまいであり,むしろ流れとしてはDSM-IVのように認知症診断基準がなくなりつつあることに気づいた.認知症の一般的な定義は「いったん正常に発達した知的機能が後天的な脳の器質性障害により持続的に低下し,日常生活や社会生活が正常に営めなくなっている状態(老人性痴呆疾患診断・治療マニュアル.厚生省,平成3年)」とされている.ここでは当然ながら脳の器質性障害は特定されず,正常に営めない生活とはどの程度かも示されてはいない.これでは「腹痛症候群」とたいした違いはなく,医学的な有用性についても疑問がある.それが認知症診断基準の医学的必要性が低下している流れの理由かもしれない.昨今の軽度認知障害(MCI)概念の台頭は「認知症」に縛られてしまった脳器質性障害の陰なる訴えとみなされてもしかたがない.
 アルツハイマー病の病名の変遷も興味深いところがある.アルツハイマー型老年痴呆(senile dementia of Alzheimer-type ; SDAT)の病名を懐かしく思い出される人も多いことだろう.最近ではアルツハイマー型認知症に固定してきた感もあるが,今後は年代にかかわらない「アルツハイマー病」に統一される傾向にある.実際欧米ではすでにAlzheimer's disease(略してAD)になったといえる.老年期と若年型の異種論もあるが,検証が確定するまでは病名単純化の流れは変わらないと思う.実際,パーキンソン病の末期にはしばしば認知症を呈するが,認知症の定義に当てはまってもパーキンソン型認知症と呼ぶことはない.すでに運動障害によって生活機能が大きく損なわれているので,あえて認知症をつける意味がないからかと思われる.しかしそれなら,アルツハイマー型認知症に対しても同様の扱いをしてもよいのではないかと感じてしまう.そのためには知的機能の低下をきたす前に病気であることを示す必要が生じてくる.アルツハイマー病の早期診断やMCI診断の研究はその端緒となるものであり,今後は「前アルツハイマー型認知症」(非認知症を含む広義のアルツハイマー病)の概念確定も夢ではないだろう.これは将来認知症に至る可能性が高い病的状態ともいえ,がん検診と同様,集団検診の対象にもなりうる.
 認知症は知的機能の低下による生活機能障害を基準にしていることは明瞭であることから,医学・生物学的な判断よりは,実生活に根ざした内容が基準となるものであり,介護やケアの分野で重要な概念なのである.痴呆からの病名変更はこの概念が変わってしまい,大きな混乱をもたらす可能性もあった.そのため,介護やケアの分野における専門家に認知症名称変更に対する懸念や異論が多かったともいわれている.しかしながら,現場の人たちの努力もあり,その後大きな混乱に至らずに済んだのは幸いと言うべきであろう.
 ここで,せっかく名称が新しくなったのであるから,混乱のおそれがなくなったところで私案を提唱してみたい.すなわち,認知症を脳器質性障害による知的機能低下の重症度判定基準に用いてはいかがであろうか.『あなたの脳血管障害の程度は認知症レベルですね』といった具合に,である.そうすれば,アルツハイマー病(広義)を含むもろもろの脳器質性障害は「認知症」という状態に至る可能性のある疾患という解釈になるだろう.認知症は病名ではなく,ある疾患でより強力な援助が必要になる状態判断をするための基準になるのである.かなり独断的な考えではあるが,本来は認知症という表現が不要になるほどその知識と対処法が普及することが重要なのはいうまでもない.
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2006/9 老年精神医学雑誌Vol.17 No.9
アルツハイマー病治療薬の到達点はどこにあるのだろう
繁田 雅弘
首都大学東京健康福祉学部
 アルツハイマー病に対する次世代の治療薬で,最右翼に位置するものといえば,脳の病理学的変化の阻止をねらった薬物であろう.沈着したbアミロイドの除去をねらったワクチンや,前駆体タンパクからbアミロイドを産生するb-セクレターゼの阻害をねらった薬物は,臨床効果を十分に期待させるものである.いわゆる補充療法ないし対症療法と呼ばれるコリンエステラーゼ阻害薬やN-メチル-D-アスパラギン酸(NMDA)受容体拮抗薬と違い,病理学的変化に働きかける点で原因に一歩近づいた治療といえる.これによって神経細胞の障害を止めることができれば,発病後においても病気の進行スピードを限りなく加齢変化に近づけることができるかもしれない.
 一方,アルツハイマー病の病理学的変化は症状が出現する十数年ないし数十年前に始まるとされている.つまり異常タンパクの沈着とともに神経細胞の障害が当初は潜在的に進行し,その後一定レベルを超えた段階で症状が出現するものと考えられている.しかしこのことは,臨床症状が出現する以前に神経細胞の障害が進行しており,臨床的には潜在的であっても記憶・認知機能の低下がすでに始まっていると考えられる.あるmild cognitive impairment(MCI)の方が“度忘れ”や仕事上の“ケアレスミス”を主訴に来院したことがあった.この人は10年以上前から徐々に記憶力が衰え,仕事の効率が落ちてきているように感じていたという.「年のせいだろうか,老化とはこのようにはっきりと意識できるものなのだろうか」と漠然と考えていたという.たしかに,教育程度が高くきわめて高度の知的作業に従事していたとしても,潜在的に進行する病理学的変化が及ぼす影響を,MCIと診断される十数年も前からこうしたかたちで認識していたとは,にわかに信じがたい.しかしその一方で,潜在的に進行する神経細胞の脱落が,臨床的に顕在発症する前から認知機能における予備能力といったものを徐々に奪っていた可能性は十分に考えられるのである.この段階は障害もごく軽微で老化と区別することはできないが,やがて障害の進行スピードが速まり,老化を上回ったと判断された段階でMCIと認識されるのであろう.
 将来,すでに沈着しているbアミロイドなどの異常タンパクを治療によって消失せしめたとしても神経細胞を臨床的に有意に再生させることは困難のように思える.たしかに神経細胞には可塑性があり,これを神経成長因子などの栄養・分化因子などで加速することができたとしても,神経細胞自体の再生能力に多くを期待することはできないのではないか.また神経幹細胞移植などの技術を用いた方法も,現時点では想定しがたい.大脳連合野に広範に形成された神経細胞のネットワークはその人の行動様式を規定しているものであり,その人の認知機能の総体といえるものである.これは長年にわたる学習や経験によって形成されてきたもので,その人の個性や人となりそのものである.病理学的変化によって希薄化しつつあるこの広範な神経回路網が,移植ないしは増殖した神経細胞群によって補うことができるとは思えない.個体由来でない外来の神経細胞が,そうたやすく従来の神経回路のなかに有機的に組み込まれ,既存のネットワークとともに有効に機能するとは考えられないからである.
 こう考えてみると,治療が進歩するほど従来以上に早期診断が決定的に予後を左右することになり,軽症患者を対象とした残存機能の維持のためのリハビリテーションや非薬物療法,そして対症療法ないし補充療法的な薬物療法はさらに必須のものとなるだろう.そして行動心理学的症候(周辺症状)のマネジメントや環境調整もさらに重要なものとなるだろう.こうしたアプローチは,現時点では日常生活能力の維持や,介護負担の軽減ないしは施設入所を遅らせることを目的に行われているが,将来は仕事や家事などの社会生活能力を維持するために行われることになると考えられる.なぜならアルツハイマー病の患者たちは,より軽症の障害を抱えながら,より長期間にわたって社会で活動することになるのだから.
 ―― こうした考えは悲観的だろうか.それとも筆者の想像力を超えて画期的な治療法が開発されるのだろうか.
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2006/8 老年精神医学雑誌Vol.17 No.8
添付文書・治験・薬品情報
宮岡 等
北里大学医学部精神科
 最近同僚との話のなかででた老年精神医学にも関係する2つの話題をあげたい.オランザピンとクエチアピンの添付文書には「警告」として,「(1)著しい血糖値の上昇から,糖尿病性ケトアシドーシス,糖尿病性昏睡等の重大な副作用が発現し,(以下略)(2)投与にあたっては,あらかじめ上記副作用が発現する場合があることを,患者及びその家族に十分に説明し,(略)」という記載がある.十分な判断力がある場合でも患者のみへの説明と同意で処方してはいけないのかというのが研修医の疑問であった.教科書的な答えは「添付文書は守らなければならない.緊急性があれば,事後,すみやかに家族の同意を得るという条件で処方せざるをえない場合もありうる」が答えであろうが,家族への説明まで求めていない抗精神病薬がある以上,どうしてもこの2剤を緊急に用いなければならないという事態はほとんどないと思われる.
 気になって,家族に対しても副作用の説明を求めている他の薬物を調べてみると,血糖降下薬で「重要な基本的注意」に「低血糖に関する注意について,患者及び家族に十分徹底させる」という記載のあるものがあった.また抗がん剤の「警告」のなかに「治療開始に先立ち,患者又はその家族に有効性及び危険性を十分説明し,同意を得てから投与する」を見つけたが,病名告知も関係するのであろう,「及び」ではなく「又は」であった.「警告」のなかに家族への説明まで記載されている薬物はきわめて少ないことから,2つの新規抗精神病薬の警告がもつ意味は大きい.このような情報の伝えられ方には施設差や地域差があるのかもしれないが,発売直後からもう少しだれでも意識しやすいかたちで広めることはできないのであろうか.製薬メーカーのなかに,添付文書にさえ記載すれば自らの責任の多くは終わったとする姿勢を垣間見ることもある.それであれば治験にかかわる臨床精神薬理の専門家に重要な情報を強調して提供してほしいが,それも現状では十分とはいえないように思う.
 医師自身が添付文書にどの程度目を通して薬物を用いているかという根本的な問題もある.高齢者に関係して同僚と話したとき,添付文書の「高齢者への投与」に与薬開始量が明記されている薬物とその用量くらいは知っておく必要があるという意見がでた.高齢者では薬物との因果関係を明確には否定できない急変が起こりやすいことを考えると,医療と法の接点である添付文書の記載を知っておくことはより重要であるといえるかもしれない.
 もう一点,老年精神医学の分野には脳代謝改善薬の承認取り消しという悲しい過去がある.近年,治験は新GCP(Good Clinical Practice,医薬品の臨床試験に関する基準)に基づいて実施され,ずいぶん改善されてきたが,最近気になったことがある.筆者の関係した治験に治験調整医師と治験調整委員会がおかれていた.治験調整医師は新GCPでは「多施設共同治験の実施において治験依頼者が選定することのできる,参加各医療機関の治験責任医師を調整する責任を担う医師又は歯科医師」であり,治験調整委員会は「多施設共同治験の実施を調整するために,治験依頼者が設置することのできる治験調整医師からなる委員会」とされ,いずれも設置を義務づけられたものではない.かつての治験では代表世話人や世話人会があって,治験計画の立案や施設の選定に役割を果たしていたと聞く.一方,治験のなかで本当に議論が必要な問題が起こっても世話人会で解決が図られ,実際に現場で治験にかかわっている医師の意見が反映されにくいといった面もあったようである.新GCPでは各施設の治験責任医師と治験依頼者(製薬会社側)が直接連絡をとり,現場の意見が研究計画や種々の判断に生かされやすくなるのかと期待していたら,一部の治験では治験調整医師や治験調整委員会が登場して,組織構造はあまり変わっていないような印象を受ける.「日本で治験が進みにくいのはなぜか」という話をしばしば耳にするが,このような複雑な構造によって現場の医師が研究に参加しているという意識をもちにくいことも関係しているのではないか.最初の話題のなかに「治験にかかわる臨床精神薬理の専門家に重要な情報を強調して提供してほしい」と書いた.情報開示という観点からみても,類似の薬物で同じような顔ぶれの医師を製薬会社側が治験調整医師として選定して,治験調整委員会を組織することが許容されている状態は適切であろうか.もちろん治験調整医師や委員会が治験を円滑に進めるために果たしている役割は大きいと思うが,それでもプラスマイナスを勘案して治験組織を再検討したほうがよい.
 添付文書や治験結果に注意しながら薬物を用いることの重要性をもう一度確認しておきたい.
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2006/7 老年精神医学雑誌Vol.17 No.7
専門医制度の発展を願って
松下 正明
都立松沢病院(顧問)
 私は,平成18(2006)年7月1日,学会規約の役員定年制に従い,第21回日本老年精神医学会の終了時をもって同学会の理事長の職を辞することになった.理事長を前理事長の西村健先生から引き継いだのが平成12(2000)年4月1日なので,まるまる6年間理事長の席にいたことになる.その間,理事,監事,評議員を含めた全会員の方々には強いご支援とご協力を頂き,滞りなく学会を運営できたことに,この誌面をお借りして,まずは心より御礼を申し上げたい.
 この6年間を振り返ってみて,その間の最も大きな出来事は,学会認定の専門医制度を立ち上げたことであろうか.そのほかにも,私の理事長の期間,学会の英文機関誌を発刊したこと,将来の学会法人化に向けて「在り方委員会」を立ち上げたこと,役員の定年制に加えて理事・監事の選挙による選出などを決めたことがあげられる.英文機関誌に関していえば大阪大学の武田雅俊教授をはじめとして医局の先生方に,後者に関しては神戸大学の前田潔教授にたいへんお世話になった.心から感謝を申し上げたい.
 ほかにもいろいろなことを試みたが,ここでは,そのなかでも最大のイベントであった学会認定の専門医制度について,いくつかの課題にふれてみたい.本制度は,最初の5年間の過渡的措置も終わり,昨年より本来の試験による専門医認定の制度に移行した.本格的実施の段階にはいったのである.かくして,現在,学会認定の専門医が833人,指導医が525人,認定施設が295か所となり,学会員数が2,600人弱のなか,会員のほぼ1/3の人たちが専門医ということになった.当初は,まずは1,000人ほどの専門医がいれば,日本の老年精神医療に貢献できるのではと考えていたので,ほぼ予定どおりの進展具合であるといえる.なお,繰り返し強調しておきたいが,本学会での認定は,老年精神医学にかかわる研究を行う専門の研究者を認定するのではなく,老年精神医療に関連するさまざまな患者さんの診断,治療,ケア,予防等のための,実際の臨床の場で働く専門医が対象であることを忘れてはならないだろう.また,老年精神医療の臨床といっても,単なる認知症だけを専門とするのではなく,気分障害や幻覚妄想状態,睡眠障害などにも病む高齢者の治療やケアにも精通することが要請される.
 なお,最初の5年間は過渡的措置として書類審査のみとしたこともあって,本制度導入直後に会員が一挙に倍増するという,当初,私どもが意図せぬことが生じた.しかし,学会の発展には会員数の増加が必須でもあり,会員の倍増はたいへん嬉しいことであった.
 私自身は,学会専門医制度導入には準備段階から実施に至るまで深いかかわりをもってきたので,本専門医制度が根づいて,日本の老年精神医学が社会に貢献する基盤となることを願うこと切なるものがある.
 しかし,現在の状況をみると,専門医制度が順調に活用されているのかどうか,いささか不安を抱いている.
学会認定による専門医や専門施設の役割が不明確なこともあって臨床の現場でその資格が十分に生かされていないこと,専門医や専門施設になるメリットがまだ確立されていないこと,あるいは本学会認定の専門医が厚生労働省などの行政機関から十分に認知されていないこと,また行政機関どころか今なお学会認定による専門医が社会的にほとんど認知されていないことなど,多くの問題点があるからである.あるいはまた,専門医であるのに,認知症高齢者のケアやケアシステム,あるいはその関連施設の運営のあり方などについて,ほとんどわかっていない人がいるなどという批判を聞くことがある.もし,このような批判や疑問があって,試験制度に移行したとたんに専門医を目指す人が少なくなったということであれば,学会としては由々しき問題である.それが私のいささかの不安につながる.
 上記のような問題があることには理事長であった私の責任が大きいが,その解決のためには,専門医制度ができたという形式だけでなく,これからはその内容を充実させ,社会的にも行政的にも日本老年精神医学会の専門医が高齢者にとって重要な役割を担っていることを認知させるための日本老年精神医学会による総力を尽くしての努力が必要である.専門医の量だけでなく質をどのようにして豊かなものにしていくのか,これからの日本老年精神医学会に残された最大の課題ではないかと考えられる.そして,専門医自身も,自らの果たすべき役割を十分に自覚し,診断や治療の技術や専門的知識の獲得のみならず,ケアなど福祉関係における活動にも周知していく努力をしなければならない.
 そうでなければ専門医制度自体が問われることになる.
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2006/6 老年精神医学雑誌Vol.17 No.6
老年期の嫉妬妄想
林 拓二
京都大学大学院医学研究科脳統御医科学系・精神医学
 「先生,年いくつ?」と,アル中患者に馬鹿にされながらも精神病院で臨床を始めてから,いつのまにか還暦を迎えてしまった.病院では,主として精神分裂病(統合失調症)の患者さんを診察してきたが,アルコールや老人の病棟を担当したこともある.若いときは若いなりに精一杯,病気を理解しようと努力してきたが,やはりどこかで自分とは異なる世界の出来事のように思い,自分自身の老いもまたはるかに遠い先のことと思っていた.
 学生時代に入眠時幻覚を経験し,眠ることがずいぶんと苦しかったことがある.そのとき,自分が精神病に罹ったのではないかと悩んだものだが,精神医学の教科書を読んで胸をなでおろしたものである.しかし,年を重ねてさまざまな経験を経るにつれ,自分とは関係がないと思っていた精神病が身近に感じられるようになり,また,身体的な衰えのみならず,精神的な面での変化を感じるにつれ,いくばくかの不安とともに精神的な異常を自ら体験するのではないかと考えるようにもなっている.
 このようなことを考えるのも,最近高齢のご夫婦の間に生じた嫉妬妄想を数例,身近に経験したからである.超高齢化社会となり,配偶者が揃って身体的に健康なまま高齢を迎える時代になったからでもあろう.「性」に関する問題を,「年甲斐もなく」,精神科医に相談するには抵抗もあり,症例として浮上することがさほど多くなるとは考えられないが,老年期の嫉妬妄想は確実に増加しているのではないかと思われる.私自身は,老年期の性の問題にさほど関心がなかったせいか,そのような年齢では「性」の問題はないものと思い込んでいたが,本誌が特集したように(第16巻第11号,2005年11月号),改めて「性」に終わりがないことを思い知らされている.
 高齢社会に伴って生じるのは痴呆(認知症)患者の増加だけではない.老年期に特徴的な精神症状も認められる.皮膚寄生虫妄想は,老年期に生じる妄想性症状群のなかでも代表的なものであるが,意識障害や痴呆は軽微であるか,あるいは認められない純粋型も多く,老化過程から生じる一次的な脳の器質性疾患をその原因と考える前に,まず内因性精神病との関連を考慮しなければならないであろう.このような妄想性症状群は,かなり特殊なものであるが,老齢に伴って確実に増加するのは,意識障害や痴呆を伴う精神病状態であり,身体に基盤のある(脳に関係する)精神病とされるものであろう.老年期にしばしば認められる「物盗られ妄想」は,痴呆との一次的な関連を有するものであり,家の中に知らない人が住み込んでいると訴える「幻の同居人」とよばれる症状もまた同様なものであろう.このような妄想は,脳の器質的な変化に基づく知的な機能低下がその成立基盤となり,長く続く社会的孤立から思考の柔軟性が低下し,自己の存在を脅かすものへの不安と恐怖から,このような症状が出現するものと解釈されている.
 これらの妄想とともに,嫉妬妄想もまた老年期における代表的な妄想であり,これもまた,脳の器質的な変化との関連が大きいといえよう.すなわち,患者は妻の側に男が寝ていたと主張して妻の不実を責めたてるなど,これらの症状の背後にはせん妄が重要な要因になっている場合もあり,意識状態の動揺がこの症状の成立する契機になっているように思われる.
 もちろん,「嫉妬」という現象は人間がもつさまざまな感情のひとつであり,おそらく,だれもがその情念に苦しんだ経験を有するものであろう.しかし,嫉妬妄想という場合は,配偶者が不貞をしていないにもかかわらず,不貞をしていると確信することであり,単なる嫉妬とは異なる.しかしながら,このような妄想は,(疾患の結果ではなくとも)何らかの社会生活上の契機によって,疑念から確信へと発展する場合もあり,あるいは,疾患の結果として,内因性精神病をはじめとするさまざまな疾患においても認められる.とりわけ,アルコール症においては,アルコール摂取が性衝動を高める一方で,性的能力の低下を起こさせるという「逆説的性障害(Kraft-Ebing)」によって古くから説明されてきた.老年期の嫉妬妄想もまた,老化によってもなお性衝動の低下が少ないにもかかわらず,身体的な性的機能が低下するという,両者のアンバランスから発症すると考えることも可能であろう.しかし,この領域における実証的な研究はいまだに少ない.老年期の「性」をめぐる精神医学的問題は,「症例」としてますます増え続けることが予想され,今後取り組まなければならない研究テーマのひとつであろう.
 厚生労働省の統計から推測すると,日本人は90〜100歳で全員が痴呆症になるという.ちょうど100歳くらいが,身体的にも精神的にも寿命なのであろうが,最近は100歳を超えて心身ともに健康な人も少なくない.できうればそのようでありたいものだが,遅かれ早かれ老化は避けがたい.これからは,自分自身のこころとからだを観察しながら超高齢化社会における精神医学の役割を考えていければと思う.
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2006/5 老年精神医学雑誌Vol.17 No.5
アルツハイマー型認知症の未病と予防対策
北村 伸
日本医科大学武蔵小杉病院内科
 2,000年以上前に書かれた中国医学の経典である黄帝内經素門に,病気の早期の兆候を見いだし治療をすることが上医であると書かれている.そして,中国医学には,未病先防ということがあり,発病してからその病変を治療するのではなく,発病前に予防的に治療して病気にならないようにするということがある.わが国でも未病という考え方が取り入れられ,軽微な自覚症状はあるが検査値に異常がなく放置すれば重篤な病気になるもの,自覚症状はまったくないが検査値に異常があるものなどに分類,定義されている.
 未病という概念からみると,認知症の未病とされる人びとが予防対策への対象となるはずである.西洋医学的,近代未病の定義から認知症の未病はどのような状態を指すのかを考えてみると,自覚症状はないが,認知症のスクリーニングテスト,認知機能テスト,CTやMRI所見,そしてSPECTやPETによる脳循環代謝所見などの検査で異常があり,その時点では認知症ではないが,将来認知症を発症する危険性が高いものと考えられる.しかし,この場合,認知症の自覚症状とはなにかということがむずかしい.認知症患者は自分が認知症であると自覚することがなく,もの忘れは認知症の最初の症状であることが多いが,もの忘れすべてが将来の認知症発症に連続しているものではない.したがって,認知症の未病は,まだ認知症にはなっていないが認知機能テストやニューロイメージング所見で異常のある状態を示すものになってくる.
 アルツハイマー型認知症の未病は,認知機能テストの結果からみると,軽度認知機能低下とされる例である.ニューロイメージングでは,MRIで海馬傍回の萎縮のある例や,SPECTやPETで側頭葉,頭頂葉,後部帯状回で脳循環代謝の低下のある例が未病として考えられる.しかし,軽度認知機能低下例やニューロイメージングで異常のある例は,認知症発症リスクがかなり高く,発症予防を早急に行わなければならない.
 発症がまだ先の可能性がある未病は,アルツハイマー型認知症の危険因子をもっている例という考え方もできる.孤発例に関係のある遺伝因子はアポリポタンパクEのe4アリルであり,環境的危険因子としては,年齢,教育歴,性差,人種差,ダウン症候群の家族歴,認知症の家族歴,出生時の両親の年齢,頭部外傷の既往,喫煙,肥満などがあげられる.そして,疫学的研究,病理学的研究から,高血圧,高脂血症,糖尿病,動脈硬化などの血管因子がアルツハイマー型認知症の発症に関係しており,脳血管障害がアルツハイマー型認知症の発症を促進し,重症度を増していることが示されている.
 アルツハイマー型認知症を発症させないためには,発症リスクの高い人,言い換えれば認知症の未病の人をとらえて,予防をしていくことが必要である.アルツハイマー型認知症については,加齢やアポリポタンパクEのe4アリルについてはなにもできないが,高血圧症,高脂血症,糖尿病,動脈硬化などの血管因子を有する人にはそのコントロールを行うことが必要である.この点は血管性認知症に共通することである.
 高血圧を治療することで認知症発症リスクが減少するかどうかをみたSystolic Hypertension in Europe(Syst-Eur)の検討では,降圧薬の投与によりアルツハイマー型認知症の発症がプラセボ投与群より有意に少なかったことが示されている.
 高脂血症の治療薬スタチン(statin)については,認知症の発症リスクを軽減させたという報告もあるが,そうでないという結果もあり,今後の検討が必要である.
 中年から高年での肥満がアルツハイマー型認知症の危険因子とされているが,体重コントロールが発症を予防する科学的根拠はまだない.
 抗酸化薬のビタミンCやビタミンEも認知症の発症予防になることが考えられるが,アルツハイマー型認知症の発症には関係がないという報告と両者の併用がアルツハイマー型認知症の発症頻度を減少させたという報告がある.
 日常生活については,定期的な運動がアルツハイマー型認知症の発症を抑えることが示されている.週に3回以上定期的に歩行レベル以上の運動をしたグループでは,運動をしないグループと比べてアルツハイマー型認知症の発症が少なかったことが示されている.75歳以上の人についての前向き研究で,読書,ボードゲーム,楽器の演奏,ダンスなどをすることが認知症の発症リスクを減少させたことが示されている.
 血管因子のコントロール,抗酸化薬のサプリメント,運動,余暇などが,アルツハイマー型認知症をはじめとする認知症の発症を抑制できるかどうかは,まだ確定されたものではない.しかし,認知症の未病と考えられる例をできるかぎり早く発見し,いわゆる生活習慣病のコントロールを行い,日常生活で適切な栄養と運動や余暇を行うよう指導することが,現時点での認知症の未病対策と考える.
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2006/4 老年精神医学雑誌Vol.17 No.4
スウェーデンにみるわが国の将来像
中村 祐
香川大学医学部精神神経医学講座
筆者がスウェーデンに留学した期間はわずか半年であるが,当地の医療・介護について見聞を深めることができた.日本大使館から邦人カウンセリングの嘱託を受け,在住の邦人に直接ふれることができたからである.直接聞いた医療・介護の実態は驚くべきものであり,イメージしていたスウェーデン観を一変するものであった.スウェーデンは民主主義国家ということになっているが,その仕組みは社会主義そのものである.給料の格差は小さく,所得税率は非常に高く,消費税は25%(生鮮食料品は10%以下)にも達する.また,建物は国家の計画に沿って建築され,国が建物の部屋を貸し出すかたちをとる.したがって,不動産を所有する人は第二次世界大戦前からの富裕層のみで,一般の多くの人は建物や部屋の賃借権をもっているにすぎない.土地は広大であるにもかかわらず,建築物が少ないために家賃が安いとは決していえない.駐車場すらなく,郊外の住宅地でも路上駐車が氾濫するという奇異なことが生じているのである.
 さて,スウェーデンで病院に入院するにはどうすればよいのであろうか.緊急の場合は,救急車はなかなか来ないため,タクシーを呼んで入院をする.そうでない場合は,まず,住所地で定められている「かかりつけ医」にまず電話をかけて診察の予約をする.しかし,電話は1日のうちわずか1時間しか受け付けてもらえず,多くの場合は話し中である.やっと予約がとれて,「かかりつけ医」の診察を受け,病院への紹介状を書いてもらう.今度は病院の医師の予約をとる.病院に受診すると今度は空きベッドがない.病院も国家の計画に基づいて建てられるため,ベッド数は人口に比してきわめて少ない.入院の優先順位は,小児,勤労者,年金生活者の順序で,入院はなかなかむずかしくなる.1992年に行われた「エーデル改革」といわれる社会福祉制度の大改革の結果がこれである.以前のスウェーデンは木材の輸出などでたいへん潤っていたが,輸出に陰りがみえ高福祉低負担の制度が破綻すると予想されたことから,このような改革が行われたのである.
 2005年末にわが国の国勢調査の速報値が報じられた.ついに調査開始後初めての人口減少を記録した.2005年末は一時的な好景気となり,このような暗いイメージのニュースが大きくとりあげられることはなかったが,国の予想よりも1年早く到来したのである.人口減少は少子化の強い影響を受けているが,その背景ではもっと深刻なことが進んでいる.すなわち,2000年から急激な後期高齢者(75歳以上の人口)の増加が始まっているのである.この増加は,いわゆる団塊の世代が75歳以上になるまで(2025年まで)続く.2025年までの20年間がわが国の人口分布が最も偏る期間であり,「エーデル改革」が行われた背景に酷似するのである.
 このために急速に多くの施策,いわゆる「小泉改革」が進行している.最大の改革は郵政民営化である.郵政民営化はその実は都市への社会資源の集中を図るものである.都市から離れたところに居住するためには,水道やガスなどのライフライン,郵便局,診療所が必要である.しかし,郵政民営化により遠隔地の郵便局の存立は危うくなっている.また,新研修制度により医師の都市部偏在がより顕著となってきている.しかし,一方では非都市部の高齢者人口は増加を続けている.それは,非都市部での税収・保険収入の低下,社会保障費の増大につながり,地方の財政をさらに圧迫することになるわけである.このような状況で,いかに高齢者の医療・介護を行うかはむずかしい問題であり,とくに社会資源の大きな投入を必要とする認知症の医療・介護は最重要の課題になってくる.
 このような問題に対してスウェーデンはどのような施策を行ってきたのであろうか.高額な税金と社会保障費,ベッド数の制限などによる受診抑制と薬物の使用抑制からなる医療費の抑制,女性の労働参加とそれに伴う少子化対策,外国人労働者の導入(英語の第二外国語化による外国人労働者受け入れ基盤の整備など),そして年金者のボランティア活動の推奨などである.スウェーデンはこれらの施策により現在危機を脱しつつある.
 「小泉改革」は,どの方向へ進むのか.また,認知症高齢者などの介護・医療の積極的な介入が必要な高齢者の処遇はどうなるのか.20年後を見据えた施策が望まれる.
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2006/3 老年精神医学雑誌Vol.17 No.3
認知症に関する包括的な理解
―― 老年精神医学の国際化 ――
目黒謙一
東北大学大学院医学系研究科高齢者高次脳医学
 来年は大阪大学主催で国際老年精神医学会が開催される.年頭座談会(1月号)のテーマも老年精神医学の国際化であったが,認知症に関連して私見を述べさせていただく.
 世界保健機関(WHO)では,健康を身体だけではなく精神や社会的状態,さらに魂(spiritual)も良好な状態と定義している.これはBio-Psycho-Socio-Spiritualなモデルという包括的な考え方であるが,これに最も当てはまる疾患のひとつが認知症である,というのが筆者の主張である.同じアルツハイマー病という脳の病気であっても,その症状の理解やケアには,社会的側面の検討も不可欠であるからである.その場合の社会的側面とは,患者にとどまらず家族,さらに医療福祉従事者の視点も含まれる.
 筆者が高齢者医療を行うきっかけになった某病院での出来事である.認知症患者の物盗られ妄想が一時的に安定したので,主治医が家族に外泊を勧めたが,激しい感情的なもつれを理由に断わられたとき,「あなたの親でしょう,どうして自分の建てた家に帰れないのですか」と本気で怒っていたのを見たことがある.儒教の影響が強い韓国出身のその医師は,家族の絆を希薄にするのなら病院や施設など不要であると言っていた.これと対照的なのが,アメリカ・セントルイスのワシントン大学で臨床的認知症尺度(Clinical Dementia Rating ; CDR)の研修のため,患者を診察していたときの出来事である.アメリカでもアルツハイマー病患者が,物盗られ妄想を示し,娘や息子の妻のせいにすることは決してまれではない.しかし日本と異なり,家族が感情的に巻き込まれて修羅場を見せるということが少なく,まるで看護記録のように詳細な記録を持参し,淡々と患者の状態を説明している様子が印象的であった.文化の違いといえばそれまでだが,なぜ同じ病気でも家族の行動がこうも違うのか.保健医療福祉は,家族が家族であり続けるためにこそ,必要なものである.前者の議論は当時いわゆる「姥捨て問題」として論じられたが,その後高齢社会の到来とともに介護の社会化の必要性が論じられ,介護保険の導入とともに施設の質の向上の問題とされたが,はたしてそれで十分であろうか.つまりそのような問題提起自体,社会的環境の影響を受けていないかということである.
 古くて恐縮であるが,筆者は1997年にブラジル日本人移民の医療協力調査を施行した.移民という遺伝的背景が日本人で,歴史的事情により環境変化の影響を50年以上受けた高齢者の調査は,示唆に富むものばかりであった.生活習慣が大きく異なる地において,生活習慣病である糖尿病は日本の約3倍多いものの,認知症の有病率は大きく変わらないこと(したがって認知症を生活習慣から論ずるのはさらなる検討が必要),尋常でないストレスを経験した戦前移民の抑うつ状態の有症率は逆説的に低く,自らの力でたくましく生きている姿が感じられ,福祉の問題についても考えさせられたことなどである.福祉施設が不十分であるため,認知症患者は介護者と同居することが多いが,物盗られ妄想を示す患者の家族も,アメリカの例のように感情的に巻き込まれることは少なかった.移民は日本文化を大切に継承している(ある意味では本国以上)が,同居家族と患者の心理関係は,日本とは必ずしも同じではない可能性がうかがわれた.
 筆者の臨床・研究フィールドのひとつである田尻町スキップセンターには,時々外国の先生も見学に来られるが,昨年はソウル大学精神科のLee助教授に講演をしていただいた.高齢化率が7%で介護者のほとんどが嫁,これから介護保険を導入するが認知症に対する社会的認識が低いという状況は一昔前の日本に通じるものがある(わが国でも認知症に対する社会的認識は決して十分ではないが).また,昨年12月に,台湾の神経内科医・白明奇助教授と協力して第1回日本・台湾認知症シンポジウムを開催した.日本と歴史的に縁の深い台湾であるが,社会・文化的背景の議論よりも,妄想など「問題行動」の神経基盤の検討など,臨床脳科学に関する発表水準が高く,臨床研究に関してアジア地域における切磋琢磨の必要性を痛感した.
 少々おこがましいが,認知症に関する老年精神医学の国際化とは,要するに認知症の包括的理解そのものといっても過言ではない.そしてそれには,各国の歴史や文化的背景を理解しつつ,普遍的な視点をもつという両面が必要である.つまり,社会的な側面は文化的背景を理解しつつも,臨床脳科学の問題は文化を超えて普遍的に議論することで,認知症患者のBio-Psycho-Socialな(Spiritualは今後の課題)臨床・研究を通じて人間存在のトータルな理解に迫るということである.筆者の研究室は,認知症に関する臨床研究の発展と医療福祉水準の向上を目指しているが,医療福祉従事者の視点が包括的になるように貢献できれば幸いである.
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2006/2 老年精神医学雑誌Vol.17 No.2
高齢者虐待防止・養護者支援法の成立に伴い老年精神医学専門医に期待すること
―― 認知症のサポート医研修の開始に寄せて ――
遠藤 英俊
国立長寿医療センター包括診療部
 高齢者虐待とは,在宅や施設内において,高齢者の人権を無視して,身体への暴行,心理的な外傷を与える行為,養護の著しい怠慢,財産の不当な処分等を行うことである.高齢者の人権・利益を守るため,高齢者虐待の防止等に関する国等の責務,虐待を受けた高齢者の保護のための処置,擁護者の負担軽減を定めた与党提案の高齢者虐待防止・養護者支援法(「高齢者の虐待防止,高齢者の養護者に対する支援等に関する法律」)が平成17年11月1日に国会で可決成立し,平成18年4月1日より施行されることとなった.
 高齢者虐待には,家庭内虐待と施設内虐待があり,その種類には身体的虐待,心理的虐待,世話の放任,遺棄,経済的虐待がある.高齢者虐待が起こる要因には介護者の負担が最も大きいが,その背景には認知症や過去の人間関係などさまざまな要因がある.また日本の風土においては虐待に対する当事者の意識が低く,虐待そのものが表にでにくい状況がある.
 高齢者虐待の現状としては,平成16年度に医療経済研究機構によって行われた「家庭内における高齢者虐待に関する調査」によると,被害者は平均81.6歳で,女性が3/4を占めていた.要介護者がほとんどで,一部には自立もしくは「非該当」の人もみられた.虐待の発見者は介護支援専門員,訪問看護・介護,医療機関が多く,虐待者は息子が多く,その次に配偶者,嫁となっていた.なかでも息子による経済的虐待が目立っていた.虐待の種類としては心理的虐待が50〜70%を占め,身体的虐待や介護・世話の放棄・放任が約50%にみられた.また,生命に危険のある虐待は約10%にみられ,認知症や過去の人間関係が問題で,介護者の精神的,身体的負担が要因となっていた.
 高齢者虐待防止対策としては,予防が重要であることはいうまでもないが,一般市民,関係者への啓発が欠かせない.次に,生命に危険がある場合には地域包括支援センター(平成18年4月以降)や警察への通報が必要である.また,地域において,防止のためのネットワークを構築し,個別のケースへの対応が検討される必要がある.場合によっては措置制度の利用により緊急にショートステイの利用などを図り,相談,助言を通じて介護者を支援する必要もある.経済的虐待には成年後見制度の利用を推進することも有用な手段となる.
 国立長寿医療センターの病院部門では,平成15年から,虐待の疑われる高齢の患者が院内(入院,外来)で発見された場合には,ソーシャルワーカーがその報告を受け,地域の自治体の健康福祉部局に連絡・連携を行う.また自治体の虐待対策の取組みの支援を行ってきた.たとえば地元自治体の大府市や東浦町との間で,虐待の早期発見および防止のためのネットワークの構築を推進してきた.すなわち平成15年度から,大府市の高齢者虐待防止協議会にも参加し,平成17年度からは,東浦町の高齢者虐待防止モデル事業にも参画している.さらに当センターの研究所部門では,平成15年度に,高齢者の虐待の実態に関する調査研究も行ってきた経緯がある.
 以上の観点から,社会的にも老年精神医学の専門家にこの問題への相談や直接の関与が期待される.そこで,必要な知識と介入の方法を理解していただきたいと思う次第である.また地域包括支援センターにおいても,もの忘れ介護予防や認知症対策で,かかりつけ医やサポート医のアドバイスが求められる.こうした専門家の地域活動が期待されるなかで,国立長寿医療センターでは認知症サポート医研修を平成17年12月より開始した.本事業は国と都道府県事業であり,日本医師会の協力により都道府県医師会の推薦を受けた医師に2日程度の研修を受けていただき,終了証書を受けていただくことになっている.サポート医はかかりつけ医の相談・助言に当たるほか,平成18年度以降各都道府県で行われる「かかりつけ医の認知症の対応向上研修」の企画運営に当たる予定である.さらには地域包括支援センターでの認知症対策にも相談・助言に当たることも計画されており,日本老年精神医学会の専門医で「地域で活躍し,連携がとれる医師」の参画を期待したい.
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2006/1 老年精神医学雑誌Vol.17 No.1
精神科医の劣化危機
堀口 淳
島根大学医学部精神医学講座
 独立行政法人化,教育改革,医療改革のシャワーを浴びせられ,全国の旧国立大学は存続をかけて奮闘し,職員は過重労働に耐え,あるいは次々と心身を害し,半病人が増え,不眠,うつが蔓延し,慢性の健康危機状況が続いている.ヒトの幸福とはなにか,といったことを根本的に足元から見つめ直す肝要を自覚しつつも,目の前のタスクに翻弄され,思案するいとまもない.サラ金地獄を背景とした事件が後を絶たず,容易に尊属殺人が発生し,これなどのニュースがけっして稀有な事件としてとりあげられるほどでもなくなってしまった.再びの恐怖社会の到来である.生物学に立脚すれば,親子兄弟間の虐待や殺人行為は,種の保存といった生物に基本的に備わった本能あるいは惰性を根底から否定する逸脱行動である.そこには単に大脳の上位中枢における認知機能や思考・判断力の変質が浸透しつつあるだけでもなく,もっと低次の知覚や感覚の低下や混乱・歪曲といったインプットの障害や,衝動や感情のコントロールなどの劣化ないし退行ともいうべき現象も連動しているかもしれない.いずれも結果的には自己,他者,種族破壊的となり,他人や他の集団との境界があいまいになったり,反対に必要以上に一線を画して排他的かつ孤立的ともなってしまう.
 健康とはなにかといったことを命題に掲げて,大上段から構えた話をするつもりはない.もっと単純に,素直に,大衆的に,マジョリティーの一員として,考えたいだけである.20年,50年先を考えて,この変質社会を少なくとも生物学的には健康な社会に近づけたいと思う.太宰の言うように,世間は自己の内空間に存在するものであって,けっして外部に定位しているものではない.とすれば,われわれ1人ひとりの内からの変革,学習,再学習を,今一度問い直していけばよい.ここに来ても,やはり教育が一番の鍵となり,ここにこそ全身力を集中し,生命を清め直すべきである.
 ところで,近年の精神医学領域のさまざまな分野の進歩が,第一線現場の精神医療の発展に真に連動してきているかといえば,そうでもない部分が山積していることもまた事実である.画像診断や遺伝子関連,薬物治療,非薬物療法,社会復帰や社会制度,その他の領域の進展が,臨床現場にどの程度貢献しつつあるのかについての検証を,学会やそれぞれの施設で実施したり,次なる目標を設定していく作業が重要である.
 かようななか,近頃気になって仕方がないことのひとつに,精神科治療における精神療法の軽視,ないしは治療者側の無意識的排除があげられる.安易に,あるいは無意識的にか,精神療法を避けて,薬物治療にのみ専念する.新しい薬物の導入が,魔法のクスリのごとくに宣伝され,結果的にこの現象を促進しているようでもある.外来における3分診療,からだを診ない精神科医,血圧1つ計ろうとせず,ましてやハンマーも握らず,ひたすら症状把握にのみ終始し,症状撲滅のための薬物による銃弾爆撃を繰り返し,患者の心を診ない,診ようともしない,その必要性さえ感じない,病識欠如の精神科医たちが量産されつつないか?かたや精神療法を旨とする治療者が,いくら精神病理を唱えても,患者のからだに関心を示さずして,現場の患者のニーズからして,基本的に治療が展開できているはずがない.それは単に治療者の「道楽」か「精神療法ごっこ」にすぎない.簡単な胸部の聴診や血圧測定だけでも十分である.からだの診察は患者とのコンタクト,患者の安心感に必ず役立つし,これは重要な精神療法でもあるというのに.これらが筆者だけの無用な心配であればとも思うが,事実であれば筆者のように教育に携わる者の大きな責任でもある.たいへんな問題である.
 「ははあ,幻聴,妄想だな,ハイ,これ飲んで」「眠れないのね,ハイ,これ出しとくね」「これはねえ,うつですよ,うつ.治りますよ,これ飲んどけばねえ」……とだけの「医者」ならば,半年,否々,1か月の精神科研修で出来上がる.医学部を卒業していなくとも,この程度のことならだれにでもできる.たいへんな,恐ろしく安物の精神科医の誕生となる.恐ろしい時代にならないか,心配でしようがない.
 精神科諸学会はもっとこの辺りの,基本的な部分にも焦点をあててほしい.精神科医の力量は外からは見えにくい.難治や再発を患者や周辺のせいにしてはならない.患者への熱意と日々の勉強とを怠ってはならない.悩みを聞いてくれない主治医たちに,患者や家族がどれほど苦しめられていることか.
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