2005/12  老年精神医学雑誌Vol.16 No.12
老年医学と東洋医学
吉益 文夫
関西鍼灸大学副学長・和歌山県立医科大学名誉教授
 最近,朝日新聞紙上でわが国の少子高齢化の最大の問題はそのスピードにあると指摘されていた.65歳以上の高齢者の総人口に占める割合は,現在は約2割であるが,20年後の2025年には3割近くに上昇する.また,日本の高齢化のペースを欧州と比較すると,65歳以上の人の割合が10%から20%になるのに要する年数はドイツが57年,イギリスが80年と推定されているのに対し,日本ではわずか21年で到達すると報じられている.
 このようにわが国では,急激に高齢社会が進行しつつあり,それに伴って疾病構造も変化してきている.急性疾患よりも慢性疾患や生活習慣病が増加し,高齢者ではいくつかの疾患をあわせもつ,すなわち複合疾患がしばしばみられるようになった.一方,医療技術の進歩により入院治療を必要とした疾患も,通院や日帰りで手術が可能となり,がん患者でも通院治療を続けながら日常生活を送ることができるようになった.また,わが国をはじめ,世界の先進諸国ではメディアによる情報伝達の迅速化や交通手段の発達により,世界を結ぶ距離は短縮され,われわれを取り巻く環境は大きく様変わりした.現代医学の勝利と宣言された感染症は,克服されたかのように思われたが,近年,未知の新興感染症やあらゆる薬物に耐性を有する病原体による再興感染症が国民の健康を脅かしている.
 東洋医学の中核的位置を占めるのは鍼灸・漢方である.わが国では江戸時代までは,中心的医療として国民の健康維持と疾病治療に貢献してきたが,明治政府が国の医療として西洋医学(当時はドイツ医学)を正式に採用して以来,医療の主流から外れ,長い間,脚光を浴びることはなく関心のある少数の医師と医療従事者の手に委ねられてきた.
 中国に端を発し,朝鮮半島を経てわが国に伝来した鍼灸については,医療としての歴史は1000年以上を経るが,第二次世界大戦後は鍼灸は医療とは別に医業類似行為として規定され,民衆の支持を得ながら今日まで受け継がれてきている.他方,欧米においても鍼灸治療の歴史は古いが,その関心はとくに1990年代になって高まり,世界保健機関(WHO)では,1996年に鍼灸の適応可能疾患として,従来の43疾患(1979年)にうつ病などの精神疾患を加えた49疾患を治療可能なリスト(草案)として発表した.アメリカでは議会において代替医療としての鍼灸治療に期待を寄せる声が高まり,アメリカ国立衛生研究所(NIH)が,1997年に鍼灸に関する合意のためのパネル会議を開催し,合意声明が発表された.そのなかで鍼治療の有効性が確認され,代替的治療法として役立つ可能性のあるものとして,変形性関節症や腰痛など高齢者に多発するいくつかの病態があげられている.鍼灸学はいまや欧米の先進国を中心に世界的広がりをみせている.
 一方,鍼灸とともに伝統医学の中核をなす漢方も同様に中国起源で3,4世紀以来朝鮮半島を経由して伝来し,7世紀初頭からは直接中国から招来した.10世紀には丹波康頼による「医心方」が撰次されたが,中国の模倣から脱却したのは16世紀以降であり,田代三喜(1465〜1537),曲直瀬道三(1507〜1594)等の活躍がみられ,後藤艮山,その弟子の香川修庵,山脇東洋さらに永富独嘯庵と受け継がれた.この流れのなかで,古方派の特異な存在は理論を排斥し古典に立ち返ろうとする吉益東洞(1702〜1773)である.実証を重んじ腹診を取り入れ,道三流派をしのぎ,漢方医界の主勢力となり,幕末にまで及び,わが国独自の医学として発展してきた1)
 明治にはいり鍼灸と同様,日本漢方も一時衰退したが,1976年,漢方薬のエキス製剤が健康保険適用になってから,医療用漢方製剤として再び医療の現場に登場することとなった.
 とくに高齢者に対して漢方が有効とされている理由は,漢方薬は多くの生薬で構成されている方剤が多く,1薬物で多くの病態を治すことができること,高齢者の個人差に応じた処方ができること,作用が緩徐で副作用が少ないこと,などがあげられている.一方,昨今,高齢者の医療費の増大が医療経済的に大きな問題になっているが,漢方は高齢者に適し,費用も安いことから,その経済性に注目されている.前述のように,わが国で漢方薬が医療用として用いられるようになって以来,30年の間に多くの経験が蓄積されてきている.精神科領域においても,東洋医学に関心をもつ医師のなかでは,うつ病や神経症圏の病態を中心に,かなり漢方薬が使用されるようになったが,いまだ一般に広く普及しているとはいいがたい状況である.
 2002年,わが国の医学教育のコアカリキュラムのなかに,東洋医学が組み込まれたことは画期的なことであり,現在では全国80の医学部・医科大学のほとんどすべてに東洋医学の講座ないし診療科が開設されている.伝統医学がこのように見直されてきた理由は,生命を流れとしてとらえ,心身一如の全体像のなかで対応するという視点が現代医学に希薄化してきたからである.
 老年精神医学を専門とする医師をはじめ,より多くの医師が今後いっそう東洋医学に理解と関心を深め,高齢者の心身両面の医療に寄与されんことを願ってやまないものである.

[文 献]
 1)山田光胤,代田文彦:漢方医学の歴史.図説 東洋医学,13-16,学習研究社,東京(1980).
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2005/11  老年精神医学雑誌Vol.16 No.11
認知症高齢者へのメンタルケア
室伏 君士
日本社会事業大学大学院
 多くの認知症(痴呆)疾患は慢性・難治性なので,前半期は医療モデル(診断と治療)の対応も有用であるが,後半期は生活動作や生き方の援助(介護とケア)の生活モデルが主役となる.これには“心の通った介護”や“高齢者の尊厳を支えるケア”が標榜されており,これは基本態度として重要であるが,認知症高齢者の行動心理学的症候のケアに取り組む実務者には,さらに“理にかなったケア”が必要なのである.
 この際のメンタルケアの拠り所の一端の,認知症の本質の“知的な言動の実行能力”と“生きてきた自覚”の障害にかかわる記憶障害(健忘型認知症,健忘症状複合体)にある各種の症状について,その成り立ちや意義と,それに基づく対応の留意点を述べよう.
○認知症の記憶障害:単なるもの忘れでなく,わからなくなったこと(認知障害)を忘れたという特徴があり,しかもその障害をあまり問題にせず悩まないなど,認知症の本質とケアのヒントを含んでいる.
 (1)記銘力障害により近時記憶を忘れわからなくなり,現在が不確かになってくる.また常に移り変わる時,自然の時のクロノス(日時)がわからなくなる.そして変化がわからず変化に弱く,変化するものほど忘れやすいことが認められる.また不安(物盗られ妄想)や親近感(なじみの関係)などの感情的負荷の強い記憶は,忘れずしばらく続いたりすることも注目される.身近な人との情愛的な絆が最終的に重視される.
 なお前と今の比較,関連づけ,反省・批判,洞察が困難になり,常識的な意味記憶に影響し,忘れたように気づかずわからず,知的判断が悪くなる(理屈の説得より共感的納得を図る).
 そのため認知症が軽度〜中等度にかけて,「現在の(自分の)周囲の状態を,日時・場所・状況的に,客観的に把握(見当づけ)すること」ができなくなってくる(失見当).一般に人が不安なく自分を心得て生きるためには,「自分がだれ,今いるところはどこ,今はいつ,自分はなにをしているか」ということがわかり自覚されている必要がある.それは記憶や意識に関係する見当識である.この障害のため自己の存在不安や困惑・混乱が起こったりする.わかったなじみの頼りのもの(人,場所,時)を早く得ることが必要である.“現実見当づけ”もこれに関係する.
 (2)長期記憶の障害(想起の記憶力)で認知症が中等度になると,最近のことから昔に向かって,自分の生活史を広範に忘れ始める.とくに中等度の重めになると,個人の人間的な時のカイロスがおかされ,「今までの(過去の),自分の状況を自覚的にわからず,思い違い(過去の生活史にある時代,その時の人や生活の場や仕事など)で把握すること」が起こってくる(誤見当).これは年齢の若返り,人物誤認(昔のよく知っていた人への同一視:既知化),仮想性仕事症候群(以前の仕事や家事をしているつもりの言動),昔へ逆向しながら安住していた時の状態や住み家への回帰(最終的には両親が健在と思っている故郷へ)で落着していく.人間的情愛の根源的な深さや強さに結びついている.これは,わからなくなった自分が,過去の生きてきた印象的な頼りの拠り所を得て安定する当惑作話性の生き方なのである.客観的にはまちがっていようが,過去の自分の真実の今ようの思い違いなので,もっともらしく振る舞っていたりする.この際には,事の正否ではなく,認知症をもちながらの生き方ができるか否かの成否が重視される(正否より成否!).したがってこの思い違いは生き方としてまずは“許容”して現在の心の安定を図り,その後日常生活の実際やなじみの仲間との暮らしのなかで現実化を助けていくと,誤見当も薄れていく.
 このように認知症では,現在も正確にわからず,意義・価値づけや洞察ができず,これをもとにして未来も考えられず,想定・類推・予測ができなくなる.したがって近い未来や過去を含む現在はしだいに幅が狭まり,最重度では刹那的(横断面的存在)になったりする.それゆえに,今を大切に安定させることが必要である.また過去も忘却されていくので,生活史が希薄・分断化してくる.生活史のなかには,過去から現在に至る連続した自己同一性(アイデンティティ)があり,自分の生きがい・生き方の存在理由・価値があり,自覚やプライドに関係する.高齢者の過去の尊厳性は支持する必要がある.ここに過去の生活史の物語をとおし,アイデンティティを自覚させ,自我の回復を図る回想法がある.
 (3)手続記憶は,長年にわたり基本から高度のものへ手順をふみ習得・体得した技(わざ)の能力で,無意識的に保持(記憶)され,認知症になっても中等度ころまで保有されている.これは昔の歌・踊り,ラジオ体操,仕事の技,家事・料理,趣味などで,生活史のなかにある.これらは普段は認められなくても,ふさわしい場や状況を得ると“隠れた能力として発揮”される.これはよい刺激として,リハビリテーションやレクリエーションに利用される.また職業症候群として,せん妄や認知症の仮性行為(〜しているつもり行動)として表されたりする.
○メンタルケアの具体的な目標
 “若者は未来(夢)に生き,老人は過去(記憶)に生きる”といわれるが,認知症高齢者の記憶障害にあるケアのヒントを上述した.要約すれば,生きる頼りの拠り所を得て,安心・安定・安住・安楽の“よい質の生き方”(QOL)を図ることである.
 そのメンタルケアの目標と留意点を列記する.
 (1)人を得る:信頼・依存できるなじみの人(家族・介護者,仲間),(2)場を得る:安住の住み家,(3)状況を得る:家庭的な暮らし,(4)時を得る:生活の時の流れ(日課),(5)自覚を得る:生きる自信,(6)身近な手を得る:手は心の絆,(7)力を得る:生きる活力,(8)喜び・楽しみを得る:情意の発揮や満足,(9)生活を得る:自由と安全な生き方,(10)生きがいを得る:身内との情愛.
 最後に一言,メンタルケアに対しての理解と重視が望まれる.
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2005/10  老年精神医学雑誌Vol.16 No.10
高齢者を取り巻く現状
小山善子
金沢大学大学院医学系研究科保健学専攻
 厚生労働省が先頃発表した「2004年簡易生命表」によると,日本人の平均寿命は,男性78.64歳,女性85.59歳と,男女とも5年連続過去最高を更新し,わが国は世界一の長寿国である.これからも65歳以上の高齢者が毎年60〜70万人増え続けると予測されている.高齢者が増えると一人暮らしの高齢者もますます増え,寝たきりや認知症の高齢者,一人では生活できない介護や支援を必要とする高齢者も増えることとなる.核家族化が進むなかで家族内での介護力の低下や,福祉行政の立ち遅れが指摘されて,2000年4月に介護保険制度が始まり5年が経過した.要支援・要介護認定者は2003年度現在384万人で,居宅介護サービスを受けている人は1か月平均214万人,特別養護老人ホームなどの施設入所者は1か月平均73万人にのぼる.2000年度を100とすると認定者数は150,居宅サービス受給者数は170,施設サービス受給者数は121と増加している.しかし,高齢者を取り巻く社会は厳しい.
 在宅介護を受けている高齢者の虐待の報告が年々増加している.2003年に介護保険制度施行後はじめて「家庭内における高齢者虐待実態調査」の全国調査が実施されている.その調査によると,関連機関の有効回収6,698機関中の2,865機関(42.8%)に,および全国市町村の有効回収の2,589か所(80.1%),6,062人に過去1年間の間に虐待と考えられる行為があったと報告されている.この全国調査にあわせて筆者の住む石川県でも調査が行われ,在宅介護サービス事業所等の調査では回答数501か所(62.8%)のうち172か所(34.3%),延べ269件,県内41市町村(100%)のうち25か所(61.0%),延べ70件の虐待の報告がみられた.また,そのなかで在宅介護サービス事業所調査結果では虐待を受けていた高齢者の約8割,市町村調査では5割が後期高齢者で,認知症が認められる人はそれぞれ77.7%,64.3%であった.石川県では実態調査結果を踏まえて,「高齢者と介護者を支援する」という視点から家庭内における高齢者虐待防止マニュアルが作成されている.
 これまで家族介護者による虐待が社会的課題としてとりあげられてきて,施設入所者の虐待についての報告は少ないが,1997年に高齢者処遇研究会が介護福祉士1,000人を対象とした報告では,154件の施設内虐待の報告がみられる.介護保険制度において,認知症のみられる高齢者に対応できる施設として,少人数で家庭的な介護を行うグループホームが在宅介護の切り札として,近年,全国に急増しており,石川県でも2004年7月現在92か所がある.しかし本年2月に,県下の某グループホームで28歳の介護職員が,84歳の認知症の女性を石油ファンヒーターの前に数時間放置して,死亡させたとの痛ましい不祥事が生じている.この事件はNHKの「クローズアップ現代」でもとりあげられていたが,職員はその女性が寒がるのでヒーターをつけるがすぐ消すといった行為を繰り返すことに腹が立ったと述べていたという.特別養護老人ホームなど介護保険施設の職員を対象にした連合の調査(2004年)では,職員の3割が入所者に憎しみを感じ,過去1年間に1割強が虐待,6割が身体拘束を経験していることが判明している.社会福祉施設の高齢者の人権侵害としての虐待の生じる背景にある,介護従事者の質の向上はもちろんであるが,介護による疲労度が強いほど高齢者に対して憎しみが増し,虐待につながるため,施設で介護する職員が疲労を溜め込まないためにも現状の労働条件・環境の見直しが大きな課題である.
 最近の社会事件として目につくものに,在宅で生活する高齢者をターゲットにした悪質リフォーム詐欺をはじめとした悪徳商法がある.顧客情報を持ち出して,同じ高齢者をねらうのを「ゲリラ商法」というらしいが,埼玉県で認知症の80歳と70歳の姉妹が,このゲリラ商法で契約金が膨らんでいき約3000万円の高額な被害にあっている.このような被害が全国あちらこちらに広がっており,現在,大きな社会問題となっている.
 高齢者の人権と生活を守るために,「地域福祉権利擁護事業」と「成年後見制度」が設けられている.ことに後者の「成年後見制度」は上記の悪質業者のワナから高齢者を守れただろうと思われるが,認知症高齢者が約188万人いると推測されているのに,この制度の申し立て件数は1,700件(2003年)程度で,十分に活用されていないのは残念である.筆者も判断能力の低下した高齢者を介護する家族から,金銭・財産管理の相談を受けることがあるが,制度を知らない家族も多く,まだまだ認知度が低い.また,制度を利用する際の費用が支障になっているとも聞く.せっかくの諸制度があるのに有効に活用されておらず,そのための広報活動や経済的助成もこれからの課題である.
 高齢者が増えるにつれて,高齢者を取り巻く問題は多様化してくる.高齢者が最期を迎えるまで安心して暮らせる社会であるために,保健・医療・福祉の連携を確保し,地域の特性・実情にあったきめ細やかな地域ぐるみで高齢者を支援する体制が望まれる.
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2005/9  老年精神医学雑誌Vol.16 No.9
アソシエーション
中村 重信
洛和会音羽病院神経内科
  「天は自ら助くるものを佑」という格言の原典は紀元前のギリシアのことわざ(φιλει  δε  τω  καμνοντι  συσπευδειν  θεοζ)による.最近,認知症の人の意思を尊重した治療やケアが求められている.認知リハビリテーションや福祉サービスも患者の意欲や趣向を無視すると,日常生活の質や感情機能を損ねるおそれがある.患者側の抱える不安感や不信感を取り除き,患者側が目指す方向と医療側の方針を一致させ,「自分でよくなりたい」と思う,あるいはそう思わせることが大切である.
 医療提供側と受益者・患者側が同じベクトルに沿って協力し合うためにアソシエーションという関係が1つの候補となりうるであろう.元来,アソシエーションの概念は経済や倫理の面から提唱されたものである1).マルクスの原理に基づく共産主義的手法による国家体制の崩壊やカント哲学を基本にした営利優先が医療,教育(大学),年金,雇用などの面で弱点を露呈し,新しい第三の方法として提出されたのがアソシエーションである.
 医療面では,患者や家族と医療の担当者間で契約関係を結び,アソシエーションをつくることができる.現在でもインフォームド・コンセント,かかりつけ医制度や自己決定権,任意後見制度としてアソシエーションが方向づけられている.
 終末期医療は患者・家族側の意向,医療側の方針と法的規制の狭間で,日常診療のなかでも大きな負担となっている.それらの困惑を解決する方法が探求され,法制化されてしかるべきである.
 そのためには,インフォームド・コンセントや自己決定権,任意後見制度などのアソシエーションの関係が公に認められることが望まれる.インフォームド・コンセントは医療側の立場を守るためだけでなく,患者側が医療側の方針を強く望み,その方向に向けて双方が最善を尽くす能動的な形式にする必要がある.
 自己決定権についても,具体的な法制化が必要であろう.そのひとつとして,任意後見制度を利用する方法がある.任意後見制度は認知症になった場合,自分の財産の処理について,判断力のある間に公証人立会いのもとで,家庭裁判所で決定するものである.それに加えて,自分の判断力がなくなった末期医療の方針も希望できるようにしてはどうであろうか.ただし,医療には意外な出来事が起こりがちなので,柔軟に対応できるような制度にすべきである.この柔軟性を保障するのがアソシエーションの関係であろう.
 医師-患者間の関係を結ぶうえでかかりつけ医制度は無視できない.経済的裏づけやセカンド・オピニオンとしての専門医制度のネットワークに関する法律の制定も望まれる.
 現在の保険制度は危機的状況にあり,利潤追求を基本とした政策では破綻をきたす可能性が高い.自由診療を導入しても事態は改善しないだろう.アソシエーションを軸とした第三の医療経済学が今後検討されることが望まれる.
 患者にとって,昨今の医療需給のアンバランスは自由競争―弱肉強食のなかで大きな問題である.過疎地の医師不足,診療科による医師の不適正配備は受益者にとっては深刻である.アソシエーションの関係を用いることによる適切な対応が望まれる.
 アソシエーションは形而上学的な概念として出発したが,医療以外の面では種々の具体策が提案され,実行されている.医療の面でも,たとえば,治験のインフォームド・コンセントをはじめとしたCRC(Clinical Research Coordinator)の活躍は特筆すべきものである.新しい治療法を開発するための治験という目標に向けて,医療提供側と患者側が同じ方向に向けて努力する姿は新しい時代を予感させる.さらに,かかりつけ医との協力による治験地域ネットワークも今後の医療のあり方を示唆するものである.
 この巻頭言を書くきっかけは,本年2月筆者自身が患者として手術を受けたためである.「何とかして早く治りたい」と強く願い,病院で決められたクリニカル・パスを前倒しにして,13日目に退院した.
 患者の不安感・不信感を払拭し,治りたいという前向きの気持ちを引き出せば,医師-患者の関係も改善するだろう.

[文 献]
 1)柄谷行人:トランスクリティーク.岩波書店,東京(2004).
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2005/8 老年精神医学雑誌Vol.16 No.8
新潟震災から学んだこと
川室 優
医療法人高田西城病院,福祉法人上越老人福祉協会
 わが国では,不幸にして起こった阪神大震災の経験から多くの人びとが貴重な教訓を得たのであったが,やはりいざ当事者側になってみると,その教訓の痛切さという点で度合いの違いをあらためて感じずにはいられない.新潟県では,昨年(平成16年),7月の集中豪雨と,いまなお記憶が生々しい10月の中越大震災注という2つの大災害に遭遇し,冬には覆い被さるように19年ぶりの豪雪という大きな自然災害に相次いで見舞われた.そのことは,安定し穏やかに見える人びとの日々の生活が,実際にはとても危ういものであることを,あらためて私たちに警告しているように思われる.
 私どもの上越地域は,震度5を体験したのであるが,幸いにして大きな被害もなく,筆者の関係する医療福祉施設内では壁が落ちたり,ガラスが割れる程度で大事には至らなかった.したがって,被災された高齢者・障害者の支援に多くの時間を費やすことができた.10月23日の地震では,精神科病院のひとつである中条第二病院が崩壊したため,翌日10人の入院患者を受け入れたほか,特別養護老人ホームなどの福祉施設では介護を必要とした4人の受け入れに協力した.障害者・認知症高齢者は,地震のショックと見知らぬ土地への移動で,二重の苦痛を体験したわけであった.多くの精神障害者は不安と恐怖でおびえ,認知症高齢者は著しい徘徊を伴うせん妄状態に陥った.このようなことは,すでに災害時の心のケアの重要性で指摘されてきたことであるが,治療者として支援する「心とはなにか」をあらためて実感したものである.
 今回,とくに痛感したことは,社会的に弱い立場にある高齢者,とりわけ障害を有する(要介護)高齢者の皆様への物質的,精神的なケアの力が,その社会の文化の高さを示すバロメーターになるということである.当然,災害発生直後の緊急避難的な措置は,被災からの救済避難が第一義的に行われる.そのため私どもも被災地への当方の職員による医療福祉ボランティア派遣や,被災された方の緊急受け入れ等を多く行ったのである.しかし,それ以上に阪神大震災の経験からも指摘されているように,緊急避難的な措置の終了後の活動が,被災支援にさらに大きな意味をもつということである.
 今回のこの支援活動を大別すると,次の5点に整理されるのではないかと思う.
 (1)一般に衣食住とよばれている生活の基礎づくりを,被災された方の個々の生活状況に合わせ支援していくこと.―住宅を失うことの辛さほど厳しいものはない.
 (2)医療・教育・文化活動など,人としての営みに不可欠な場の確保を支援して行くこと.―医療はことのほか重要であるが心を癒やす文化の提供も大切である.
 (3)仕事の確保も含めて,被災された方の社会参加,社会との普通のかかわりの場の確保を支援していくこと.―リストラを受けた労働者も多い.
 (4)被災による精神的衝撃のダメージ,さらには被災後のさまざまな制約を受けた生活からくるストレスに対し専門家による精神的ケアを行うこと.―うつ病などによる自殺防止が大事である.
 (5)行政,ボランティア,関係団体等による継続的な「地域支援組織」を幅広く作り上げること.―“備えあれば憂いなし”というが,つねに力強い行政のリーダーシップは必須である.
 筆者は地震発生後,平成17年3月26日に災害被災者の精神的ケアの専門家である本間玲子トゥルー先生を被災地にご案内し,川口町の高齢者の仮設住宅等を訪問した.そのとき,1人の品のよいお年寄りが地震の体験をまざまざと語ってくれた様子が,まるで多くの被災者の皆様の姿を象徴するかのように印象深く思い出される.いまでも心の傷が癒されたとはいえないだろうが,今後,多くの「支え」により,力強く立ち直られることを祈らずにはいられない思いである.
 おわりにあたり,あらためて全国各地より被災された皆様へのお見舞い・ご支援に心から感謝申し上げる.
 
注 新潟「当事」県では,阪神大震災とは被災の量・質の違いにかかわらず,深刻なる甚大な被害のため,このように呼称される.
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2005/7  老年精神医学雑誌Vol.16 No.7
アルツハイマー病の血管性因子の問題点
東儀英夫
岩手医科大学名誉教授(神経内科学),相武病院顧問
  約100年前,Alzheimer,Binswangerらの時代から老年期認知症の大部分は,現在の言葉でいえば,アルツハイマー病(AD)と血管性痴呆(VaD)に分類されている.しかし,この数年来,ADの血管性因子(vascular factor)が注目されている.ADの血管性因子という言葉は少なくとも3つの異なった意味で用いられている.以下,それぞれの問題の所在について論ずる.
 第一に,変性疾患としてのADの血管病変を意味する.細小血管の密度の減少,径の拡大,縮小,毛細血管の基底膜の肥厚,コラーゲンの蓄積などの変化がこれまで繰り返し記載されている.PETでAD患者に認められる酸素摂取率の上昇(脳虚血を示唆する)は,このような血管病変で説明されている.最近,トランスジェニックマウス,ヒトのアミロイドアンギオパチーなどの研究から血液脳関門(blood brain barrier ; BBB)の障害のため,Ab plaqueが血管由来で沈着する可能性や,Abのクリアランスシステムの障害により,Abが沈着する可能性が論じられている.この場合の血管性因子はあくまでも変性疾患であるADの病変としての血管病変に病態,成因を求める立場に立っている.
 これに対して,血管性因子の第二の意味は,より広く動脈硬化性血管病変とADとの密接な関係を示唆するものである.Rotterdam Studyなど大規模な疫学調査を含むいくつかの研究は脳血管性障害とADの危険因子が重複していると報告している.これらの危険因子としてあげられているものは,加齢,高血圧,糖尿病,高脂血症,高ホモシステイン血症,高い血液粘度,種々の血栓惹起性因子,アポリポタンパクE4(apoE4),粥状硬化,脳卒中発作,心疾患など脳血管障害のほとんどすべての危険因子を含んでいる.
 もし動脈硬化性血管障害がADの危険因子であるならば,両者にいかなる関係があるかが問題となる.小さな梗塞巣であっても,それを有する例は有さない例に比してはるかに軽いAD病変で認知症が発症するという報告がある(The Nun Studyなど).ただし,血管性障害の共存によって発症するADがはたして純粋なADといえるかどうかという疑問が生ずる.そこで混合型が問題になるが,研究を目的とした国際的な診断基準では混合型のcriteriaがない.DSM-IVとICD-10ではVaDとADの診断基準は相互を除外する内容になっている.NINDS-AIRENでは混合型痴呆という診断は認められていない.この意味でのADの血管性因子の意義を究明するためには混合型の再検討を要する.
 第三に,単に血管性病変の共存によって認知症が出現するにとどまらず,さらに話を進めて,動脈硬化による脳虚血をAD病変の成因と考える方向がある.ヒト剖検脳において動脈硬化とAD病変の強度との相関が報告されている.脳虚血がbアミロイドの蓄積,神経原線維変化の形成に関与することを示唆するin vivo,in vitroの実験結果も報告されている.アミロイド前駆体タンパク(APP)は熱ショックタンパクであり,虚血,外傷などのストレスによって誘導されうるため,その可能性は否定できない.
 忘れられがちであるが,Alzheimerの最初の論文(1907)には脳主幹動脈の硬化性病変,内膜増殖,血管新生などの変化がすでに記載されている.Alzheimerは型通りに記載したにすぎないのかもしれないが,まだ50歳代前半の初老期のAD例に動脈硬化性病変が伴っていたことは注目に値する.約30年前の日本では,ADの脳は萎縮は高度であるが脳動脈硬化はほとんどなく,肉眼的に一目でそれとわかったものであるが,生活習慣が変わった現在では当時とは異なる.
 われわれは再び100年前に戻って老年期認知症の疾患分類からやり直すことを求められているのであろうか.欧米からの報告に比して,日本からの報告がきわめて少ないのは,VaDの病型が欧米と異なるためであろうか.それとも,診断基準の運用が彼我で異なるのであろうか.異論の余地のないADの危険因子が加齢と遺伝子しか明らかにされていない現状への1つの回答が血管性因子なのであろうか.日本人に即したエビデンスに基づいて解明すべき,重要な課題である.
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2005/6  老年精神医学雑誌Vol.16 No.6
介護保険と介護予防について
小林敏子
平成福祉会新高苑
  介護保険のはじめての見直しで,地域支援事業による介護予防が導入される.市町村が65歳以上を対象に年1回以上の頻度で介護予防検診を実施するとのことである.
 要支援・要介護1のうちの適当と思われる人を対象に運動機能や食生活の状況を聞き取り,食生活のあり方や口腔ケアの改善指導などの介護予防サービスを提供するというすばらしい構想である.財源は介護保険財政で,事業費は給付費の約3%,2006年度で2000億円と想定している模様である.
 介護保険実施の初期には福祉サービス利用を控える傾向がみられたが,年を追うごとに,サービス利用の機運が高まり,その利用者数は2000年4月末では218万人であったが,2004年9月末には402万人の利用となった.このサービス利用者の増加は,介護保険がいままでの福祉サービスに比べて利用しやすいことと社会的介護や支援を必要としている人が予想以上に多いことを示している.
 とくに,要介護1と要支援の人の増加が著しく,サービス利用の半数をこの層の人で占めるようになったため,今後,これらの人の状態の改善や重度化の予防に力をいれないと必要なサービス量をまかなえないと考えられ,介護サービス利用者の増加を抑えることにポイントがおかれるようになった.
 介護予防という表現が少し前より使われるようになり,筋力トレーニングや転倒予防の試み,さらには認知症予防の取組みなどが各地でなされるようになってきている.このような取組みが各市町村で介護保険を巻き込んでなされるようになったことは心強く,今後の成果が期待されるところである.とくに,体力や気力の衰えがみられかけている高齢者にとってはありがたい試みである.地域の通所しやすいところに集まって,同世代の人や若い世代の人びととの交流をとおして,ともすると孤独や否定的な自己意識をもつようになりやすい高齢者が活気を取り戻し,穏やかに過ごせるようになることを望みたい.
 要支援・要介護1の利用者の増加の要因として,厚生労働省は高齢者が体を動かさず,廃用症候性の心身機能の低下を念頭においているが,筆者は介護保険を使わざるをえない社会環境・家族構成の変化と80歳代後半から90歳代にかけての超高齢者の増加が大きな要因であると考えている.
 このような介護予防への取組みは,利用者の生活の質の向上にはおおいに役立つと考えるが,今後,増加が予想されるサービス利用者の増加抑制には役立ちにくいのではないかと考えるし,必要なサービスの利用抑制はすべきでないと考える.90歳前後の超高齢者層の増加は本来は多くの人びとの願いであり,種々の疾病予防や健康増進に取り組んだ結果でもある.95歳前後の人の寿命を全うできる人びとが多くなってきたことは非常に喜ばしいことであり,今後も,この年齢層の増加は続くことであろう.90歳代という人生の終末期には要介護1〜2,要支援になることを拒むことは不可能ではないであろうか.そのような状態にならないで,他界される人もいるが,1割から2割の比率であり,そうでない場合,十分な介護を数か月あるいは数年受けてからこの世を去るのが,この世とのお別れとしては自然であるように筆者は考える.
 今後,介護保険制度について考えるべきことは,現在まだまだ不足状態にあるサービスの需要増加に対応できるような質のよいサービスの供給であり,それを裏づけできるような財政的な体制づくりである.また,利用者側に望まれることは,その人らしいエンディングを高齢者本人が考えていくこと,周囲の人にそれに関しての意思を伝えておくことなどである.介護サービスの実施に際しては,そのような本人の意思ができるかぎり尊重されるような具体策がとられることを望みたい.
 介護保険とともに実施された地域福祉権利擁護事業も年々利用者が増え,サービス提供が追いついていけない状況がある.また,介護事業者通報情報などにより,介護の現場での問題点がかなり多くあがってくるようにはなっているが,それへの対応システムはまだつくられていない.不十分な面は多々あるが,今後,少しずつでも介護保険が望ましいものに近づくことを願ってやまない.
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2005/5  老年精神医学雑誌Vol.16 No.5
アルツハイマー型痴呆(認知症)か?アルツハイマー病か?
三好功峰
仁明会精神衛生研究所
「痴呆」という用語には,マイナスイメージがあって,早期発見,早期治療が行われるのに支障となっているとして,厚生労働省は,平成16年12月に行政用語としての「痴呆」を「認知症」に呼称変更するとした.専門領域では,これまで長年使用してきた医学用語によくない意味があるので変更せよ,といわれても,多少の戸惑いがあるかもしれないが,それでも統合失調症のときの経験からいえば,痴呆dementiaを「認知症」とよぶことは,時間がかかっても,しだいに定着するのではないかと思われる.
 さて,実はここで述べたいのは,そのことではない.「アルツハイマー型痴呆(認知症)」と「アルツハイマー病」のことである.この両者は同じことではないか,と思われる方が多いと思われるが,本当にそうであろうか.
 今日頻繁に用いられるいくつかの臨床的な診断基準をみると,DSM-IV-TRでは「アルツハイマー型痴呆(認知症)dementia of the Alzheimer type ; DAT」,ICD-10では「アルツハイマー病における痴呆(認知症)dementia in Alzheimer,s disease」,NINCDS-ADRDAでは,「probableアルツハイマー病」などの用語が使われているし,わが国でも,もっぱら「アルツハイマー型痴呆(認知症)」が用いられる.しかし,最近の海外雑誌や国際学会で発表される論文や,報告のタイトルをみると,どうしたわけか,圧倒的に「アルツハイマー病Alzheimer's disease」が多い.
 他の大脳疾患をみると,臨床的な病名と疾患名とは区別されている.つまり,前頭側頭型“痴呆”,血管性“痴呆”,レビー小体型“痴呆”などは,いずれも臨床的な病名であり,「疾患名」としては,それぞれ,前頭側頭葉変性症(ピック病,運動ニューロン病 を伴う前頭側頭葉変性症,第17染色体に関連しパーキンソニズムを伴う前頭側頭葉変性症など),多発性脳梗塞やビンスワンガー病,レビー小体病である.
 「アルツハイマー型“痴呆(認知症)”」は,その診断基準をみると,痴呆(認知症)(社会的・職業的能力の著しい低下,記憶障害を含めた複数の認知欠損)の存在,潜行性発症,緩除で進行性の経過,せん妄によらない,他の神経・精神疾患,身体疾患を除外できるといったもので,必ずしも,今日の臨床研究の知見を積極的に取り入れたものではない.世界中どこでも診断可能とするためか,画像も考慮されていない.少なくとも,疾患としての生物学的な均一性が求められるような研究の場での診断基準としては不安が残る.これは,やはり,臨床レベルの病名(あるいは症状名)というべきではあるまいか.
 それでは,「アルツハイマー病」というのは,どうであろうか.確定診断(NINCDS-ADRDA)は,神経病理学的所見に基づくとされている.つまり,これは,タウやアミロイドの沈着など特有な脳病理を特徴とする病態であり,疾患概念である.実際,もし,臨床的に診断基準に適合しても,特有なタウやアミロイドの病理が存在しなければ,「アルツハイマー病」ではないし,一方,“痴呆”の症状が出現する前の「軽度認知障害」の段階でも,病理学的には「アルツハイマー病」でありうる.とくに生物学的な研究領域においては,診断は,「アルツハイマー病」であることが求められる.
 しかし,もちろん,「アルツハイマー病」はあくまで病理学的な概念であるから生前の臨床診断は不可能であるということは現実的ではない.臨床的な特徴(早期からみられる近時記憶や時間的見当識障害や,対人的態度の保持など)や画像所見(海馬領域の特有な萎縮など)などを総合して,より精度の高い臨床的な診断の基準が作成されるべきであるし,またそのことは不可能ではない.
 歴史的な経緯をみると,「老年痴呆(認知症)senile dementia」を一般の老年期の痴呆(認知症)と区別するために「アルツハイマー型老年痴呆(認知症)senile dementia of the Alzheimer type ; SDAT」の用語が用いられ始め,その後,本来の初老期発症の「アルツハイマー病」とあわせて,「アルツハイマー型痴呆(認知症)」とよばれるようになった.さらに今日では,同じ意味で,しばしば,「アルツハイマー病」とよばれている.そのようなわけで,両者は同義に用いられることが多いが,本来は,「アルツハイマー型痴呆(認知症)」と「アルツハイマー病」は,ぞれぞれ,臨床レベルの診断名と疾患としての病名として区別されるべきかと思われる.
 
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2005/4  老年精神医学雑誌Vol.16 No.4
老人性痴呆疾患専門病棟における身体合併症を伴う痴呆性高齢者
大塚俊男
精神医学研究所附属東京武蔵野病院
 人口の高齢化とともに増加の一途をたどっている痴呆性高齢者は平成18年には約200万人に達すると推計される状況のもと,痴呆性高齢者を抱える家族はその介護に心身ともに大きな負担を背負って生活していることはいうまでもない.在宅での介護が困難な痴呆性高齢者は,介護老人福祉施設,介護老人保健施設および介護療養型医療施設などに入所・入院しケアや治療を受けている.
しかしBPSD(痴呆に伴う行動障害および精神症状)が著しい場合は,精神科病院の老人性痴呆疾患専門病棟(老人性痴呆疾患治療病棟,療養病棟)に入院し,治療とケアを受けているのが現状である.そのなかで老人性痴呆疾患専門病棟は,他の施設で対応できないBPSDを伴う痴呆患者の治療およびケアの面でこれまで大きな役割を果たしてきているといえよう.
  老人性痴呆疾患専門病棟の痴呆性高齢者が身体合併症を伴う割合は高く,ある調査によると,専門病棟入院中の患者のうち中等度〜高度の合併症を有するものは全体の約61%といわれている.その結果からみると,老人性痴呆疾患専門病棟の患者は単に痴呆およびBPSDの治療,ケアだけではなく,身体合併症およびターミナルの状態の管理も重要な問題であるといえる.ところが日本の医療社会のなかでは痴呆患者の医療は歴史的に精神科が専門と位置づけられており,入院にあたっては身体合併症があってもBPSDが少しでもみられ,入院中の他の患者に迷惑行為に及ぶおそれのある場合には一般科の病院では受け入れを拒否されるのが通例である.
  それでは,入院を要する身体合併症を伴う痴呆性高齢者は精神科病院,それも老人性痴呆専門病棟で治療,ケアを行うべきなのであろうか.現状ではおもに精神科病院の老人性痴呆疾患専門病棟で対応している病院が多いのが事実である(一部に身体合併症病棟で対応している病院もみられる).そもそも老人性痴呆疾患専門病棟の目的は,厚生労働省の示す施設整備基準によると,「精神症状や問題行動が有しているにかかわらず,寝たきり等の状態にない痴呆性高齢者であり,自宅や他の施設で療養が困難な者に対してこれらを入院させることにより精神科医療とケアを提供するものである」と示されているが,合併率の高い身体合併症治療に対しての指針は何ら示されていない.診療報酬上の入院料の施設基準でも,精神科医師の配置のみで一般科の医師の配置についてはふれられていない.ただしターミナルの状態や緊急時のことを考えてか,治療病棟には観察室を,療養病棟には重度の身体合併症病室の設置と酸素吸入装置および吸引装置の整備を義務づけているのみである.また,専門病棟入院中の痴呆患者の身体合併症の治療は何科の医師が管理していくのかという問題がある.日本精神科病院協会の調査では,約7割の専門病棟では内科医師の担当のほか,同院の合併症病棟,転院などで対応しているが,約3割の専門病棟では精神科の主治医が行っているとの結果がでている.この点については入院患者の身体疾患の病状の程度にもよるため,この結果だけで論ずることはむずかしいが,身体合併症の治療を行う以上,一般科の医師の関与は必要であるといえよう.今後痴呆性高齢者の増加とともに身体合併症を伴う割合はますます多くなり,高齢化の影響で重症度も高くなっていくことは必定である.
 これまでの歴史的な医療社会の流れから,これら身体合併症を伴う患者を一般科病院で管理していくことがむずかしいとするならば,現状では精神科病院の老人性痴呆疾患専門病棟あるいは身体合併症病棟で対応していかなければならない.精神科病院とくに単科の精神病院にとっては現在の専門病棟の人員を含む施設基準では身体合併症患者の治療,ケアの負担は大きく,本来の行動障害および精神症状の患者に対する治療,手厚いケアがむずかしくなってきている.そのためマンパワーを増すなど少しでも質の高い医療,ケアを求めても,それに見合う診療報酬は得られない状況におかれている.
痴呆性高齢者が増加するなか,この身体合併症と終末期医療の問題は,老人性痴呆疾患専門病棟の運営とは切り離しては考えられない問題であり,本来の目的に沿った病棟運営が行えるよう早急に対応の道筋をつけなければならない課題であると考えられる.痴呆性高齢者およびその家族のためにも….  
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2005/3  老年精神医学雑誌Vol.16 No.3
アルツハイマー病の予防と治療
佐々木英忠
東北大学医学部老年・呼吸器内科学講座
  厚生労働省の統計を指数プロットしてみると,日本人の90〜100歳で全員が痴呆症になるという成績がでる6).すべての臓器が百歳くらいで生きていけないくらいに機能低下を生じるが,脳も例外を免れないようである.
 脳血管性痴呆の予防にはプレタールR等の抗血小板薬と降圧薬による脳梗塞予防が役立つことが報告されているが10),アルツハイマー病(Alzheimer's disease ; AD)は困難を極めている.
  アリセプトR(ドネペジル)はADでは使用はじめの2〜3か月間はMini-Mental State Examination(MMSE)で2〜3点は改善するが,半年も経つと1点以下しか改善していない.加味温担湯は脳内アセチルコリンの合成を促進する作用があるが,これもアリセプトRと同様の限られた効果しか示していない.最近の大規模試験によれば,アリセプトRは効果を示さなかったと否定されている1).今日のいかなる治療薬も,全員が百歳で痴呆症に至るという強固なラインからは免れることができないようにみえる.
  Hockら3)はADにアミロイドbタンパク(Ab)のワクチン療法を試みたが,6%の人に非細菌性髄膜炎という副作用が生じたため臨床試験は中止に至った.しかし,非細菌性髄膜炎を起こさなかった残りの94%のADでは年間のMMSEの低下を1点くらいに抑制した.
 Foretteら2)はCa拮抗薬がADの発症を1/2に減少させたと報告しているが,ADの治療にCa拮抗薬は効果はない.
 Ohruiら7)は同じ降圧薬でも,脳血液関門を通るACE阻害薬(ペリンドプリルエルブミン,コバシルR)を用いたところ,Ca拮抗薬,脳血液関門を通らないその他のACE阻害薬,b拮抗薬や利尿薬に比べてADの発症を1/4に減少させたと報告した.4,000人以上の高血圧患者の平均8年間の追跡調査であるが,68歳のADのない高血圧患者は8年間で平均4%痴呆症が発症する.Ohruiら7)の成績によると,Ca拮抗薬をはじめとする降圧薬で,ADは2.4%に発症した.日本の痴呆症の40%は脳血管性痴呆と報告されているので,降圧薬で脳血管性痴呆が抑制されたと考えると,残りはADを主体とする痴呆症であり,Ca拮抗薬等は脳血管性痴呆は抑制したが,ADは抑制していないと考えるのが妥当であろう.したがって,コバシルRを用いることによってCa拮抗薬等よりさらにADの発症を1/4に減少せしめた画期的成績といえる.
  脳血液関門を通るコバシルRは脳内のACEを抑制する.ACEが抑制されると脳内のサブスタンスPが上昇する.ACEはサブスタンスPの分解酵素でもあるからである.脳内サブスタンスPが上昇すると,サブスタンスPを分解するもうひとつの酵素であるneutral endpeptidase(NEP)が上昇する.NEPはAbを分解する酵素のひとつであることはIwataら5)によって報告されているが,NEPの上昇でAbが分解され,ADの発症が抑制されたと考えられた8)
 日常生活の活動性が低いと全身のサブスタンスP濃度が低下する.毎日の活動性は脳内サブスタンスPを上昇させサブスタンスPの上昇はNEPを上昇させることから,NEP はAbを脳神経細胞に蓄積させないために必要だと考えられる.
 ADをすでに発症した患者にコバシルRを使用したところ,Ca拮抗薬等の他の降圧薬を用いた群においては年平均4点くらいのMMSEの低下が認められるのに対し,コバシルR投与群では年平均1点以下の低下にとどまるとの成績を得た9)
 ADではMMSEの低下はそれほど問題にならず,精神行動異常が介護の面で重要である.抗精神病薬を用いて精神行動異常を抑制してきたが,サブスタンスPも抑制し,肺炎を起こす.抑肝散はこのときADLも上昇させ,精神行動異常を正す薬である4)
 今後,5年,10年後に非細菌性髄膜炎を生じないAbのワクチン療法が開発されると考えられるが,現在,わが国で処方可能な薬物のなかではコバシルRと抑肝散が世界で最も効果のあるADの予防と治療薬であるといえる.

[文 献]
1)AD2000 Collaborative Group : Lancet, 363 : 2105(2004).
2)Forette F, et al.: Lancet, 352 : 1347(1998).
3)Hock C, et al.: Neuron, 38 : 547(2003).
4)Iwasaki K, et al.: J Clin Psychiatry(in press).
5)Iwata N, et al.: Nat Med, 6 : 143(2000).
6)Ohrui T, et al.: Intern Med, 42 : 932(2003).
7)Ohrui T, et al.: J Am Geriatr Soc, 52 : 649(2004).
8)Ohrui T, et al.: Geriatr Gerontol Internat, 4 : 123(2004).
9)Ohrui T, et al.: Neurology, 63 : 1324-1325(2004).
10)Yamaya M, et al.: J Am Geriatr Soc, 49 : 687(2001).
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2005/2  老年精神医学雑誌Vol.16 No.2
心気症と身体表現性障害と不安障害
越野好文
金沢大学大学院医学系研究科脳情報病態学
 アメリカ精神医学会が編集したDiagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Third Edition(DSM-III)が出版されたのは1980年2月のことで,日本では1980年10月に当時滋賀医科大学におられた高橋三郎先生の「DSM-III 診断基準の適用とその問題点」の特別連載が「臨床精神医学」誌上で始まった.記念すべき第1回は第9巻10号の「その1.DSM-IIからDSM-IIIへ」であった.滋賀医科大学精神医学教室を中心に行われたDSM-III研究のフィールドワークに参加し,高橋先生に金沢大学までお越しいただきご指導を受けたことが懐かしく思い出される.その後,DSM-IIIは精神医学の診断に革命的な影響を及ぼし,現在ではDSMなくしては,診療も研究も進められないといっても過言ではない.DSM-IIIの登場後,四半世紀が過ぎ,DSMで教育を受けてきたDSM世代とでもよぶべき精神科医が過半数を超えたのではなかろうか.
 DSM-IIIが与えた影響のひとつに,周知のように,神経症概念を採用しなかったことがある.神経症は解体され,基礎に不安が存在することが多いので,あらたに設けた「不安障害」に分類されたと解説された.ところで,神経症は不安神経症,恐怖神経症,強迫神経症,ヒステリー神経症,心気神経症,抑うつ神経症,離人神経症,その他(神経衰弱)と分けられるのが一般的であった.しかし,不安障害に分類されたのは不安神経症,恐怖神経症,強迫神経症にすぎない.心気神経症とヒステリー神経症は身体的に症状が現れるのが特徴の身体表現性障害に,離人神経症は解離症状と考え解離性障害に,そして抑うつ神経症は気分障害に分類された.最初からDSMで精神医学を学んできたDSM世代はこのような経緯を十分には理解していないであろう.
 本誌(第14巻第10号)さらに日本老年精神医学会編集による『老年精神医学講座;各論』の「高齢者の身体表現性障害と虚偽性障害・解離性障害」を担当し,老年期の身体表現性障害の研究が不足していることを痛感するとともに,DSM-IV-TRの心気症について多少気になることがあった.
 これまでわが国では愁訴はあっても,身体的にそれを説明する所見がみられない場合に広く心気症といわれてきた.DSM-IV-TRの身体表現性障害は,身体疾患を示唆する身体症状は存在するが,身体疾患や薬物の作用,あるいは精神疾患ではその症状を説明できない疾患と定義されており,心気症,身体化障害,転換性障害などをまとめた上位概念である.しかし,実際には“いわゆる心気症”として身体表現性障害と同じ意味に用いられることが多い.DSM-IV-TRを使用する場合,両者を区別していないと誤解を生じる.区別しないのは,乱暴な言い方をすれば,気分障害と大うつ病性障害を混同して用いるようなものである.さらに“いわゆる心気症”は身体化障害と混同されることも少なくない.ただ,両者の違いは明らかである.心気症は重篤な病気が存在するかもしれないことへの恐怖が中核症状である.そのため病気(disease)がないという保証(=検査)を強迫的に求める.強迫的な確認行為や検査で一時的に恐怖は軽くなるが,その効果は続かない.存在しない病気を恐れる認知の誤りとそれによってもたらされる強迫的な行動が問題である.強迫性障害に似た精神状態と行動である.他方,身体化障害は身体症状が苦痛と不快の焦点である.患者の懸念は,生命を脅かす病気(illness)ではなくて,多彩な症状そのものである.患者は症状の解消を求め,身体/感覚の問題が基本にある1).不安や恐怖はない.
 心気症の根底にあるのは,なにか悪い病気があるのでないかという心配である.ところで,広場恐怖は助けの得られないところや逃げ出せないところでパニック発作に襲われることを懸念する.社会不安障害は社会的状況での行動の不首尾を恐れる.強迫性障害は,たとえば手が汚れたと思うと,その汚れから致命的な病気になるかもしれないと心配になり,手洗いの強迫行為が生まれる.全般性不安障害はさまざまなことに対して心配になる予期憂慮が病気の根幹である.このようにみてくると,不安障害に共通しているのは,単に不安というよりも,なにか悪いことが起こるかもしれないと懸念することである.心気症もなにか悪い病気があるのでないかと懸念・心配することが中心である.さらに訴えられる身体症状は生理的な範囲の現象が多く,実際には病的な症状はない.身体表現性障害という表現もふさわしくない.そこで心気症は不安障害と考えるのが適切であろうと想像している.DSM-IV-TRでは,心気症を不安障害に移籍するにはいま一つコンセンサスが得られなかったとも聞く.次に登場するDSM-Vではどうなるであろうか.

[文 献]
1)Fallon BA:Pharamacotherapy of somatoform disorders.J Psychosom Res, 56:455-560(2004).
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2005/1  老年精神医学雑誌Vol.16 No.1
痴呆から認知症へ
小澤 勲
種智院大学客員教授
 2004年12月,「痴呆」という用語が「認知症」に変更されることが正式決定した.これで法律や公式文書から痴呆という語は消えることになる.
 この変更は,東京,仙台,大府の高齢者痴呆介護研究・研修センター長の意見具申に従って,厚生労働省が同年6月に「『痴呆』に替わる用語に関する検討会」を発足させ,広く意見を求めて決定したものであるが,その経過の詳細は,いずれ本誌でも報告されるだろう.
 以前から痴呆という名称が差別的であるという指摘は繰り返しなされてきた.たしかに,広辞苑を引いても「痴」は「おろかなこと」,「呆」は「ぼんやりしていること」とある.
 だが,痴呆という用語変更には予想以上に反対意見が多かったという.その理由は,(1)すでに痴呆という用語は定着している,(2)差別用語とはいえない.ある意味で実態を正確に言い表している,(3)用語を変更しても差別がなくなるとは思えない,というものがほとんどであった.
  実態を正確に表しているという意見は,「まさに彼らは『痴』であり,『呆』である」というものだったから,とうてい納得できなかったが,その他の意見は,それぞれがもっともである.
  たしかに,言葉を替えても差別がなくなるとはいえない.だから「言葉狩りにすぎない」という批判もまちがってはいない.それでも,私は用語の変更に賛同した.それは,用語変更が,誤解を受けることの多い認知症の真実,正確な情報を世に伝える好機になると判断したからである.
  「認知症の真実」と私が言うのは,2つの意味を込めてである.そのひとつは,正確な認知症の医学知識を世に伝えることである.たとえば,認知症が症状レベルの概念であることさえ伝えずに,うさんくさい予防論を語るのは,もう止めにしてほしい.なにより現在,認知症を抱えて懸命に生きておられる人たちに失礼ではないか.彼らはまるで心がけが悪かったから認知症を抱えることになったのだ,というような言われ方までしているのだ.
  いまひとつは,これまで認知症は「外側」から語られることが多かった.それが不要だというのではない.しかし,「痴呆老人からみた世界はどのようなものなのだろうか.彼らはなにを見,なにを思い,どう感じているのだろうか.そして,彼らはどのような不自由を生きているのだろうか」という視点が,これまで忘れられてきたのではあるまいか.
 これは,拙著『痴呆老人からみた世界』(岩崎学術出版,1998)の冒頭においた文章であるが,この本は「対象を理解したいという志をもって痴呆の精神病理に真正面から取り組んだ書はあまりに少ない.これは決して精神病理学者の怠慢に責を帰すべきことではない.思うに,痴呆老人は従来,処遇や研究の対象ではあっても,主語として自らを表現し,自らの人生を選択する主体として現れることがあまりに少なかったという現実がこのような結果をもたらしたのではあるまいか.それは社会的事態がそうであるというにとどまらず,治療やケアにおいてもそのような存在としてしか私たち臨床家が彼らに対してこなかったということを意味している.これは明らかに私たち臨床家の誤りである」という思いから書いたものである.
 いまなお,「ぼけたら本人はなにもわからなくなるのだから,幸せと言えば幸せだよね.周囲は困り果てるのだが……」などという,とんでもない誤解が世にはびこっている.その責任の一端は専門家が負うべきであろう.
 また,認知症という名称への変更が報じられた際,認知症が認知の障害に矮小化してとらえられるようになる危惧を述べられた方が少なからずあった.このような危惧を払拭するためにも,いわば「体験としての認知症」を,今後も探求していきたい,と考えている.
 2004年10月,3日間にわたって京都で開催された国際アルツハイマー病協会国際会議に出席した.この会議では生物学的研究からケア,人権問題まで幅広い課題が論じられたが,何といっても認知症を抱える人たちが,自らの体験を,自らの言葉で語ってくれたのが印象深かった.いま,私たちは「外側からの見方」で彼らを枠にはめ込もうとするケアから,認知症を病む人の体験世界に添った認知症ケアへと転換する地点に立っていると実感した.
 天候にも恵まれ,すばらしい景勝に囲まれた会場から,私はすがすがしい思いで帰途に就いた.
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