1999/12 老年精神医学雑誌Vol.10 No.12
痴呆疾患診断の意味
宮永和夫
群馬大学保健管理センター助教授
 平成12年春には介護保険も始まることになり,にわかに痴呆診断の正確さが要求されるようになってきた.たしかに,治療や介護を行うにはその基礎として正しい痴呆診断が必要であろう.しかし,筆者は,以前より痴呆疾患の診断についての杞憂がある.
 1つは,「診断はだれがするのか,またはできるのか」ということである.われわれは病院等の外来にいて,家族が扱いに困って連れてきた人を診察し,診断を行っている.当然,家族にわかるような異常を精神科医が診断できないことはない.しかし,家族が異常と思って連れてこないかぎり,患者が医療機関に現れることがないのも事実であろう.それでは,診断は家族がするのであろうか.通常,多くの医師は否と言うであろう.しかし,医師は家族も異常に気づいていない人を痴呆と診断できるのであろうか.それだけ敏感なアンテナをはたしてもっているのであろうか.
 筆者は,現在も新潟県南魚沼郡大和町で痴呆のコホート研究を行っているが,平成元年,はじめて住民健診を行ったときの苦い思い出がある.実に,老人全体の1割が痴呆か正常か診断できなかったのである.そのときまで,痴呆診断にほとんど迷ったことはなかったために当惑した.同僚たちは,「痴呆でなければ正常であろう」と言っていたが,割り切れないままに時間が経過した.その住民のほとんどは数年後に痴呆となり,筆者をはじめてこれが前痴呆状態であったことを納得した.ほかにも,痴呆と診断したものの,進行も変化もせずに現在に至っている人や,日常生活に何の支障がないほど元気になった人もいた.これは,精神遅滞やうつ病を誤診したのであろうが,もし,これららの鑑別診断を念頭においていたとしても,最初の調査の時点で本当に正確な診断は出来たのであろうか.筆者には自信がない.
 2つ目は,「診断はなにに基づいて行うのか」ということである.ICD-10やDSM-IVの診断基準は世界共通の疾患概念となりつつあるが,それに基づいた診断を否定するわけでは毛頭ない.現在,筆者は大学の保健管理センターに勤務し,学生のメンタルヘルスの相談・指導を行っている.しかし,就任早々に学生をみて,痴呆の調査と同様に当惑してしまった.明らかに精神症状があるのに,悩まずにその状態を受け入れていたり,逆に,通常耐えられると思われるような弱いストレスに反応して心身症や抑うつ状態になったり,とにかく,典型的でない学生があまりに多かったのである.なかには,醜型妄想があり精神分裂病に進むであろうと思っていた学生が,ガールフレンドができた途端に,その訴えが消えたばかりか,他の学生との交流がスムーズになった例もある.どうも,いままでのように簡単に診断がつかないし,予後も判断できない.現代の普通の学生の思考や行動を理解しないと,「いわゆる普通」の反応を異常な反応ととらえてしまうようである.痴呆の場合も同様で,正常老人のいわゆる年齢相当の状態を踏まえないと,高齢の老人はすべて痴呆になってしまう.本来,診断とは,さまざまな患者を比較し区別することであるが,それは,より広い立場(患者と正常者の比較と区別)を土台に行われる必要はないのであろうか.しかし,多くの医師は,はたして正常者をどの程度見たり,知ることができる機会があるのであろうか.
 3つ目は,「診断は何のためにするのか」ということである.日本老年精神医学会では,痴呆を中心とした老年期精神障害の専門医認定制度を設けることになった.21世紀は脳の時代になるといわれ,痴呆を含めた脳への関心は強く,研究者はおそらく増えていると思う.しかし,痴呆専門を標榜する臨床医はどうであろうか.精神分裂病をみている医師に聞くと,痴呆は治らないからやりたくないと言う.痴呆にも薬があると反論するが,効かないだろうと言う.たしかに,痴呆の概念ほど妙なものはない.「痴呆は不可逆的なものである」と,その定義に治療が不可能であるとの意味を内在している.しかし,痴呆は改善しないと考えられてきたが,実際には機能性精神病のように正常になる例が認められることも事実である.
 現在の痴呆への対応は,治療でなくケアが中心であるため,医師の出番は少ない.結果として医師の仕事は診断にウェイトがおかれるが,診断は痴呆疾患では最終的な目的なのであろうか.言い方を換えれば,痴呆専門医とは,単に診断ができることなのであろうか.本来,診断とは治療のために行われるものである.少なくとも,痴呆以外の疾患についてはそうである.治療行為を行ってこそ,痴呆専門医が真にアイデンティティーを確立できるのではないであろうか.近未来にそのような時代がくることを信じたい.
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1999/11 老年精神医学雑誌Vol.10 No.11
医学教育の課題としての「老い」と「死」
―― ライフステージに即した医学教育のあり方 ――
平野 均
山口大学保健管理センター助教授
 医学入門講座でのこと,難関の入学試験をくぐり抜けてきたことへのいたわりのあとで,「かりに人類が数年後に滅亡する運命にあるとすれば,今後さらに医学の勉強を続けていく気力が,まだ君たちに残っているであろうか.次の関門である医師国家試験の合格率は100%ではないので,入学試験よりもむずかしいはずであるが……」と,意地の悪い質問をしたことがある.オウム事件からまだ間もないころで,ハルマゲドンにおける終末戦争やノストラダムスの予言は巷での格好の話題であった.予想どおり授業の総括時に,数人の学生からこのまま勉学を続けていく自信がないとの感想が聞かれた.
 医学部生時代は基礎的な知識と技術の習得段階にあたるが,おおかたの学生は入学を機に親元を離れ自活を始めるため,同時に精神的自立を強いられる時期でもある.この期間に人生の意味を問い,その目的を模索しながら,終生にわたる価値観の基礎を形づくっていくのである.大学教育は知識や技術の伝達にとどまらず,全人教育を目的としている.それゆえに,彼らの人生観の形成過程に積極的にかかわり,時宜にかなった援助を行うことは大学教官の職務である.この一連の一筋縄ではいかない教育課題は,臓器移植や遺伝子治療により生や死の概念そのものがかわろうとしている今日,よりいっそうその重要性を増し加えている.
 さて,人生観・価値観の土台となるものとして,まずは「自己が『死すべき存在』であるという認識」をあげることができる.この認識は,医師として経験する他者の死によってではなく,人と人との出会いのようなある偶然によって,しかも直感的にもたらされるものと考えている.この「自己の死」との出会いは,個人の価値観をも根底から覆す可能性を秘めている.医学生たちの素直な感想からも想像できるように,「死」の前ではこれまでの栄光も,また将来の大きな夢も,すべて一様に色あせたものにみえてくるのである.
 ここに至って,人ははじめて「死」をも乗り越える価値観とはなにかを模索し始める.医学部を卒業し医師として歩き始めると,生活は否応なしに一変する.学生時代にはクラブ活動に精を出し,趣味の世界に打ち込む余裕もあったはずなのに,気がつくと可能なかぎりの時間と労力を診療と研究に注ぐようになっている.疾患の原因を究明し克服しようとする野心がそうさせるのであるが,青年医師にはごく自然なこの医学への熱情により,理性が麻痺しこころの目が曇ってはならない.そのためにも,価値観と人生観を幾度となく「自己の死」と照らし合わせることによって吟味され,普遍的なものへとその価値が高められていく必要がある.長いと思われる人生にも始まりがあったように,いつかは終わりがくることを医学教育のできるだけ早い時期に自覚できるように,「自己の死」と出会うための仲介者としての役割が大学教官に求められている.
 もうひとつの重要な土台として,「『老い』を受容していくこと」があげられる.年齢には依存せず直感的に理解可能な事柄がある一方で,経験をとおしてよりいっそう理解が深まる事柄がある.結婚・子育て・親との死別など,人生の節目を経てもたらされる喜びや悲しみにより,人は徐々に他者への共感の幅を広げていく.これらの経験のなかでも,とくに生きることへの洞察を深めてくれるものは,喪失体験であろう.愛する人を失うこと,健康を損なうこと,大願を成就しえないこと,等々.このような体験によってもたらされる悲しみが深ければ深いほど,人は失意のどん底でなおもって「生きる意味」を尋ね求めようとする.そして,“絶望してしまわなかったこと”の褒賞として,あらたな価値観に従って生きる力を手にするのである.それは,「自分らしく生きる」ことであり,逆説的ではあるが,失うことによってはじめて獲得できる「自己肯定」によって可能となるのである.
 老化が誕生とともに始まるように,喪失の体験も人生の再早期から,生命の営みのひとつとして確固たる地位を占めている.しかし,生産が喪失をはるかに上回っている間は,人は失意を経験しても「老い」を自覚するまでには至らない.ライフサイクルでいう「老い」とは,生産が喪失に追いつけない状態のことであり,ある日を境に突然に,または徐々に自覚されてくるものである.そして,人は「老い」を自覚した日から最期の息を引き取るまで,この喪失の体験を加速度的に,あるいは指数関数的に積み重ねていくことになる.それゆえに,「老いを受容していくこと」とは,自己の生から「自己肯定」を獲得し続ける努力であり,自分らしく生き続けようとする意欲である.
 大学教官は,「自己の生」に伴う悲しみや苦悩を甘受することで,他者に対する共感の感受性を高め,より自分らしい人生を送るための力を瞑想のうちに待ち望まねばならない.「老い」と「死」とはともに何人にも早晩に訪れるものであるが,いずれも忌避すべきものではなく,学問の対象として学び,そこから生きる意味と力を引き出さなければならないことを,自らの体験をとおして医学生に伝えていくのである.
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1999/10 老年精神医学雑誌Vol.10 No.10
老年期精神障害の診断
多田國利
住友病院心療内科主任部長
 老年者の精神科受療率は,厚生白書の報告などからも年々増加の傾向にある.いわゆる団塊の世代の高齢化や,老年者の社会的孤立化などいくつかの要因が重なっていることが原因になっているのであろう.老年期の精神障害において,初診の段階で,その診断に苦慮することは,多くの精神科医が経験することである.これらの診断は,初期診断というよりも,診療の経過とともになされていくことが少なくない.時には,診療がほぼ終了し,病状が改善されたあとで診断確定がなされることもあるのではないかと思われる.老年期精神障害の診療に携わる多くの精神科医は,病初期診断という点においては,多少なりともジレンマを抱きつつ診療を行っているのではないであろうか.
 現代医学における診療の流れは,早期診断,早期治療が基本である.それは,精神科診療においてもそうであるに相違ないが,他科に比べて,その流れは当初より停滞しがちである.
 老年期の精神障害の場合,他の年代の精神障害よりも,中枢神経系の器質性障害が関与していることが多いと従来より考えられているが,はたしてそうであろうか.近年の医療技術の進歩は,中枢神経系に対する臨床的検索をより厳密にしてきた.脳波検査,事象関連電位検査,CT,MRI,SPECTなどこの四半世紀のうちに大きな進歩がみられた.しかし,これらの検査によって,精神障害全体のどれほどの病因が解明されうるのかという点については,あまり自信をもって言及できないのが現状ではないであろうか.既存の脳検査で異常がなければ,中枢神経系は正常であると一応臨床の場では患者に報告するわけであるが,医療者の側には,充足されない部分が残されたまま診療行為が続行されることになり,患者のなかには,証明されない症状を引きずって苦悩を抱えた状況下で生活せざるをえない者も少なくない.
 幻覚・妄想症状など重篤な精神症状についても,老年者において,その出現頻度は,若年者のそれと比較してけっして少なくない.そして,その病態については,たしかに,若年者に比べて脳の器質性病変に基づいているのであろうと考えられる場合が多い.しかし,老年者の幻覚・妄想のなかで,器質性病変が確認されるものがどれほどあるのかというと,多くの問題点が残されているといわざるをえない.
 脳内に器質性病変がみられないから機能的なものであろう,心理的なものであろうと安易に判断することは避けなければならない.老年者の生活意識,生活様式は,それまでの人生経験のなかで,それぞれに育まれ形づくられていることが多い.各個人の生活史や生活状況を十分に収集したうえでしか個人の心因を言及することはできない.その解決方法もなく,安易に心因を病因に結びつけることは,患者およびその家族の生活史を無視するだけでなく,治療を放棄しているととらえられかねない.このような観点から,老年期精神障害者に対する治療をより効果的に円滑に進めていくためにも,症候学的な症状分析を系統的に行い,より確かな診断と治療に結びつけていくことが,治療を受ける側,行う側双方に必要不可欠なのではないであろうか.しかし,現時点では,症候論的な診断手順が老年精神医学において確立されているとはいえない.
 四半世紀前に,M. RothやF. Postが老年期の精神障害に対する疾病分類を試みているが,その後,診療上,実用的な分類が系統化されるには至っていない.周知のことではあるが,現在,汎用されている国際分類であるICD-10やDSM-IVにおいても,老年期の精神障害についての疾病分類は十分に網羅されているとはいえない.器質性精神障害に対する詳細な分類はみられるが,老年期に限定した診断基準は乏しい.実際,少なくとも総合病院の精神科診療においては,老年者の初診患者の多くが,結果的にはICD-10分類による神経症性,ストレス関連性精神障害の範疇にはいる症例であることは,多くの精神科臨床医の経験することであろう.しかし,それを病初期から,現在の診断基準から導き出すことはかなりむずかしい.老年精神障害者の精神症状に対する不安と恐怖は他の年代に比べて大きく,予後不良を招くことも少なくない.老年者の自殺頻度は,他の年代に比べて高い.家族の介護負担も他の年代に比べて大きい.これらの患者に対して,担当医師は病初期より,より正確に,安全に診療し治療指導することが要求される.老年人口の過密化は目前である.老年精神障害者のより価値ある生を確保し,尊厳ある生を維持するためにも,現時点での老年者精神障害の診療の指針を早急に確立しなければならない.
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1999/9 老年精神医学雑誌Vol.10 No.9
『病草紙』
竹内 徹
名古屋大学医学部附属病院助手
 『病草紙』は,平安末期から鎌倉初期の制作と推定されている絵巻であり,詞書きと絵の作者は不詳である.『餓鬼草紙』『地獄草紙』とともに「六道絵」(浄土教美術の画題.六道とは仏教の世界説で地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の6つの苦難に満ちた世界をいい,人間は仏菩薩を念ずることでこれらの世界に落ちるのを救われるらしい)のひとつとみる説があるが,重篤な疾患ではなく,おもに珍しい疾患をとりあげており,それが浄土教の教化にどうつながるのかはよくわからない.
 たとえば,「小法師の幻覚に悩む男」という段があり,精神症状をもつ男をとりあげている.右に詞書「なかごろ,持病もちたるおとこありけり.やまひおこらむとては,五寸ばかりある法師のかみぎぬきたるあまたつれだちて,まくらにありとみえけり」が書かれ,左に絵が描かれている.絵には,左と奥が板壁に仕切られた板の間が描かれている.当時,庶民の壁は網代壁である.板壁であるのは,かなり羽振りのよい家で武士の家らしい.柱は丸田柱か角柱か区別がつかない.板の間には囲炉裏が切ってあり,五徳の上に木の蓋をした釜が仕かけられてなにか煮ている.薪の煙が,ゆらゆら立ち上っている.男は,奥の板壁と囲炉裏の間,板壁に接し無地のへりのついた畳の上に衾をかけて横たわっている.男の左の畳の上には刀の一部がみえる.刀は柄が真っ直ぐで太刀ではなく腰刀のようである.男の左にある奥の板壁には板の間から70cmほどの高さに壁袋があり,扇と数珠が入れてある.男の右の枕頭には椀に飯が八分目盛られてはしがささっているが,手をつけた様子もなく食欲がないらしい.当時は寝るときも烏帽子を被っていたのに,男は長く患っているのか烏帽子を被らず,鉢巻をしている.頭は月代をそり,髷を茶筅にしている.目をつぶっているが,とくに苦しそうな表情ではなく,汗もかいておらず静かな寝顔である.ほおが少し高い.口にはひげを蓄えている.衾が少しはだけて,男の右胸と上腕の一部がみえるが,肋骨は浮いてはおらず,特別やせてはいない.男の足でももんでいるのであろうか,剥落があって判然としない.囲炉裏と男の間,男の傍らに男の妻と赤ん坊がいる.妻はどうみても1歳以上と思われる座っている赤ん坊に垂れた乳房から乳を与えながら,4つの実をつけた枇杷の小枝を男に渡そうとしているが,男は閉じた目を開こうともせず反応がない.妻の表情はどこか寂しげである.枇杷の実があるということは季節は初夏である.囲炉裏端には,7つの実をつけた枇杷の小枝,数個の枇杷の種と枇杷の皮がみえる.男は枇杷を2,3個食べ,妻はもっと食べるようすすめているのであろう.食欲がないために枇杷の実を与えようとしたのか,枇杷の実の薬効である解熱・鎮咳・去痰を期待したのであろうか.男の枕頭から左の板壁にかけては,15cmくらいの背丈の小法師30数人が白の紙衣を着,手に手に鹿杖を持って男のほうへ押し寄せている.小法師は,頭をそっている者が多いが,まだ髪を少し残している者もいる.鹿杖は,突く者,天に向けている者,振り回す者さまざまである.なかには口を大きく開けて,なにやら叫んでいる者もいる.このことが眠っている間のことであれば,夢であろうが,『病草紙』に収載されているからには,起きている間のことで幻視ということになる.幻聴さえあったかもしれない.年齢,幻視を主とする精神症状,枇杷の実の薬効からすると,外因性精神病の印象をもつ.
 『病草紙』にはほかに,「赤鼻の父子」(鼻の頭が黒い父子),「不眠症の女」「風病に悩む男」(イレウス),「二形の男」(半陰陽),「白内障の男」「歯槽膿漏を病む男」「痔瘻の男」「陰風をうつされた男」(毛風),「霍乱の女」(コレラ),「佝僂病の乞食法師」「口臭のひどい女」「居眠り男」「顔に痣のある女」「白子の女」「侏儒の男」「傴僂の乞食法師」「肥満の女」「雀目の女」(夜盲症),「鍼医」「歯のない男」「露出狂の僧」「赤痢の男と女」「癲癇の男」(火を見ると発作が出現),「脱腸の男」(巨大な陰嚢の持ち主)があり,重篤な疾患もあるがおもに珍しい疾患で構成されている.『地獄草紙』『餓鬼草紙』はその凄まじさを現代にも訴えていると思われるが,『病草紙』には,現代医学の知識を割り引いてもその迫力が感じられない.「六道絵」としたら,浄土教の教化のために神や仏が身近だった当時,どのような役割を果たしたのだろうか.不思議な絵巻である.
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1999/8 老年精神医学雑誌Vol.10 No.8
老人施設での精神障害者への対応
―老人施設は安全か―
佐藤親次
筑波大学社会医学系精神衛生学助教授
 わが国は高齢社会に突入し,それに対応しての社会的施策も進んでいる.たしかに,精神科医として精神病院に勤務していると,隣接して養護老人ホームや老人保健施設などが建設されるのを目の当たりにする.それらの施設は,老化の広さも十分にとってあり,入所者にとって快適そうであることがうかがわれる.その隣に,何十年も同一の精神病院で暮らす慢性精神障害者がいる.「このような素晴らしい住まいがあったなら」とこうした患者さんに対して罪責感のような感情をもってしまうとともにもどかしさと矛盾を感じるのである.
 精神障害者の開放化ということで,病棟外での対応が要請され,家族の受け入れが悪く長期入院を余儀なくされている精神分裂病患者を,養護老人ホームなどの施設に入所させる動きが活発である.
 最近,20年近く精神病院に入院していた男性老人が,退院して行った先の養護老人ホーム内で,同室の男性老人1人と別室の女性老人2人を,数か月前から隠し持っていた包丁で次々殺害するという事件が発生した.報道によると,この加害者は,それまでに傷害と殺人未遂で2回の措置入院歴があったという.当時の精神鑑定書によると,診断は精神分裂病妄想型であり,現実の女性に対する被害妄想を有し,「その女性が裏で工作して,周囲の者が自分の邪魔をする」という内容であった.2回の刑事事件はいずれもこの妄想に基づくものであった.また,当時の鑑定人は,慎重なる対応をしなければ再び殺人などの重大な犯罪をなす危険性がある旨を記載している.東京医科歯科大学難治疾患研究所犯罪精神医学の吉川3)は,触法精神障害者の再犯には,構築された妄想の存在が主要な一要因であることを指摘している.鑑定に従事したことのない精神科医でも,傷害や殺人をなす事例において,こうした妄想を有する場合,その再犯危険性に留意すべきである.また,こうした妄想は,詳細かつ綿密な問診をしなければ,それを把握することは困難であろう.
 話を戻すが,この事例は,それまで入院していた精神病院に通院するという条件で,某養護老人ホームに入所した.しかし,通院に時間がかかるということで,退院・入所後間もなく,近くの精神病院に外来通院することになった.転院時には,まえの主治医からのこれまでの犯罪歴も含めた詳細な紹介状とともに外来転院している.しかし,あらたな主治医は,初回に面接しただけであった.多くの老人施設がそうであろうように,老人施設のスタッフが入所者のカルテをもって精神科外来に行き,患者の状態を説明して,薬を持ち帰るというやり方であった.新主治医は,その後,薬をもらいに来るスタッフに本人を通院させるように指示することもなく,一度も本人を前にしての診察もせずに,十数回にわたりいわゆるdo処方,家族通院精神療法のゴム印を押すだけであった.
 Yorston2)も指摘するように,高齢者であれば,体力の低下が想定され,殺人未遂歴があっても加害行為をなすことはないという素人的考え,あるいは偏見を抱いているのではないかと思う.筑波大学社会医学系の守田ら1)は,高齢者は被害者となると同時に加害者にもなりうることを事例をとおして発表している.
 精神科医は,目の前にいる人権に配慮するとともに,公共の福祉にも配慮するべきであると思う.そうした面で,精神科医は一般医とは異なるのであり,特殊性としての存在理由があるのである.そして社会も,精神科医にこれを期待するのである.これに慎重かつ適切に答えるからこそ,精神科医は社会的に認められ,信用され,存続しうるのである.これにより,精神障害者を守る立場にある精神科医の発言が尊重され,精神障害者が社会に受け入れられる下地をなすのである.
 現在,学校の安全神話が崩壊しているだけでなく,老人施設の安全神話も崩壊しつつあるのかと感じる.それは,多くの高齢の精神障害者が老人施設に移っているためであろう.たしかにすべての犯罪を防ぐことは困難であるが,ここに示した事例の施設内犯罪は予防できたと考えられる.少なくとも,精神科治療に準じた一般的診察がなされるべきであったのではなかろうか.
 この論は,当時の主治医の落ち度を責めることが目的ではない.筆者自身が,業務上陥る可能性のある不手際かもしれない.筆者は,この事件を明記することにより,一般診療にかかわる精神科医として,同時に司法精神医学にかかわる者のひとりとして,個人と公共のバランスを日々考慮しつつ,精神科医療に携わりたいと考えている.

[文献]
 1)森田展彰ほか:精神鑑定事例にみる高齢者犯罪の心理社会的要因とその対策;犯罪予防の観点からみた高齢者援助のあり方について.第8回茨城県医師会地域医療分科会,水戸市,1997年11月.
 2)Yorston G:Aged and dangerous old-age forensic psychiatry.Br J Psychiatry,174:193-195(1999).
 3)吉川和男:精神分裂病殺人犯に見る再犯の予測要因と予測可能性.犯罪学雑誌,61(6):216-234(1995).
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1999/7 老年精神医学雑誌Vol.10 No.7
一総合病院における痴呆疾患専用病棟事情
近藤 等
仙台市立病院精神科医長
 筆者の勤務する仙台市立病院は,第三次救急を担う救急センターを中核とする救急医療主体の総合病院である.1993年7月に精神科に老人性痴呆疾患センターが併設され,1994年6月には16床の老人性痴呆疾患センター専用病棟(全閉鎖の精神科病床)が開設された.開設当初は県内唯一の老人性痴呆疾患センターであった(現在は2か所)こともあり,利用者数は順調に伸び,外来新患数は年平均300余名,入院数は年平均100余名を数える.当院にはこの16床以外に精神科病床はなく,痴呆を疑われる症例以外の精神科疾患で入院が必要になった場合,他院に依頼するしかないという不便さはあるが,痴呆疾患専用の病棟であることは患者が入院環境に慣れるうえでも,看護や行動観察の意味からも好ましかったと思う.
 病棟開設後丸5年が経過するが,老人性痴呆疾患センター専用の病棟の先例を耳にしないため,運用のモデルがなく,その運用には試行錯誤を重ねてきた.老人性痴呆疾患治療病棟や老人性痴呆疾患療養病棟などとの差異化をはかる意味でも,痴呆疾患の鑑別診断と処遇方針の選定をなるべく短期間で行うことを旨とし,入院期間は約4週間を目標においてきた.病棟開設初年度1年間の平均入院期間は約56日間と目標の2倍であったが,病棟開設3年目には平均約28日間と入院期間の目標をほぼ達成した.入院期間が短縮した要因は種々考えられるが,この間の保健・福祉機関等の充実が一因であることはまちがいない.当センター開設時,県内数か所であった老人保健施設は現在30か所を数え,デイサービスも増加し,訪問看護センターも飛躍的に充実し,宅老所も増えてきた.たとえば,当病棟からの退院者に占める老人保健施設入所者の比率は病棟開設後の4年間大きな変化はないが,入所待機の期間は短縮してきていた.
 ところが病棟開設5年目にあたる昨年から事情が変化してきている.まだ詳細な分析は行っていないので印象による話となるが,入院期間が再び伸びてきており,その要因としていままで入院の約半数を占めていた自宅退院が減少したことと,老人保健施設入所の待機期間が長くなってきていることが指摘できそうなのである.自宅退院の減少は,単身者の入院が増えていること,老人保健施設にすでに入所中の人が精神症状の悪化や拒食等から生じる身体的不調を理由に当センター病棟に入院するケースが増えていることなどが原因として考えられる.老人保健施設待機期間が延びている理由については現在のところ想像を働かせるしかないが,老人保健施設の増加に伴い,介護家族への知識啓発が進んだことなどもあり,当センターを経由せず直接入所する比率が飛躍的に高まっているのであろう.県内大半の老人保健施設がつねに満床という話を聞く.まだ需要数に満たないようだ.
 また,上記のように精神症状・身体症状の悪化を理由とした入院依頼が増えている.すなわち治療目的の入院が期待されており,痴呆疾患の鑑別診断と処遇方針の選定という当センター本来の目的との兼ね合いがむずかしくなってきている.さらに身体合併症が重篤である場合,当然,当病棟での入院は困難であるが,他の身体科の医師との交渉が気を遣う作業となる.お互い連携することには何の問題もないが,どの科の病棟に入院するのかが必ず主題となる.これは総合病院だけの事情かもしれないので本稿の表題は「一総合病院における…」としたが,とくに当院には救急センターがあるため,重篤な身体疾患の高齢者が搬送され,その後にせん妄や徘徊を起こす症例が多数みられる.
 痴呆に限らず他の精神疾患においても,精神症状が強く,重篤な身体疾患を合併した場合,入院治療の障壁となるのは結局はマンパワーの問題である.十分なマンパワーを有する合併症病棟が数多くつくられることが理想であるが,経済的な問題が立ちはだかる.
 同様にある一面をマンパワーに帰せられる問題として,痴呆性疾患患者に対する隔離・抑制などの行動制限の問題がある.もちろん可能なかぎり抑制等は避けるべきであり,趨勢として福祉施設での抑制は禁じられていくであろうし,精神科病棟における精神保健法に則った隔離・抑制も最小限にとどめることが求められる.さらに,家族等へのインフォームドコンセントの徹底も求められていくであろう.しかし,たとえば点滴中の自己抜防止のための抑制も絶対に禁忌となれば,現行法制上を満たすだけのマンパワーではとうてい不十分であり,マンパワー増加とそのための経済的根拠が必要とされる.
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1999/6 老年精神医学雑誌Vol.10 No.6
臨床におけるscientific eyeとEBMの実践
藤川徳美
国立療養所賀茂病院第三精神科医長
 卒業数年目の関連病院に勤務している後輩たちと話をしていると,「毎日臨床が忙しくて研究なんかする暇はない」という言葉をよく聞く.こちらは「それは違うだろ」と感じるが,なかなか彼らが理解できるようにうまく説明できない.彼らにとっては,大学で上級医師の指導を受けながら,臨床の役に立つかどうかわからない動物実験をして(実際は違うのだが)英語論文を書くのが研究に対するイメージなのであろう.かといって,臨床研究をしようと思ってもなにから始めればよいのかわからないのが実状と思われる.ここでは,臨床をどのようにして臨床研究に結びつけていくかを考えてみたい.
 近年,臨床における診断・治療の判断場面においては,いままでの臨床経験に基づく勘に頼るのではなく,科学的な根拠(evidence)に基づいた診療を進めるべきであるというevidence-based medicine(EBM)が推奨されている.evidenceとは,広義には最近の臨床試験の報告(原著,総説などの論文)が含まれるが,厳格な意味では無作為割り付け臨床試験(randomized controlled trial;RCT)に基づいた報告を示し,実際にevidenceを構成する条件を備えた臨床研究のみを掲載した雑誌も刊行されている.しかし,実際には臨床実践の問いに答えられる信頼性のあるevidenceを構成する条件を備えた臨床研究のみを掲載した雑誌も刊行されている.しかし,実際には臨床実践の問いに答えられる信頼性のあるevidenceは少ないため,“不完全な”evidenceである広義の臨床試験の報告も参考にせざるをえない.そのなかで,臨床実践に導入できるevidenceと,導入できないevidenceをどう見分けていくのか,そして今後の研究において臨床実践に導入できるevidenceをどのようにして確立していけるかを考える必要がある.
 臨床研究を企画するには,以下の2つの方法がある.ひとつは研究テーマを決めてevidenceを集め,研究計画をつくる方法である.しかし,“不完全な”evidenceにおいて示されている結論は100%正しいわけではなく,方法,対象,結果の考察等について誤りがあるものも多い.これを見分ける(これをcritical reviewという)ためには,その研究領域に対する深い知識と,高度な判断能力が求められる.実際,自分が長い期間その領域の論文を読み書きし続けていればできるようになるが,自分の専門以外の領域においてはなかなかその実践はむずかしい.たとえば,精神科医が関連論文のみを参考にして実際にはみたことのない胃がんに関する研究計画を立てようとする場合の困難さを想像すれば,このイメージがわくであろう.
 臨床研究を企画するもうひとつの方法は,診療場面において個々の症例をとおして気づいた臨床的な印象をevidenceを参照しながら多症例において検証するというプロセスである.この場合,evidenceに対するcritical reviewは,実際の診療場面のイメージがあるため上記の方法に比べると容易である.基本的に個々の症例が示している徴候(sign)は100%正しいわけであるが,治療者(研究者)がその症例が示しているsignを見抜けるかという治療者側の受容体(receptor)機能の問題がある.つまり,症例がさまざまなsignを示しているにもかかわらず,治療者側のreceptor機能が不十分なために見逃されている場合も多いため,このreceptorの感度を高める訓練が必要となる.
 臨床における診断・治療の判断場面においては,まず教科書などに書いてあるすでに確立されたevidenceに基づいて診療を行う.その方法にて改善しない場合には,最近のevidenceに基づく対応によっても改善しないとき(つまり,既存のevidenceに基づく診療で改善しないとき)にどうするかが問題となる.
 実際には,この段階で“もうどうやっても改善しない”と判断してあきらめるも多い.しかし,“どうにか少しでも予後を向上させたい”という臨床に対する真摯な態度があれば,このような考え方にはならないのではないか.いままでのevidenceでは明らかになっていない事実があるという考え方と,既往歴,現病歴,臨床データ,現象などを見直して個々の症例が示しているsignを見抜いてあらたな対応方法を発見しようとする努力を継続することが必要である.
 患者の示している100%正しいsignを見逃さないように日常臨床場面での治療者のreceptorを磨くことは“臨床におけるscientific eye”とでもよべるものであり,このこと自体が臨床研究となる.多数の臨床医が,この臨床におけるscientific eyeを身につけ,evidenceを構成する条件を備えるとともに臨床実践に適応できる臨床研究を行い,症例の予後向上に還元できることを望む.
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1999/5 老年精神医学雑誌Vol.10 No.5
老年精神医学と神経心理学
小山善子
金沢大学医学部保健学科教授
 神経心理学とは,「高次精神機能を脳の構造との関係において研究する」(Hecaenら,1972),「行動の基盤における神経のメカニズムを研究する」(Heceanら,1978)科学である.神経心理学研究の進歩は近年,目覚ましいものがある.最近では,高次精神機能としての「認知機能」は,言語,知覚,行為,思考,記憶さらには情動,注意,意識まで含めて,きわめて広くとらえられており,認知機能を対象とする分野は「認知神経科学(cognitive neuroscience)」または「認知脳科学(cognitive brain science)」ともよばれ,情報理論と関連した認知心理学モデルを導入した「臨床認知神経心理学(clinical cognitive neuro-psychology)」が注目されている.
 神経心理学の研究においては,近年では神経心理学検査の標準化が試みられ,それらの所見に画像診断法(CT,MRI,SPECT,PET,fMRI,脳磁図)や,神経生理学・神経科学的所見(事象関連電位,誘発電位,神経伝達物質)を導入して照合が行われ,皮質のみならず小脳や基底核など皮質下構造の神経心理学的所見の研究へと展開されている.また,研究の対象も,脳気質性疾患のみならず,精神分裂病や気分障害などの機能性疾患にも拡大され,さらに,健常者の認知機能の解明,単一症例から多数例に応用しての統計学的分析がなされた研究,抗痴呆薬の薬物治験の効果判定においても神経心理学的所見が活用されてきている.
 ある認知機能がどの部位と関係するかは,現在,PETやfMRIなどの脳活動イメージング法を用いて,かなり解明されつつあり,ここ数年の脳機能マッピングは完成すると思われるが,認知機能の脳内メカニズムについては,まだほとんどわかっていない.
 神経心理学は,神経学,心理学,言語学,心理行動学,情報理論などと関連しながら,精神医学,神経学,脳外科学,神経放射線学,神経眼科学,老年医学,リハビリテーション医学など多くの臨床医学の分野にまたがって研究,実践されている学際的な分野である.しかし近年,精神科医の手による狭義の神経心理学の研究が少なくなってきていることは残念である.関連学会でも,むしろ精神科以外の分野の研究者の活躍が目立っている.
 老年精神医学においても,高齢者の認知機能,痴呆の神経心理学をはじめとして,神経心理学における格好の対象領域であり,神経心理学的手法を取り入れた臨床研究がさらに押し進められないものであろうか.
 痴呆を神経心理学的観点から分類すると,皮質性痴呆,白質性痴呆,辺緑系痴呆,皮質下性痴呆,複合性痴呆に大別されるが,近年話題となって注目されている.病初期には痴呆が目立たず,長期間にわたって進行する失語や失行・失認症状が前景にでてくる緩徐進行性失語症,進行性失行症,進行性視覚失認,progressive posterior cerebral dysfunction,進行性孤立性健忘や前頭葉型痴呆等の変性疾患が次々と報告されている.これらの疾患は,臨床症状‐神経心理学的所見が詳細に観察されて鑑別されてきたものである.各疾患の確定診断は種々で,脳病理所見を待たなければならないが,典型的なアルツハイマー病やピック病とは異なった臨床症状,経過を示す痴呆があることも事実である.認知機能のなかでも記憶障害は痴呆の中核症状であるが,記憶の研究は精力的になされており,かなり解明されつつあるが,作動記憶(working memory),記憶とawareness,日常生活における記憶(prospective memory)など新しい記憶分野の研究が展開されつつあり,神経心理学的視点から高齢者,痴呆患者の記憶障害も見直されてきている(詳細は,本誌第8巻第2号<1997>の特集“老化と記憶”を参照されたい).記憶以外の認知機能の解明はまだまだこれからである.また,神経心理学的評価をもとにして,衰えていく認知機能に対してのリハビリテーション,すなわち「認知リハビリテーション」へと展開されなければならないが,まだ緒についたばかりである.
 21世紀は脳とこころの時代であるともいわれ,「脳を知る」「脳を守る」「脳を創る」の3つのテーマのもとに,大プロジェクトが組まれ,脳科学研究が推進されている.アルツハイマー病においても,遺伝子学的研究,神経病理学的研究,神経科学的研究が押し進められており,その病態解明もそう遠くないものと考えられる.基礎的研究を中心とした脳科学は,これからますます発展を遂げていくであろう.そして,老年精神医療に携わるわれわれ臨床医も,臨床的研究から基礎的研究に発信できるような臨床的研究を押し進めていくことが望まれる.
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1999/4 老年精神医学雑誌Vol.10 No.4
高齢化が進む精神病院
岩井 清
守山荘病院医局長
 高齢化に伴い,だれもが障害をもつ状態になりうることがあらためて認識され,少子化とあわせて,医療を含む社会保障が見直され始めた.障害のある人に,社会的に広く関心がもたれることと歓迎したい.単科精神病院も,急性期への対応のほか,高齢期に至った精神分裂病,高齢期に発症する痴呆症など,疾患,障害の内容に応じて,さらに適切な対応が求められると考える.今回,単科精神病院の一精神科医として,狭い見聞のなかで,漠然とした感想を述べることをお許しいただき,機会があれば御意見をお聞かせ願えれば幸いである.
 当病院でも,入院患者の高齢化が進み,65歳以上の患者が24%を占め,55歳以上の患者は5割を超える.入院患者の約7割を占める精神分裂病に限定しても,65歳以上が20%,55歳以上がほぼ5割となっており,今後10年間に,平均年齢が65歳を超える可能性がある.精神分裂病の長期予後に関しては,一宮ら1)によると,「経過は実に個別的,多様であり,十数年にわたる安定,固定化のあとにもたえず変化し続け,転帰状態は分化していく」とされる.必ずしも精神的荒廃状態に至る疾患ではなく,晩期寛解など老齢に至ってもなお軽快する可能性を残している.井上ら3)は,高齢期の精神分裂病の予後に関して,回復1/5,未治1/3としている.入院中の高齢期の精神分裂病は,必ずしも精神症状が軽減,安定しているわけではない.現実検討能力が高度に低下した患者,荒廃状態の患者も多数入院している.一方,生活習慣病,骨折など,身体疾患の罹患率も低くないと思われる.合併症の出現は精神症状への対応を困難なものとする可能性がある.他科治療を必要とするあらたな展開は,治療の選択・決定の問題を浮上させる.治療に対して,患者,家族,医師の間で意見が異なることがある.また,他院に受診,入院した場合は,だれが治療に伴うさまざまな援助を行うのかが問われてくる.その治療経過によっては,精神障害に加え,複合した障害に至り,さまざまな支援,介護が必要となる.
 池上ら2)は『日本の医療』のなかで,「医療の新しい政策理念として医療経済,消費者主義,科学主義が模索されており,それらの基底にあるのは経済学的なモデルである」としている.また,高齢者自身が社会的役割のなかで価値があり,社会的,経済的効果をもたらすという意見を多くの識者が論じている.法と精神医学の関係についても,活発な議論がなされている.斎藤5)は『精神科臨床における倫理』のなかで,痴呆性疾患を中心とする老年期精神疾患におけるインフォームド・コンセントについての諸問題をあげ,終末期医療のliving will,durable powers of attorneyについても言及している.介護保険制度は,高齢者の介護の社会化,自立支援,自己決定を理念としている.精神保健福祉法は,精神障害者の医療と保護を旨とし,患者の諸権利を認める方向に踏み出している.
 患者の意思を尊重する傾向は,精神病治療の成果,精神障害者への理解の深まりがひとつの要因であり,精神医学・医療に携わる各職種の方々の尽力の成果と考える.精神科医としては,症状,障害の判断には,欠損する能力と保存されている能力をともに評価し,治療,介護に生かしていくこと,また社会的処遇を求めていく必要があると思われる.筆者ら4)は,「Fahr症状群を伴う非アルツハイマー非ピック痴呆症(NANPDF)の臨床診断基準について」のなかで,感情的接触性が保たれることをこの疾患の臨床的特徴のひとつとした.患者は十分に言語化できないが,主観的体験をもち,主体的行動があると思われた.
 痴呆症の患者と精神分裂病の患者が同じ病棟で療養すると,痴呆症の患者は,デイルームの中心に座り主体的に徘徊し,他の病室に入り込んだりする.一方,精神分裂病の患者は,周辺あるいは病室で過ごすことも多い.痴呆症の患者が部屋に入り込むと,精神分裂病の患者は侵入ととらえ,被害的になり,両親の間に不安,緊張が高まる.痴呆症と比べて精神分裂病は,主観,主体のあり方が異なると思われる.また,未婚あるいは離婚者が多く,両親は高齢化しており,家族による支援が得られにくいことが多い.疾患そのものは,多様な経過をたどり,直接死に至る身体の衰弱をもたらさない.
 高齢社会の精神疾患として痴呆症が注目を浴びる中,高齢に至った精神分裂病者も療養,生活の場面であらたな問題を抱えている.あらためてその処遇について再検討を要すると思われる.多様な状態の精神分裂病者自身が選択できるよう,人的資源,経済的,法的処遇を含めた環境整備が必要である.尊厳をもち,安心した療養生活ができるよう,症状,障害に応じた,多様な施設ならびに人材がまず必要である.その過程のなかから,精神病院が新しい役割を担うことができると考える.

[文献]
 1)一宮祐子ほか:精神分裂病の転帰;定型分裂病129例の20年以上継続観察[I].精神経誌,88:206-234(1986).
 2)池上直己,キャンベルJC:日本の医療.中央公論社,東京(1996).
 3)井上新平ほか:高齢期と分裂病の予後.老年精神医学雑誌,5(5):531-536(1994).
 4)岩井 清ほか:Fahr症状群を伴う非アルツハイマー非ピック痴呆症(NANPDF)の臨床診断基準について.老年精神医学雑誌,7(2):189-197(1996).
 5)斎藤正彦:痴呆性疾患を中心とする老年期精神疾患におけるインフォームド・コンセント.(石川義博編)精神科臨床における倫理,204-225,金剛出版,東京(1996).
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1999/3 老年精神医学雑誌Vol.10 No.3
過疎・高齢地域における介護福祉と社会資源
丹羽真一
福島県立医科大学医学部神経精神医学講座教授
 平成12年4月からの介護保険制度の実施に先立ち,その円滑な運用に必要な事前準備として,高齢者介護サービス体制整備支援事業が行われた.同事業のひとつとして「要介護認定に関する試行的事業」が各都道府県により行われ,このなかで広範囲な対象について介護サービス調査が実施された.筆者らは本誌9巻8号(1998年8月号)に資料「過疎地における高齢者の精神保健」を発表し,そのなかで「要介護高齢者数の調査方法に町村間で違いがあり実態把握に問題がある」ことを指摘した.すでにこれまでも,高齢者のなかでの痴呆や寝たきりの疫学調査が県単位などでいくつか行われ,概数の推定は可能であった.しかし「新ゴールドプラン」が提出され,高齢者が利用できる社会資源(特別養護老人ホーム,ショートステイ,老人保健施設,在宅介護支援センター,ホームヘルパーなど)を,平成11年度までに各都道府県が整備するとなったときに,どのくらいを目標にすればよいのかについての実際的な根拠となる数字はなかったといってよい.とくに過疎・高齢地域についての調査は少なかったので,それだけに「要介護認定に関する試行的事業」による介護サービス調査が広範囲に行われ,医学的にみて正確ではないとしても,痴呆や寝たきりの実数に近い数字が市町村ごとに得られた意義は大きいと思われる.
 新ゴールドプランに沿う社会資源整備の目標数値の設定に際して根拠となる数字がなかったことは,目標数値の達成可能性を吟味してみると明らかになる.少し古い資料であるが,平成9年11月26日の福島民友新聞紙上に発表された記事を紹介してこの点を述べたい.同紙が行った「高齢者保健福祉計画90市町村アンケート」の結果をまとめた記事である.それによると,新ゴールドプランに沿う社会資源整備計画の達成が不可能と回答した自治体は72%もみられ,その理由として「施設未整備」(26自治体),「人的整備の遅れ」(24自治体),「財源的な裏づけのないまま計画を策定した」(10自治体)があげられている.また,「計画と現状の格差」があると回答した自治体は74%であり,「県の指導マニュアルに沿ったため地域の実状が反映されない」と回答した自治体が25あったとのことである.もし,こうした回答が実状を正しく反映したものであるとするなら,目標数値を設定する際に実情に則した数字に基づくのではなく,マニュアルにあわせた架空の数値を設定したところが多いということになる.目標設定のまえに現状調査に投資していないのであるから,こういう方法になるのも無理はないといえる.
 今回行われた整備支援事業としての介護サービス調査は,新ゴールドプランの目標設定とは異なる目的のために行われたものであるが,その結果が有効に活用されれば,プランの数値目標の実状にあった見直しにも役立つと思われる.さらに,この調査結果は医学的にみて満足な資料とはいえないかもしれないが,全国で一斉にこれまでになく大規模に行われた調査であり,行政の目的のためのみならず,調査結果を疫学的な目的のためにも利用するのがよいと考える.そのような意味のある資料だけに,調査を行った市町村が学術的な目的のために調査結果を積極的に公開することをお願いしたい.
 もうひとつ,介護福祉のソフト面での充実のために指摘したいことがある.介護が法制化されるとヘルパーがやってよいことが厳格に定められ,その結果として法制化される以前には行えていたことが行えなくなるという本末転倒な現象も生じようとしている.たとえば,過疎・高齢地域についていうと,次のような場合がある.高齢者のケアのうえで必要になることとして,社会資源にどうやってアクセスするかというソフト面の問題がある.高齢者夫婦のみ,あるいは高齢者単身生活という場合も多いので,高齢者が診療所や病院に行こうとしても援助が必要なことがしばしばある.これまでは社会福祉協議会などのヘルパーが気を利かせて隣町の施設へ自分の仕事の都合をみて自家用車で送ったりしていたが,そこまでのケアを行ってよいとは決められていないということで,できなくなったりする場合である.介護福祉についてのハード面での充実は,過疎・高齢地域においても進んできているが,運用のソフト面での充実が望まれるゆえんである.
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1999/2 老年精神医学雑誌Vol.10 No.2
老年精神医学から老年精神保健へ
――個人的変遷――
一宮 厚
九州大学健康科学センター助教授
 昨年4月,筆者は九州大学の医学部神経精神医学教室から健康科学センターに異動した.精神科医局には卒業後18年のほとんどの間所属してきたが,附属病院での診療と研究,また教育の一部に従事し,医局の人事にも当たらせていただき,さまざまなことを学べたと思う.センターでの職務は,精神保健に関する研究と大学内の健康管理(健康管理室での診療と全学共通教育としての健康学の講義)である.医学部の併任講師でもあるので当面精神科での研究も続けられるが,精神科では,老年期精神障害,といっても痴呆の画像診断と臨床症状について臨床レベルで調べることを研究としてきた.ここでは,精神科で行ってきた研究にまつわることを述べさせていただく.
 精神科では2年間医局長をしたが,新しく精神科を目指す人たちに対して次のような質問をしていた.「あなたが精神科医になろうと思うのは,心理に興味があるためですか,それとも脳に興味があるからですか」.多くの人の答えは予想どおり前者であった.目指して医学部にはいり,大学時代の勉学のほとんどは身体についてであったにもかかわらず,多くの精神科医は,自我に目覚めたころからの精神世界への関心を失うこともなく,精神医学にたどり着くようである.もちろん,脳について知りたいという入局の動機を語る人もいた.筆者自身も,自分のこころの動き,そして自らの意識が,身体とりわけ脳の作り出すものであるとみえる以上,脳の働きの何たるかを知ることができればと,医学部そして精神科にはいった.精神科の診療では,こちら側つまり医者の主観的印象が重要な役割を演じざるをえない.医学である以上,われわれが認識する患者の精神症状にも,客観的所見という裏づけが欲しいという思いが強かった.
 筆者が学生であった1970年代後半に,脳血流による局所脳機能の研究が一般にも知られるところとなり,ヒトならぬ動物に関する生理学の講義にうんざりしていた筆者のような学生は,いよいよヒトの脳機能がとらえられるようになるのかと色めいたものであった.精神科で研修医を始めたころ,九大病院にポジトロンCT(PET)が設置されることが決まった.当初期待されたのは,おのずと精神分裂病に関する所見であり,とくにドーパミン受容体の定量的測定が望まれた.残念ながら,ようやく始まったPET検査は局所脳糖代謝率と血流量の測定に限られていたため,報告されていた精神分裂病患者のhypofrontalityについて追試を行うことから始めようとした.しかし,結局いくつかの経験から断念してそのままになっている.そのひとつは,数年来主治医としてつきあってきた患者さんに協力してもらったときに,検査のあとしばらくして,「モルモットにされた,変な注射を打たれた」と被害的疑念を口にされたことであった.当然ながらこれを払拭するためには時間を要し,なおわだかまりが残った気がする.また,昏迷状態を治療により脱した精神分裂病の患者さんに,家族とそして回前後は本人からも了解が得られたので,前後2回の検査を行ったことがあった.このときは,幸い患者さん自身には何らの問題も生じなかったが,所見にも何の変化もみられなかった.症状は劇的に改善したのにである.こういうことがあって,精神分裂病での検査への情熱は衰えてしまった.現在では,分裂病のhypofrontalityの所見は軽微で,診断に結びつくものでないことが一般的認識になっているであろう.
 もうひとつの関心事は痴呆であった.初老期発症のアルツハイマー型痴呆の症例で,ディスプレイに表示されていく側頭頭頂葉の低下所見をはじめて目にしたときの驚きに似た感動は忘れられない.この所見がアルツハイマー型痴呆の積極診断のひとつの根拠となるということは,一般的になってきたであろう.軽度痴呆の患者であれば,のちに影響を残さず検査を行うことができるのもありがたい.そして,それ以来筆者にとっては,評価された痴呆症状のなにが,脳のどこの障害によって現われてくるのかを確かめることが関心事となった.アルツハイマー型痴呆では,Mini-Mental Stateのスコアは頭頂・側頭部の糖代謝と相関するようであるし,認知検査であれ,われわれの印象的評価であれ,症状と局所脳糖代謝との間におよそ0.5〜0.6程度の相関をもつものであるとの感触を得られた.とくに,患者の情意について得るわれわれの印象が前頭葉機能と関連していることが確かめられたことは,診断における確度に対して,強きを得たりという気がしている.
 このような経緯があったが,自分としては,脳機能・痴呆から老年期の精神障害,そしてこれからは高齢期の精神保健へと興味の分野が広がっていっていると思っている.脳から社会心理への発展なのか,拡散なのか,中年期の変化という一種の危機を過ごしている今日このごろである.
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1999/1 老年精神医学雑誌Vol.10 No.1
介護保険実施を控えて
繁田雅弘
東京慈恵会医科大学精神医学講座講師
 昨年10月に第1回の介護支援専門員実務研修受講試験が行われた.いわゆるケアマネージャーの研修を受講するための資格試験である.平成12年の実施に際しては,当初ケアマネージャーの不足が危惧されたこともあったが,実際は各都道府県で多数の受験者を得た.ケアマネージャーの設置が,病院や施設の運営に大きく影響することを含めて,保険制度への高い関心を示すものであろう.一方,昨年まで試験的にアセスメントを行っていた全国各地のモデル地域でも,本年度はケアプランを立てるまでの手順を経験した.制度実施が近づいていることを実感させられる.たしかに,この制度が福祉と医療とを結びつけたサービスを目指していること,また利用者自身がサービスを選択できることなどの点で高く評価されるべき制度といえる.しかし,この種の制度に前例はなく,望ましいかたちにするためには試行と修正を繰り返す必要があろう.
 この制度において医師は,次の2つの業務を果たすことになっている.第一に,かかりつけ医の意見書を参照しながら要介護度認定審査会において障害の予後について意見を述べること,第二に,ケア担当者会議において受給決定者のケアプラン策定に参加することである.これらの役割について,老年精神医学に携わる一医師の立場からその感ずるところを述べたい.
 介護保険が本来対象とするのは,継続的な援助を必要とする人びとである.したがって,その時点で認められる障害が永続的なものか否かを,要介護認定審査会において判断することがきわめて重要となる.この際,身体疾患だけであれば比較的容易な予後予測も,痴呆症状や随伴精神症状ないしは行動障害となると,その予後の見立てはむずかしい.予後予測に先立ってまず症候の診断をしなくてはならないが,とりわけ高齢者の精神症状となると,その診断にしばしば窮することは日々臨床で経験するところである.家族から,「最近元気がなくなって簡単な家事の手伝いもしなくなった.口数が減り,表情もさえない.同じことを何度言ってもわからない」などと聞かされても,それが痴呆,せん妄,うつ状態といったまったく性質の異なる病態の可能性がありうることを老人医療に携わる者ならば経験的に知っている.またリエゾン精神医学に携わる者は,高齢者のせん妄やうつ病が,一般内科や外科の病棟で“ぼけ”や痴呆といかに多く誤診されているかも知っている.予後判定は,診断の違いによってまったく異なったものになってしまうであろう.
 しかも,要介護度認定審査会では障害の程度についてのみ純粋に判断しなくてはならない.臨床では,たとえば社会福祉サービス利用に関して,その適否の判断は症状だけでなく家族の介護能力や経済的状況を踏まえて総合的に判断している.介護保険の判定は,従来の医療における手続きとは大きく異なっている.痴呆症状や随伴症状について,まずは家族の介護能力などを切り離して,純粋に予後について評価しなければならないことを考えるとき,困惑を覚えるのは筆者だけではないであろう.
 ケアプランの作成についても同様である.該当者のもつ症状や障害について,介護サービスを利用すべきか,それとも医療サービスを利用すべきかといった判断は,医師の診断と予後判定に基づいてなされる.うつ病やせん妄であれば医学的治療を必要とするし,痴呆などの不可逆的な障害で残存機能の維持を主とするものについては,介護がそのマネジメントに大きな比重を占めることになる.その判断はケアプランの内容を左右する.さらには,介護保険の対象となる老人が痴呆と診断され,予後不良と判断されることが,利用者や家族を経済的に助ける方向に作用するのであれば,そのことが現場でケアプランの内容を左右することがないとは言い切れない.こういったことを考えると,該当者の人数が,行政の予測している受給者数を大きく上回ることも予想され,現在想定されている保険財源ではまかないきれない可能性もでてくるのではないであろうか.
 ともあれ,われわれ老年精神医学に携わる者は痴呆患者と,あるいはリエゾン精神医学においてがん患者と接してきた経験がある.治癒することのない持続的な障害に対して,悲観的にならずまた焦らずに継続して支えていくことに,少なくとも他科の医師より慣れているはずである.そしてなによりも,高齢者における急性と慢性の脳気質性精神障害,およびいわゆる機能性精神障害の診断における困難さを知るとともに,その技術をもっている.これら知識の蓄積を,精神医学や老年医学を専門としない人びとへ供給することが,本誌や日本老年精神医学会の役割といえよう.
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