1998/12 老年精神医学雑誌Vol.9 No.12
在宅介護について思うこと
植木昭紀
兵庫医科大学精神科神経科学教室講師
 わが国の65歳以上の老年人口は2000年には2100万人を超え,総人口の17%を占めると推計され,世界史上類をみない超高齢社会への道をたどっている.飛躍的な老年人口の増加に伴い,痴呆性老人も2000年には160万人,要介護の痴呆性老人は20万人になると推計されている.痴呆性老人には特有の精神症状や問題行動があるため,他の要介護の高齢者とは質量ともに異なった介護が必要であり,介護者の精神的,肉体的負担はさらに大きいものとなる.平成6年に連合が行った要介護者を抱える家族の実態に関する調査では,要介護者に対して憎しみを感じたことがあると答えた人が約1/3を占めている.さらに,要介護者に対して虐待したことがあると答えた人が半数にのぼっており,長期化する介護が家族の人間関係を損なうほど深刻な状況になっていることは事実である.
 平成2年に兵庫医科大学に兵庫県老人性痴呆疾患センターが開設され,現在までの相談件数は約2,200件である.そのなかで,痴呆の鑑別診断に関するものは約600件と少ない.痴呆そのものに関する相談よりも,痴呆患者をどのように介護したらよいかわからない,福祉サービスの利用の仕方がわからない,在宅介護に限界を感じ入院や施設入所させたいなどといった介護を続けていくうえでの負担や混乱に対する援助,指導,支持を求めての相談が多いのが現状である.
 痴呆疾患センターでの鑑別診断後も精神科の筆者の外来に通い,7年になるアルツハイマー型痴呆の男性がいる.現在,歩行,着座の能力も乏しくなっているが,この男性の奥さんは,細く長く最後まで在宅で面倒をみようと決め,夫の妹,息子の嫁,息子の援助を得て,ホームヘルプ,訪問介護などの福祉サービスを受けながら熱心に介護している.彼女がこう決意するまでには幾多の動揺,戸惑いがあり,痴呆の夫を受け入れてあげなければと思えるようになったのは,3年まえのことである.いまでは,「痴呆などはテレビや雑誌のなかのことで,まさか自分の夫がなるとは思ってもみなかった」「有能な銀行員であった夫が,計算ができない,漢字が書けない,何度も同じことを尋ねる,日付をまちがえることに腹立たしさを感じ,どう対応してよいかわからず疎ましく思ったこともある」と当時のことを振り返る.現在のような在宅介護の態勢を整えるために,筆者以外に多くの人たちの努力があったことは枚挙にいとまがない.患者本人の診察の何倍もの時間をかけて日ごろの奥さんの悩みを聞き,家族や親類に対しても援助を求めるために面接を繰り返し行った.社会福祉ワーカー,看護婦,地域の保健婦などに依頼し,介護指導や福祉サービスを受給するための助言,援助をしてもらい,家族会への入会もすすめた.当時の奥さんの精神的,肉体的負担ははかりしれないものであったに違いなく,これからも当時に比べれば軽いながらも負い続けることになるであろう.
 身内が痴呆と診断されたとき,介護する家族にとって必要なことは,痴呆の正しい理解と,病人の心理を自分自身に投影しあるがままに家族の一人として認め,受容するこころだとされている.しかし,痴呆に関する知識をもち病気であると理解できても,重要は簡単ではなく混乱を生じ,拒絶したりすることも多い.痴呆患者を治療,介護,収容する施設はあっても,苦しむ介護者への精神的な支援体制は,現在,ないに等しい.
 老人病院や老人保健施設で実際に高齢者に話を聞くと,「家がいちばんよい,家に帰りたい」というのがほとんどである.家族に囲まれ生活するのが高齢者にとって幸福であり,痴呆で介護が必要となっても,在宅で介護され療養することが望ましいとの観点から,わが国の施設対策が立てられている.平成7年の国民生活基礎調査では,高齢者の介護をになっている者は85%が女性である.また,介護者の年齢も60歳以上が50%,70歳以上が24%を占め,介護者自身も高齢化している.福祉サービスの充実がはかられてはいるが,在宅介護をする家族の負担は増えるばかりである.リハビリテーションや看護,介護が必要な痴呆や病弱な高齢者の自立と医療機関から家庭への復帰を目指す中間施設であるはずの老人保健施設が,最近では破綻した在宅介護の受け皿となり,閉鎖収容型の医療機関や社会福祉施設への通過施設に,さらに老人保健施設そのものが収容型施設に変貌しつつあることが現状をよく物語っている.
 高齢者に対する医療は単なる疾患の診断,治療にとどまらず,高齢者を含めたその家族全体に対する包括的な医療を目指し,高齢者のみならず高齢者を介護する家族の生活の質(Quality of Life;QOL)の向上およびその維持を考えなければならない.高齢者とくに痴呆性老人を治療していくためには,介護する家族の精神的,身体的安定をはかることが最も重要であり,家族の立場に立って助言し,負担感を少しでも軽減し,心身の疲れを癒すための支援を行うことが精神科医の大きな役割のひとつではないだろうか.介護される人だけではなく,介護する人にももっと目を向けた積極的な支援と理解が,高齢者の精神医療には必要であると思われる.
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1998/11 老年精神医学雑誌Vol.9 No.11
介護保険
一宮洋介
順天堂大学浦安病院神経精神科助教授
 1998年7月19日の新聞各紙は,前日に厚生省が発表した国民医療費について報じた.それによると,1996年度の国民医療費は前年度比5.8%増の28兆5210億円で,過去最高を記録した.1人当たりの医療費は22万6,600円であるが,70歳以上の高齢者に限ってみると1人当たり65万8,000円であった.また,70歳以上の高齢者にかかった医療費は9.5%増で,医療費全体の32.6%を占めている.1997年9月実施の医療制度改正により窓口での患者の自己負担が増えたため,1998年度の国民医療費はいったん減少するとのことであるが,今後,国民の4人に1人は65歳以上の老人という超高齢化社会を迎えることは必至で,それもすぐ,また増加に向かうことは明らかである.したがって,効果的な医療費抑制策を講じないと,わが国の国民皆保険制度は崩壊するといわれており,国は健康保険料の引き上げが困難であれば,自己負担の増加と民間医療保険への個人加入,疾病群別定額払いの導入などにその方策を見いだそうとしている.
 この老人医療費のなかには,最近,急速に増えている訪問看護やデイケアあるいは老人保健施設への入所に要する費用など,介護サービスにかかわるものが含まれる.介護サービスは,現在2つの制度のもとで行われている.ひとつは医療制度であり,もうひとつは福祉制度である.老人医療の財源は保険料,税金(公費)および窓口負担に求められるが,老人福祉関連では,ホームヘルパーや特別養護老人ホームの利用などに一部負担はあるものの,基本的には税金によって賄われる.このような状況のなかで超高齢化社会に向かう対策として,医療と福祉が連携して多様なニーズに対応しながら適切なサービスを行うという名目で,介護保険制度の導入が立案された.
 現在,2000年の介護保険制度の実施を目指し,全国でモデル事業が行われようとしている.介護保険についてはあらためて述べるまでもないが,40歳以上の国民は被保険者として保険料を保険者である市町村に支払い,介護が必要になったときに要介護認定の申請を提出し,市町村により認定作業が行われ,要介護状態と認定されるとその要介護度に応じて介護サービスが受けられるというものである.認定作業は介護認定審議会での合議により行われるが,その際かかりつけ医の意見書と介護支援専門員(ケアマネジャー)の調査結果が参考にされる.
 かかりつけ医は日常の診療場面から患者の診断や症状についての情報を把握しており,市町村から意見を求められた場合,比較的すみやかに対応できるのかもしれないが,それにしても意見書作成に要する時間は,これまでの障害者年金診断書作成の経験から推察するに,そう短時間ではあるまい.また,かかりつけ医がいない場合には,市町村が指示する医師や当該市町村の職員である医師が診断を行うことになる.意見書にはただ単に改訂長谷川式簡易知能評価スケールのスコアを記載すればよいというものでもないであろう.身体状況の評価,精神神経症状の評価,頭部CTや脳波といった補助検査所見の検討が必要であり,意識障害やうつ病など痴呆と紛らわしい状態の除外も重要な作業となるので,介護サービスを導入するためにかなりの時間と労力が費やされることになるかもしれない.実際,筆者が勤務する総合病院に併設されている老人性痴呆疾患センターでは,これまでに専門医療相談のあった事例の76%に医療機関受診の必要性を認め,その77%が神経精神科を受診している.また,このうち27%は診察および検査の結果に基づき福祉サービスなどの診断書を作成した時点で外来通院を中断しており,今後はこのような事例の増加が見込まれる.医療現場では合理化どころか限られた時間のなかで医療レベルの維持に苦慮することであろう.
 40歳以上の国民が負担する保険料は1人当たり毎月2,600円程度と推計されているが,これは年金受給者も例外ではなく,年金から天引きされる方法が検討されている.また,介護サービスを受ける際には1割の利用料を支払うことになっており,サービスは無償ではなく,利用者の負担はそう軽いものではなさそうであるとの認識は必要であろう.
 介護保険の導入により,介護サービス市場は一気に拡大するものと思われるが,社会福祉事業団のアンケート調査によると在宅介護サービス事業者は人材の確保と採算の維持が最重要課題であると回答しており,事業の展開に不安を示している.サービスを受ける側は料金を支払っているのだから,よりよいサービスを求めるのは当然であるし,そのニーズにこたえられないものは淘汰されていくのかもしれない.
 介護保険制度が絵に描いた餅にならぬよう,「現場」での実態を絶えず踏まえた運用が望まれる.
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1998/10 老年精神医学雑誌Vol.9 No.10
グループホームを育てるために
真田順子
高知医科大学神経精神医学教室講師
 痴呆性老人のためのグループホームが,介護保険に盛り込まれた.在宅介護か施設ケアか,二者択一を迫られていた痴呆性老人のケアに新たな選択肢が加わることになる.
 グループホームは,6ないし9人程度の痴呆性老人が1軒の家で職員の援助を受けながら共同生活を営むものである.自宅に日課表がないように,グループホームにも日課表はない.炊事,選択,風呂の準備など自宅にいるときと同じペースで日々を重ねる.在宅老人がデイサービスに参加するのと同じように,時にはデイサービスにも行く.長年しなれた家事ならば,体が自然に動く.いつもスタッフがいるので,どうしたらよいのかわからなくなって途方に暮れることもない.小規模だから町の中心地に建設することも,市営住宅の1階に組み込むことも容易である.住み慣れた土地にグループホームを準備できれば,長年培ってきた近隣の人びととの人間関係も継続できる.家族にとっては仕事帰りに毎日のように立ち寄ることも,出来立ての手料理を差し入れることも容易である.
 グループホームがhomelikeな生活の場として広く認知されること自体はもちろん喜ばしいことであるが,どの程度の身体機能の,どの程度の認知機能障害のある,どのような行動障害のある痴呆性老人に適しているのか,また終生そこに住み続けられるのか,住み続けたほうがよいのかは必ずしも明らかになってはいない.
 たとえばスウェーデンでは,1980年代なかばからグループホームの試みがはじまり,老年精神科医らのグループによる研究が続けられた.彼らは入居前診断を厳密に行った.その結果,前頭葉障害ではないこと,他の住人との相性がよいこと,身体機能が比較的保持されていること,知的には口頭指示が有効であるうちに入居するほうが望ましいこと,スタッフ教育が重要であることなどが明らかになった.また,グループホームの役割を,従来の施設にとってかわるのではなく,在宅ケアと施設ケアの間隙を埋めるものと位置づけた.
 1992年に,スウェーデンはエーデル改革を実施し,グループホームは国の施策となり全国に広まった.スウェーデン政府はグループホームを痴呆性老人介護の切り札としたのである.それ以後は入居前に厳密な診断を行うこともなくなり,種々の痴呆性疾患をもつ高齢者が同居するようになった.その結果,入居前に十分に診察していればチェックできたであろう叫声や易怒性による転出者が出現している.また,身体介護に人手を要する高齢者も受け入れたために日常生活らしさが減って,小規模施設化してしまったグループホームもある.
 日本のグループホームはどのような場所に育とうとしているのであろうか.「平成8年度痴呆性老人のためのグループホームの運営に関する調査研究事業報告書」には17軒のグループホームが記載されている.定員は3人から18人,利用者・職員比率は6対1から0.8対1とさまざまである.入居者の痴呆の程度や日常生活自立度もグループホームによって異なっている.通過型施設であろうとしているところも,終の棲家と腹をくくったところもある.それでも「自己実現をはかれる場,その人らしさや尊厳の守られる場」を目指す姿勢は共通している.そして,明言してはいないが,適切な医療のサポートを前提としながらも治療主体になることへの拒否感が感じられる.
 たしかに不適切な医療介入はグループのダイナミズムを萎縮させたり,管理的姿勢をとらせる可能性がある.われわれとしても厳に慎まなければならないことである.しかし,グループホームを成功させるための情報は多ければ多いほうがよい.正確な診断や精神症状評価があってこそ,グループホームの意義も可能性も明らかになるのではないだろうか.
 情熱に支えられた初期のグループホームと普及後のグループホームに質的断裂が生じてしまったスウェーデンの轍を踏まないためにも,福祉と医療の壁は取り払われたほうがよい.情報を共有化して互いの意見を真摯に受け止めあいたい.介護保険に組み込まれたグループホームを単なる小規模老人ホームにしてしまわないために,グループホームが理想に近い生活の場として広く受け入れられていくために,入居適否の判定や精神症状評価,予後予測に老年精神科医がかかわっていくことは欠くべからざることと思われる.
 保健,医療,福祉の連携の必要性が説かれて久しいが,残念ながらけっしてよい連携がとれているとはいえない.医療者にとっても福祉関係者にとっても未知なるグループホームを本当の連携の糸口にしたい.
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1998/9 老年精神医学雑誌Vol.9 No.9
精神疾患の死後脳研究
田子久夫
福島県立医科大学神経精神医学講座講師
 人間のこころとその精神機能は宇宙と同じように昔から神秘的かつ魅惑的でもあった.古代ギリシャ人はすでにこころの主体は観念であるととらえ,肉体は心的な力で動かされているという現代に先駆けた考えをもっていた.それでも,こころに関する研究が科学的に行われるようになったのは,近代になってからのことである.実験心理学などの台頭をへて,19世紀になって大脳皮質局在論が確立され,精神現象の機能部位としての精神症状は早くから詳細に調べられ,大脳皮質を中心とした脳の特定部位の機能についての知見が集積された.これらの所見は相当に普遍的でもあり,臨床症状から脳の障害部位を予想することもある程度可能になった.
 これに対し,機能的障害は推定されるものの,器質的障害が何ら見あたらない精神疾患も多く残されている.そのおもなものが,精神分裂病や感情障害などのいわゆる内因性の精神疾患である.これらの疾患に関する神経病理学的研究は,今世紀になってからも続けられたが,その実態は「神経病理学の墓地」と皮肉られるほど,成果の期待できない分野として受け止められてきた.事実,それまでの古典的な組織学では,粗大な病的変化は見いだしえても,複雑かつ緻密な脳構造のさらに微細な部位での変化を調べることはあまりにも困難であったと思われる.しかし,ここ20年あまりの間に,パソコンが研究に供されるようになり,神経化学や組織化学が飛躍的に発達し,さらに分子生物学的手法の出現により,脳の検査・研究の内容は変化し,格段に進歩した.これによって得られた膨大な結果から,新しい検索法がさらに生み出されるという循環も形成されている.一部は臨床への応用もなされており,脳の研究・臨床は今後,未曾有の発展が予想されている.
 しかし,人間の脳の研究とくに病理学的研究には,個人の精神が存在するところとしての最高位のプライバシーが守られる義務も生じてくる.医学的には,臓器そのものによる病因研究は根治療法が開発される可能性もある重要な手段であり,そのためにも強力に推進されるべきものと受け止められる.他方,社会的には,高度なプライバシー問題をもつ疾患でもあるので,その研究には十分慎重であるべきという判断が強く働くこともまた当然であろう.後天的障害などの偏見の対象とはなりにくい疾患は,関係者の協力が比較的得やすいが,差別による長い苦痛の歴史をもつ「精神病」といわれる範疇の疾患の研究には,同意を得るどころかその病名告知でさえままならないときもある.それゆえ,研究への協力をいただく場合は,事前の理解と同意を得るための担当者の息の長い真摯な努力が不可欠で,つねに協力者が不利にならないように配慮する心構えも求められるのである.
 ところで,臨床を続けていると,患者やその家族のなかには病名告知後に,その病気で悩む人たちのことにも配慮し,死後に脳を研究に役立ててほしいと申し出るケースにめぐりあうことがある.このような場合は,その人の判断能力を考慮し,その意志に最大限の敬意をはらい,現在,世界で行われている当該疾患の研究の目的や内容を誤解なきように説明したうえで,他の家族と相談して慎重に判断するようお話している.このようなエピソードもあり,当大学神経精神医学講座では丹羽真一教授の発意のもと,精神疾患の研究のためのブレインバンクを組織する計画を立て,昨年12月には学内倫理委員会の承認を得ることができた.筆者もこの組織の運営委員に加えていただいているが,今年の5月30日にはこの活動の一環ともなるブレインバンク運営委員会主催の第2回精神疾患死後脳研究国際ワークショップを開催し,各国から100人あたりの参加者にお集まりいただき,成功裏に終えることができた.現在,組織運営のための啓蒙活動を進めながら,協力していただく人たちを募集しているところである.
 こころの病の研究とはいっても,脳という物体そのものからこころのすべてを知ることは不可能である.結局,脳を取り巻く環境全体を包含した総合科学的作業になるかと思われる.脳とくに死後脳から得られる情報は,そのうちのほんの一部のものにすぎないであろうが,病因を知り,治療法を解明するためには不可欠なものであり,その過程を避けてはならないと思う.そのためにも,当事者の人間性は厳しく問われるべきものであり,つねに襟を正す気持ちが肝要であろう.はたして,自分がこの組織を利用することができるか否かはわからない.しかし,そのときには次世代以降の研究者によってこの組織が利用され,精神疾患の病因解明がなされることを夢見て,せめてその組織づくりの一助となればと襟を正しながら考えている.
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1998/8 老年精神医学雑誌Vol.9 No.8
介護家族と「五常」・「五倫」
堀口 淳
広島大学医学部神経精神医学講座助教授
 21世紀の超高齢社会を真近に控え,在宅ケア施策が次々と打ち出されている.しかし,「新ゴールドプラン」と老人保健福祉計画,さらに介護保険制度の導入で,各市町村に実際にどの程度の整備がなされ,実効性のあるシステムがいかに構築されるのかについては,いまだ不明確である.大きな期待と不安とが錯綜する.ハード面の配置の充実も然ることながら,システムを有機的に作動させるソフト面の築造こそが緊急課題である。保健・医療・福祉の連携が叫ばれて久しいが,「ネットワーク」が「チーム」としての効力を発揮するには,なおさまざまな障壁がある.
 外来で痴呆患者を担当した場合,そこは「診察室」という,おそらく患者や家族にとっては緊張感の強い閉鎖空間であろうし,また主治医にとっても限られた時間内で診療行為を提供しなければならないといった切迫感の強い環境である.「納得のいく臨床」を実践することは容易ではない.筆者は痴呆老人の在宅療養の援助のあり方を体得すべく,前任地の大学が所在した一地域を舞台に,まずは自身の外来患者の在宅訪問診療を開始した.それは,現行の精神医学・医療,なかんずく老年精神医学・医療が患者や家族の生活にどれだけ貢献できているのか,「地域で支える」にはいったいなにが欠落しており,医師にはどんな力量が求められ,なにができるのかを模索するためでもあった.訪問診療を実践すると,大学の冷たい「診察室」ではけっして顕現されない,老人の表情や生活支障,家族の心情がひしひしと体感され,筆者は己のアイデンティティーの未熟さに直面させられた.この経験を基盤にして,役場に「おとしより健康相談室」を,大学に「シルバークリニック」を,地域に「家族の会」を発起・結成した.すると次第に,地域の保健婦やホームヘルパー,社協の専門スタッフなどとの“連携”が少しずつ芽生えてきた.しかし,そこから具現・抽出された最大の障壁は,在宅家族の介護意識であった.
 日本人の家族観,これは死生観にも連動するものであろうが,そこにはやはり儒教思想から発生した倫理観,すなわち「修己治人」を基礎におく儒学の精神が厳然と存生しているようである.「修己治人」とは,自身が道徳的修養を重ねて自己を修め,もって人民を治めるという学である.本来儒教思想は,宗教でも,あるいは政治のためのものでもなかったようであるが,世界史的視野に立脚すれば,キリスト教や仏教あるいはイスラム教とともに並称されてきた感がある.儒教ではまず「仁」,すなわち他人に接する際のこころのあり方を説くが,その実践が「中恕」(思いやりと真心)である.「仁」は「孝」すなわち父母に尽くすことがその第一とされるが,おのずと情に流されてしまうことがあるので,これを抑制するものが「義」であるとされる.これらを「仁義」と名称したのが孟子であり,これに「礼・智」を加えて「四徳」と称し,さらに「信」を加えて「五常」を説いた.「礼」は対人関係を円滑にするための規範慣習であり,「智」は事の善悪を判断する能力をいい,「信」はうそ偽りのないこころのあり様,態度をいう.儒教にはまた「五倫」があり,これは基本的な対人関係を五種,すなわち父子の親,君臣の義,長幼の序,夫婦の別,朋友の信に分けて論じるものである.孔子の死後,その倫理学が諸子百家の隆盛を喚起したことは周知の事実である.その後の歴史的変遷には複雑な道程があるようだが,わが国に導入された儒教は神仏二教,あるいは一時期は禅と連合したり,再び解離,合体を繰り返し,明治以降の日本人の「道徳」感が構築されていった.
 筆者は,種々の福祉サービスを受け入れることへの強い抵抗感を語る家族や,“介入”を拒否してまでも,凄まじい介護を続ける家族にたびたび遭遇した.この抵抗感の背景には,家族内力動や世間体を憂慮することなどの複雑な要因が絡んでいようが,その源には,「五常」や「五倫」のもとに,「忠恕」を貫こうとする精神が鎮座しているように思えてならない.この精神の是非はともあれ,いかに高邁な在宅ケア制度が構築されても,その精神が制度の有効な運用の障壁のひとつとして機能しているとすれば,それは危惧に値する.患者や家族の尊厳や自己決定権に配慮した対応が最も肝心であることは言うにおよばない.いま求められているものは,障害をもった者やその家族の生活を保障する理念を共通認識し,サポートシステムを自然に受け入れられる地域を構築することであろう.北欧諸国の先駆的な取組みや理念から学ぶべき事柄も多いが,そのまま模範とする必要はない.わが国の社会構造の変貌に則した社会教育のあり方も問われているように思う.
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1998/7 老年精神医学雑誌Vol.9 No.7
老年期の心理について
門田一法
南ヶ丘病院副院長
 筆者の手元に1冊の本がある.エリク・H・エリクソン,ジョーン・M・エリクソン,ヘレン・Q・キヴニック著,朝長正徳,朝長梨枝子訳『老年期―生き生きしたかかわりあい―』(みすず書房,1990)である.
 著者の一人であるエリク・H・エリクソンは,アイデンティティ論やライフサイクル論で著名な精神分析医である.この本は,彼と妻が80歳代になって記したものであり,アメリカの研究対象者との面接をもとに老年期の心理が生き生きと描かれている.そこで,その一部を引用しながら,老年期の心理について考えたい.ここで重要なことは,病理的な心理というよりは正常な心理について言及していることであろう.
 以下,本書の内容にふれる.彼らは,「ライフサイクルの八段階;漸成論」を提示している.(1)希望→(2)意志→(3)決意→(4)才能→(5)忠誠→(6)愛→(7)世話→(8)英知である.そして,「老年期では,それ以前のごく初めの段階から獲得してきた能力や特性やかかわりあいが,今度は発達の逆行といったものを経験していくので,この時期は,以前の段階で経験した発達上の関心事の多くと再び対面することになる」と述べている.以下では,発達の逆行をたどった彼らの記述にそって紹介する.
 (1)「統合と絶望;英知」:老年期の問題のひとつは,今後予想されるかかわりあいや,当然予見できるかかわりあいからの撤退のなかで,どのような現実性や相互性が存続できるかであり,老年期の英知とは,かかわりあいから撤退に本気でかかわることである.より具体的には,老年者は,まだこれから生きなければならないというよりはもうほとんど完結しているライフスタイルを目のあたりにし,残された未来を生き抜くための英知の感覚を統合し,現在生きている世代のなかでうまく釣り合う位置に自分をおき,無限の歴史的連続のなかでの自分の場所を受け入れる,という課題に直面する.そして,身体的な限界に加えて,いままで以上にどうにもならないほど限られたように思われる個人的未来に対峙するという重荷を抱えて,ライフサイクルの終わりに近づきつつある人びとは,いまはもうかえられない過去といまだ知ることのできない未来とを受け入れ,起こりがちな失敗や手抜かりは認め,必然的に起こる絶望感と生き続けるのに欠かせない全体的な統合の感覚との間のバランスをとろうと苦闘している自分を発見する.
 (2)「生殖性と停滞;世話」:老年者は,生涯にわたる生殖性と停滞を融和させることによって,次の世代を養う行動的な責任のあった年月を再吟味し,また,自分より前の世代を世話した経験やその世代に関連して自分のことをどう思ったかという若いころの経験を統合する.つまり,老年者は,世界を維持するための中年期の直接的な責任を越えた「祖父母的生殖性」を発揮するようになるのである.年老いた親,祖父母,古い友人,コンサルタント,アドバイザー,教師といった役割はどれも,すべての年代の人びとの現在の関係のなかで祖父母的生殖性を経験するための大切な社会的機会を,年老いた成人に与えるのである.
 紙幅の都合上,以下は簡潔に述べる.(3)「親密と孤独;愛」:それまでの年月における共有と分離を振り返って考えることで,愛の能力をいつまでも生かしておこうとする.(4)「アイデンティティとアイデンティティの混乱;忠誠」:何十年と生きてきた自己,現在に生きている自己,そして不確かな未来に生き続けるであろう自己の意味を理解しようとすることによって,アイデンティティとアイデンティティの拡散の感覚の間でバランスをとろうとする.(5)「勤勉性と劣等感;才能」:身体的な力や感覚的鋭敏さや筋肉のすぐれた協調運動によっていままで長い間行っていた技術がしだいにできなくなるような生理的感覚的衰退に直面したとき,生涯にわたる有能性の感覚は決定的な源となる.(6)「自発性と罪悪感;決意」:罪悪感に能力を奪われたり,不活発性に打ちひしがれたりせずに,その活動に伴う新しい限界にどう適応するかを学ばなければならない.(7)「自立と恥・疑惑;意志」:身体的能力がしだいに進むにもかかわらず,行動上の妥当性を維持しようと奮闘する.(8)「信頼と不信;希望」:現在抱いている宗教的信念と取り組み,そしていままで実践してきた宗教上の活動を考えなおしつつ,一方では信頼と確信に向かうものと,他方では用心深さと不確かさに向かうもの,という相対立する老年期の傾向を融和させようとする.
 以上,簡単に紹介したが,これらを念頭において老年期の人びとの話を傾聴していくことは,臨床上もきわめて重要であろう.彼らの自尊心を高めることにつながり,共感しやすいからである.そして,治療関係を良好にするとともに,彼らの葛藤の一部を明らかにするからでもある.
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1998/6 老年精神医学雑誌Vol.9 No.6
老人医療雑感
仲村禎夫
早稲田大学教育学部教育心理学教室教授
 東京都は,痴呆が原因となって起こる顕著な精神症状や問題行動のために自宅や施設での介護や療養が困難になった者を対象として,おおむね6か月の入院(3か月を越えると医療費が安くなるので実際は3月以内に退院させるようにしている)を目途に短期集中的に治療および看護を行う痴呆性老人精神科専門病棟を,施設整備や人件費に補助金を出して500床(50床を10施設)整備する計画をたて,現在,8施設400床が完成している.筆者が関係している病院(以下,当院)も東京都では5番目の痴呆性老人精神科専門病棟を開設してほぼ3年半が経過した.
 その間,延べにして500人を超える痴呆患者が入院している.その転帰をみると,設立の趣旨とは裏腹に自宅に帰った者は約30%にすぎない.残る約70%は老人病院への転院,老人保健施設(以下,老健施設),特別養護老人ホーム(以下,特養),有料老人ホームへの入所,合併症(骨折,結核,慢性硬膜下血腫など)による転院などとなっている.死亡退院も少数ながらみられる.自宅に帰った者がわずか30%というのはいかにも少ないようであるが,他の同種施設では10%前後であることが多いと聞くと,他施設に比べてかなり高い.現状では的確な治療手段がなく,進行する痴呆性疾患の実態を明確に示している数字といえるかもしれない.10%でも30%でも自宅に帰れれば在宅ケアを推進しようとしている国の施策として成功とみるのか,あるいはもっと多くが家に帰れるはずと期待していたのかはわからない.原点に帰れば,確実に進行する痴呆性疾患を改善して在宅ケアに戻すということが,そもそも基本的に誤っているのではないかという疑問が生じるのも当然である.
 いったん退院して在宅ケアに戻っても再入院する人が少なくない.その場合は原則として3か月は間を空けてから入院してもらうように指導しているが,実際はそうもいかない場合がある.また,3か月空けるという原則からその間老健施設に入所し,再入院するケースもある.最も多い人ではこれまでに8回の再入院を繰り返している.一度は退院しても結局は長期入院(所)施設に入るようになるケースがほとんどといってよいのが現状であろう.
 家に帰れない人の行き先を探すことは,家族にとっては大変なエネルギーを要する作業である.情報はわれわれ老人医療や福祉に携わる者が与えるとしても,実際に見に行ったり,交渉したりして決めるのは家族である.当院は都心に比較的近く,入院患者は地域の人が多い.しかし近在に受け皿が少ない.特養の入所は,申し込み後1〜2年待つのが常識となっている.名前の知られた老人病院では,入院予約をしても数年待たされると聞く.とても現状に対応できているとはいえない.遠く離れた郊外や県外の施設に移る人も少なくない.療養型施設の充実が急がれなければならないという思いは,現場での実感である.このような実情をみるにつけ,何とか同じ地域に受け皿を作りたいと考え,一病棟を老人病棟に転換したところ,短期間で予約が埋まってしまった.
 在宅ケアが家族に大きな負担を強いていることはいまさらいうまでもないことである.さまざまな支援システムが構築されてきつつあるが,十分とはいえない.しかし大きな支えになっていることも事実であり,一層の充実が待たれる.
 次に老人医療の経済性について考えてみたい.痴呆患者のケアは,マンパワーが中心となる.ケアの質が問われる昨今では,質を高めようとすると設置基準以上のマンパワーを配置しなければならない.つまり人件費がかさむことになってしまう.補助金が出ているが,行政の常として,初めは設置を促進していながらある程度軌道に乗るか,同種施設が増えてくると補助金削減の挙にでる.背景に財政が逼迫しているという事情があることはわかるが,足元をすくわれるという感じがする.
 いずれにせよ建物などの設備投資や多くのマンパワーが必要なことを考慮に入れると,老人医療は経済的には赤字か,そこまでいかないにしても採算が合わないことは確かである.それでも地域へのサービスから,ニーズがあるかぎりやめるわけにはいかないというジレンマがある.マンパワーについては,体力も大きな要素である.入浴,移動,処置などのために患者を抱えることが多く,腰痛を訴える看護者が多い.
 最後にケアの質について考えてみたい.不十分とはいえ,老健施設,療養型病棟,ショートステイ,デイケア(デイサービス),介護支援センター,訪問看護ステーションなど,老人医療を取り巻く環境は次第に整備されつつある.当院の近在にもこのような施設が増えつつあり,分野によっては競合することになる.ケアを受ける側からすると選択肢が増え,喜ばしいことであるが,提供する側からすると,サービスの質が問われ,サービス競争を強いられることになる.市場原理が働くということかもしれないが,悩ましいことである.質にはハードの面や人,ケアの内容など種々の要素が含まれるが,とくに看護者の質が大事であることを痛感している.
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1998/5 老年精神医学雑誌Vol.9 No.5
こころと体
佐々木英忠
東北大学医学部老人科教授
 高齢者の悪性腫瘍では本人が知っていても高齢のために放置し,心配しながら余生を過ごす例もあるが,多少の危険もあるが思い切って手術をした方が心安らかに生活できてよい例も少なくない.いよいよ最期となったときには延命医療よりホスピスケアがよいといわれている.苦痛をとり自然死を選ぶのである.わが国では認められていないが,欧米では自然死も苦痛なので安楽死を望む場合も少なくない.欧米では安楽死を選ぶ理由のうち痛みによる苦痛は5%しかなく,ほとんどはなぜ自分が死ななければならないのかという死に対する不安,孤独,恐怖であるといわれている.人は,痛みがあっても将来に希望があると安んじて手術を受けるし,修業もできる.最後に残るのは死後の不安であろう.
 延命医療もホスピスケアも安楽死も,みな死後に対する不安のために何らかのこころのケアを行って,少しでもその不安を忘れさせ安んじさせようとしているものと考えられる.それでは問題は死後はどうなるのかという疑問であろう.死後の世界を見た人がいないため,「死後,天国へ行けばよいなあ」と漠然と考えるのが落ちである.宗教はこの思いに答えようとしている.
 しかし,多くの人が考えたように,天国へ行けば殺生はできないだろうから,食事はなにを食べればよいか不明である.蓮の葉を見つけてそこに安住して天国に住むといっても,蓮の葉の上に千年,万年といては退屈で,それこそ死にたいと思うのではないかと心配になる.
 人が死ねば体は朽ち果てるが,問題はこころの行方である.こころは脳神経細胞間に組み込まれた記憶容量を基盤にして新しく生まれた精神構造とも考えられるが,だれかが考えたことに他の人が感銘を受け座右の銘にするなど,他の人の精神構造に継承されるもののようである.体はなくともこころは他の人にはいり,生き生きとしている例は多い.「死んだ父母が見守ってくれるからしっかりね」などというように,こころはむしろすぐそばにいるように感じられることが多い.『走れメロス』は,行けば殺される事がわかっていながら,友人との約束,こころの結びつきを大切に考える物語であるが,自分を犠牲にしても他人のために尽くすなど,体よりこころを重要視することは多く,むしろ美学ととらえられている.
 子孫を残すことは遺伝子を残すことで,遺伝子が永久に生き残るために体を継代培養しているという考えは,体のみに注目した考えであり必要条件ではあるが十分条件に満たしていないことになるであろう.子孫を残さなかった人は,体は残さなっかったが,こころは周辺の人に残すことができ,次代に生き続けることができる.
 司馬遼太郎氏はある寺で仏像を見たとき,ほとんど枯れていて,もうすでにこの世にはこころは存在していないように見受けられたが,唇にかすかに赤が残っており,かすかにこの世に未練を残して,いままさに天国へ上ろうとしている動的な様に心動かされたといっている.
 次代や周辺の人に残されたこころは,自分のこころが受け継がれた人たちとともに次の世代に生き,さまざまなものを動的に見聞する.時には,あの人だったらこの危機の際どのように考えるのだろうと,こころのなかで相談もしたりする.蓮の葉の上に永久的に安住するよりも,動的な状態にこそ感動もあろう.しかし,もはや責任はもたないし,もてない.不幸な境遇を恨んではならないという言葉があるが,いたずらに嘆いてばかりいては定常状態にとどまるだけであるが,逆境にあってこそ動的に人生を送れる場合が多いからであろう.
 次の次の世代になれば折角の自分のこころも忘れ去られていくのではないかと考えられるが,多くの人に分散されるだけであり,積分値は不変であると考えられる.考古学での新発見が相次いでいるが,祖先の暮らしぶりがわかり,われわれにもそのこころはたしかに受け継がれていることを実感する.
 伝記物語となりこころに大きく組み込まれることばかりがこころの伝承ではない.むしろ,平凡でもその人のこころ,人柄,やさしさや思いやり,真摯に生きたことこそ,人として最も安らぎのあるこころの充実に大切なものを周辺の人の精神構造に与えるといえるのではないだろうか.お金があり,世間の常識で恵まれている人とそうでない人とで,こころのその後のありように差があるとは思えないのである.ひょっとするとこころは死なないのではないだろうかと思われる.
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1998/4 老年精神医学雑誌Vol.9 No.4
後期高齢者
三森康世
広島大学医学部第三内科助教授
 平成9年度の厚生白書によると,わが国の65歳以上の老年人口は1995(平成7)年には1836万人に達しており,将来的には3300万人前後で推移することが予測されている.これに伴って老年人口の比率も,1995年には14.5%であったものが,2025年には27.4%,2050年には32.3%に急増すると見込まれている.なかでも75歳以上の割合は,1995年の5.7%が2025年には15.6%,2050年には18.8%とその伸びが著しいことが指摘されている.すなわち21世紀なかばには,国民の3人に1人が高齢者であり,その高齢者のうち5人に3人が75歳以上という社会が到来するのである.
 近年,この75歳以上の高齢者を,とくに後期高齢者とよび,65歳以上75歳未満の前期高齢者と区別しようとする考えがある.報告によっては80歳以上とするものも散見されるが,高齢者は個人差がきわめて大きく,単なる暦年齢のみでは評価がむずかしく,さらに各種生理機能の低下の度合いもさまざまであり,何歳をもって区分するのが最適であるのかは今後の課題であろう.どのような目的でなにを評価するかによってもかわってくる可能性もある.しかし,いずれにせよ後期高齢者では前期高齢者に比較して,ADL上自立できない者の割合が明らかに増大している.痴呆の有病率も,75〜80歳を境にして急峻に増加する.また,これまで高齢者に多くみられる症候として一括されてきたものもけっして一様ではないことが判明してきた.痴呆,脱水,骨関節変形,視力低下,発熱などは65歳以上で増加してくるが,ADL低下,骨粗鬆症,嚥下困難,尿失禁,せん妄などは80歳以上で著増してくるという興味深い報告がある.このような「高齢者中の高齢者」とでもいうべき後期高齢者への取組みは,今後,医学,福士,行政などあらゆる領域においてますます重要になってくるものと考えている.
 これに関連して,最近の臨床治験に対する筆者の疑問を少し述べてみたい.平成9年度より臨床治験の方法や手続きが大幅に改定され,よりいっそう厳格な実施が求められるようになっている.筆者も,脳血管障害後遺症,糖尿病性ニューロパチー,本態性振戦などを対象とした薬物の治験(その多くは二重盲検試験である)を担当している.対象患者の条件にはかなりきびしい制約があり,多くの場合,年齢制限が設けられている.たとえば,65歳未満,あるいは70歳未満,あるいは80歳までなどと規定されている.制限年齢よりたとえ1日でもオーバーしているとその治験にはエントリーできないのである.さまざまな問題が生じやすい高齢者は除外して,まず成人例で検討,評価したいという意図もあるのであろうが,それではこれらの薬物が認可され,市場に出回ったとして,高齢者,とくに後期高齢者または超高齢者(通常85歳以上と定義される)に対する処方をどのように考えていったらよいのであろうか.上記諸疾患の頻度は高齢者においてもけっして少なくなく,むしろ加齢に伴って増加するとの疫学調査の結果も存在する.それでも治験の対象外となった高齢者には投与すべきではないと考えるのであろうか.これまでのように,「使用上の注意」のなかに「高齢者においては生理機能が低下しているので慎重に投与すること,または過量にならないよう注意すること」などと簡単に記載するだけでは不十分であり,高齢者独自の薬効評価のガイドラインを構築していくことが必要なのではないだろうか.
 話はかわるが,昨年,久しぶりにヴァイオリニスト,アイザック・スターンの演奏に接することができた.曲はブルッフのヴァイオリン協奏曲第一番,デイヴィッド・ジンマン指揮,ボルティモア交響楽団との共演であった.意欲的でかつロマンティックな名演であったが,最も印象的であったことは,スターン氏が,演奏の合間に何回もオーケストラのメンバーと目線を合わせ,ほほえみを交わしながら演奏を続けたことであった.まさに音楽の喜びを象徴するようなシーンであった.一般に音楽家,なかでも指揮者は長命であるといわれ,80歳を越えても現役として活躍されている方も多い.しかし,自分で音をださない指揮者とは異なり,音をださなければならない演奏家にとって,加齢の影響はわれわれが考える以上に過酷なものに思えてならない.「ひびの入った骨董品」と酷評された往年の名ピアニストのことはまだ記憶に新しい.にもかかわらず,あのスターン氏の笑顔と聴衆に与えた感動は,芸術がわれわれになにをもたらしてくれるのかを物語っていると思う.
 アイザック・スターン氏は,1920年,旧ソ連に生まれた.彼もまた後期高齢者である.
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1998/3 老年精神医学雑誌Vol.9 No.3
神経精神医学と精神神経医学
地引逸亀
金沢医科大学神経精神医学教室教授
 筆者は,入局して間もない若いころから「てんかん」や神経心理学に興味をもち,「CO中毒の神経心理学的症状に関する研究」で学位をとり,現在も,てんかんを専門分野としている関係からか,精神科医としては神経学に対する関心は強いほうではないかと思っている.昨年の4月から鳥居方策前教授のあとを受けて教室を主宰しているが,当大学では大学病院の増改築を来年度から始めることになり,診療体制も一新するにあたり,最近,標榜化名の見直しを問われることがあった.当教室も筆者の出身校である金沢大学医学部も,教室または講座名は従来から「神経精神医学」であり,診療科名は「神経科精神科」としている.そこで従来どおりとすればよいことではあったが,近年,精神科領域における神経疾患離れの傾向もあり,精神疾患の診療を前面にだす意味もあって診療科名を「精神神経科」とかえ,講座名も「精神神経医学」としたほうがほいのではないかと思う機会があった.周囲にも諮り,結局は教室の伝統を重んじて従来どおりとしたが,その際少し考えた「神経精神医学」か「精神神経医学」かという問題についての感想を述べてこの巻頭言の責を果たしたいと思う.
 『医育機関名簿1996-'97』から全国の大学医学部および医科大学77の教室名または講座名を調べてみると,「精神医学」が最も多く34校(ただし正確にはこのなかで「精神科学」という名称を用いている大学が6校あった),次いで「神経精神医学」が24校(まれに「精神神経科学」),「精神神経医学」が18校(まれに「精神神経科学」),その他が1校(京都大学で大学院医学研究科としての名称を使用)であった.正確に調べる時間がないが,教科書についても一般に「○○精神医学」のような名称が多く,「神経精神医学」という名称を使っているものは少ないと思われる.秋元波留夫,山口成良両先生が編集され,筆者を含めた北陸地区の研究者の執筆による教科書は「神経精神医学」というタイトルであり,その数少ないもののひとつである.このタイトルを用いた理由をその教科書の第一章に秋元波留夫先生が書いておられるので一部引用すると,「一般に用いられている精神医学に代えて神経精神医学という表現を本書で用いたのは,精神・心が神経系の最高次機能であり,精神障害はその形態的あるいは機能的異常もしくは発達障害であるとする立場を鮮明にするためである」とされている.精神の主座が脳(正確には中枢神経系)にあり,精神と神経が不可分の関係にあることは自明のことである.したがって,精神医学は脳の形態や機能を基盤として精神障害の病態を研究する学問であることはいうまでもない.このことは,精神分析学や精神病理学のように現段階では脳の生物学的過程からの説明が不可能な領域で活躍する人びとも容認していることと思われる.この意味では教室または講座の標榜名は,ことさら神経の2文字をつける必要はなく,「精神医学」で十分であるという理由も十分に成り立つ.「精神神経医学」も同様の立場に立つものと思われるので,結局,「精神医学」「神経精神医学」「精神神経医学」のいずれも立場は同じであり,したがって標榜名はこれらのどれでもよいように思われる.ただし,「神経精神医学」という場合は脳または神経が精神医学の基盤であることをより強調し,また「精神神経医学」という場合はそのような基盤を重視しながらも,精神または心をより強調したいということであろうか.もっとも,「精神神経医学」についてはそれを標榜する教室の主宰者に聞いてみないと本当のところはわからない.
 一方,上述の精神医学を扱う場の立場とは別に,標榜名でとくに神経がつく場合,狭い意味の神経学を指すこともあると思われる.外国誌でしばしばDepartment of Neurology and Psychiatryと標記されているようにである(あるいは逆にPsychiatry and Neurologyのこともある).周知のように現在,神経学は神経内科を中心におおいに発展しつつある.筆者が入局したころは神経内科の教室をもった大学はまれで,金沢大学にもなく,多発性硬化症や脊髄小脳変性症,筋委縮性側索硬化症などの入院患者をしばしば精神科で扱い,受け持たされたものである.現在では精神医学と神経学の分化が著しく進み,そのような患者を精神科でみることはまずない.冒頭に述べた,てんかんや神経心理学も,筆者の入局時代は精神科がそれらの診療や研究のメッカであったが,現在では学際化が進み,神経内科,小児神経科,脳神経外科などで多くみられるようになり,どちらかというと精神医学よりも神経学で扱われるようになりつつある.「神経精神医学」あるいは「精神神経医学」の神経の2文字は,精神医学の立場といった高邁な意味よりもむしろ具体的に,そのような神経学も包括していた従来の精神科領域の伝統を堅持し,てんかんや失語症などの神経心理学,痴呆疾患などの神経学との境界領域の疾患の診療もおおいに扱うことを意味する場合も少なくないのかもしれない.
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1998/2 老年精神医学雑誌Vol.9 No.2
老年精神医学と画像診断
川勝 忍
山形大学医学部精神神経科
 老年期の精神障害では,加齢による変化を含めた脳の器質的障害が背景にあることが多く,したがってその症状を画像診断により把握することは診断や治療を考えるうえで参考になる.画像診断にはCTやMRIによる形態画像とSPECTやPETによる機能画像がある.
 MRIは,虚血性病変に対して非常に感度が高く,「見えすぎる」ために,いわゆる無症候性脳梗塞を含めて,虚血性病変がどの程度臨床症状と関係しているのかを判断する必要が生じる.たとえば,臨床的にアルツハイマー型老年痴呆と診断した例でMRIを撮ってみると,放射線科医の見解では多発性脳梗塞とされることが多い.萎縮性変化については,加齢による変化か病的な変化か,判断しにくい場合が多いので,せいぜい軽度の脳萎縮があるという程度の見解にとどまる.このコメント自体は非常に的確なものであるが,それを判断する側は画像所見と臨床症状との対応を吟味して判断する必要がある.筆者は非常勤で老人保健施設での診察も行っているが,そこに紹介されてくる患者では,どこそこでMRIを撮って多発性脳梗塞があったとの理由により,脳血管性痴呆と診断されている例をまれならず見かける.脳血管性痴呆の何割かは,over diagnosisされている可能性があるように思われる.
 このような問題は痴呆の鑑別診断だけでなく,痴呆と機能性の精神障害の鑑別の際にも,落とし穴となる場合がある.嫁姑のいさかいが原因で興奮状態を呈した70歳代の女性患者は,それ以前から軽いもの忘れがあったことから,ぼけてきたと思い込んだ家族に連れられてある精神病院に入院した.入院時は興奮状態にあり,応答が支離滅裂で十分な問診はできなかったようであった.「(MRIで)脳梗塞がたくさんあり,今後ますますぼけはひどくなり治らないだろう」と説明されていったん退院し,老人保健施設が紹介された.まわりからぼけ扱いされて,ますます興奮した患者は,筆者が勤務する病院の救急部を受診して入院となった.入院翌日,落ち着いたところで診察してみると,明らかな痴呆は認められず,その後の経過でも痴呆はないと判断された.このように,MRIで著明な所見があると,すぐにそれと精神症状を結びつけてしまいがちである.画像診断が進歩すると,われわれが得られる情報は増えるが,その情報を適切に取捨選択するためには,より詳細な臨床的観察が不可欠である.
 SPECTのような機能画像は,形態画像と臨床症状のズレの一部を埋めてくれる.筆者らの病院では,13年まえに島津のHEADTOME IIが試作機として導入された.ちょうど筆者が入局した年で,十束支朗前教授から,精神科領域の疾患について放射線科と共同して検討するように指示された.アルツハイマー病の場合,当時,PETで側頭頭頂葉の局所脳血流量が低下している画像が見られて驚いたものであった.それまでアルツハイマー病では,いわゆる巣症状を呈するが,CTでは(よく検討すると中等症以上では側脳室後角の拡大が強い例が多いが)びまん性脳萎縮がみられるとされていた.しかしSPECTでは,巣症状と非常によく一致し,一部の例ではごく軽微な巣症状でも局所脳血流量低下がみられた.一方,アルツハイマー型老年痴呆で,多弁,多幸的で,記銘力障害だけが強く,活動性が高い例では,全脳平均の脳血流量はほとんど低下していなかった.平均脳血流量については,日常生活の活動性が影響することは,病院全体で非痴呆例を検討してみると外来患者より入院患者でやや低いことからも支持された.また,心因性の精神障害で長期に痴呆様の状態を呈した60歳代の患者で,初診時には全体的に脳血流量が著明に低下していたものが回復後には正常に戻り,以前の脳機能の状態はまるで冬眠でもしているようであった例も経験した.
 筆者らはこれまで,133Xe吸入法によるSPECTで,脳血流量の定量性という点を重視してきた.ここ数年は,汎用性の点から99mTc製剤が普及しており,SPECTというと99mTc製剤による検討が主流になってきているが,これらのトレーサーは,その集積機序が不明で,かならずしも脳血流量だけを反映するものではないこと,脳血流量画像としてみた場合,133Xeよりもやや感度が低く,とくに機能性精神障害の場合,変化を検出しにくい傾向があると思われる.
 老人保健施設での経験から,老年期の精神障害のリハビリの計画や予後を考えるうえでも画像診断は必要と思われるにもかかわらず,現行の制度では,画像診断を含めた診療情報の有効利用の考えが欠如していると考えられる.今後,電子カルテの普及や情報ネットワークにのせやすいかたちの画像診断のあり方を画像機器メーカーも含めて考えてほしいと要望する.
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1998/1 老年精神医学雑誌Vol.9 No.1
“EQ”のすすめ
鹿島晴雄
慶應義塾大学医学部精神神経科学教室助教授
 最近,EQという言葉をよく耳にする.1995年にアメリカで,Daniel Golemanの“Emotional Intelligence”という本が出版された.「人生で成功しうる,本当の意味で聡明な人であるためには,知能(IQ)が高いことよりも,自分の気持ちを識り,コントロールし,他人の気持ちを思いやる能力がより重要である」という内容の本で,発売後36週間連続ベストセラーとなった.Goleman自身はそのような言葉は使っていないが,雑誌TIMEが同書の特集を組み,そのなかでEQという言葉を用いて紹介して以後,一種の流行語となったとのことである.著者自身,EQという言葉を認め,日本語版の題名を「EQこころの知能指数」とすることを諒解したと,訳者の後書きにある.邦訳の出版以来,わが国でもEQということが言われ,先日の新聞には,某人材派遣会社が企業の採用試験などのために「こころの知能指数(EQ)」を判定する「EQ能力診断テスト」を開発したことがのっている.Golemanの本は情動に関するニューロサイエンスの知見等を引用し,うまくまとめて書かれているが,内容は邦訳版の著書の前書きにもあるように「日本的心情」に通ずる部分が多く,一読,逆輸入といった印象をもった.
 しかし,ここで提案したい“EQ”とは,「こころの知能指数」のことではない.「こころの知能指数」であるEQはEmotion Quotientの略といえようが,ここでいうのはExecution Quotientの“EQ”であり,“遂行機能指数”とでも訳すべきものである.遂行機能(executive function)とは,神経心理学で最近しばしば使われる用語で,実行機能とも訳される.遂行機能をはじめて明確に定義したMuriel D.Lezakによれば,遂行機能とは認知機能に対する用語で,目的をもった一連の活動を効果的に行うために必要な機能であり,有目的な行為をいかに行いうるかで評価さえるものである.人間が社会的,自立的,創造的な活動を行う際に不可欠の機能であり,目標の設定,計画の立案,目標に向かって計画を実行すること,効果的に行動を遂行することなどの要素からなる.遂行機能が障害されると,行動を開始することの困難や発動性の低下,ある認知過程や行動から他への転換の障害,すなわち保続や固着,また行動の維持がむずかしく行為が中断したり,逆に行動を中止しえず,衝動性や脱抑制を示したり,さらには誤った行動を修正しえず,具象的行動に陥るなど,さまざまな障害が生じる.
 このように人間の社会生活上のきわめて重要な機能であるにもかかわらず,遂行機能を十分に評価しうる神経心理学的バッテリーは開発されていない.それは遂行機能が前頭前野機能と密接な関連をもっているためである.WAIS-Rに代表される多くの標準知能検査でのIQが,より後部脳の機能(認知機能)を反映するものであることは,Wechslerがすでに原著で強調している.遂行機能はIQでははかれないのである.遂行機能,すなわち“EQ”をはかるにはより前部脳(前頭葉)の機能を評価しうる神経心理学的検査バッテリーが必要である.IQが高くても“EQ”が低ければ,前述したさまざまな行動障害のために社会生活に困難が生じる.前頭葉損傷者のなかにはまさにそのような方がいる.遂行機能障害のため職場や家庭で種々の支障があり,障害等級認定のための診断書を書こうにもそれを評価する検査がない.脳障害により社会生活上の重大な支障が生じているにもかかわらずである.遂行機能,すなわち“EQ”の評価バッテリーが必要なゆえんである.
 1996年にイギリスのBarbara Wilsonらは,遂行機能障害により生じるさまざまな日常生活上の問題行動を評価する検査バッテリーとして,The Behavioural Assessment of the Dysexecutive Syndrome(BADS)を開発した.BADSにはカードや道具を使って行う6つの課題と遂行機能障害質問紙がある.6つの課題とは,Rule Shift Cards Test,Action Program Test,Key Search Test,Temporal Judgemest Test,Zoo Map Test,Modified Six Elements Testで,それぞれ前頭葉機能と関連が深く,規則の変換や行為の組み立てと計画,また課題遂行上の方略,判断などに関するものである.6課題の達成度とその所要時間を0〜4点で評価し(24点満点),損傷の局在よりも,機能に着目した定量的評価に重点がおかれている.
 筆者らは現在,BADSの日本語版を作成中である.BADSには“EQ”はないが,今後,多数の健常者に施行して各年齢層の正常値を決め,それを100とした%表示の年齢層別の“EQ”評価表を作成するべく検討中である.
 社会の高齢化につれ,脳血管障害による前頭葉をはじめとするさまざまな脳領域の損傷はますます増加している.遂行機能障害の評価法の開発は焦眉の問題といえよう.IQと“EQ”の両者を比較することで,社会生活上の行動も視野に入れた,より全般的でバランスのとれた脳機能障害の評価が可能となろう.筆者らが“EQ”を提唱したのは,「脳と精神の医学」の次号掲載論文と昨年12月の失語症学会での発表においてである.「こころの知能指数」としてのEQに遅れること2年である.しかし“EQ”という用語は捨て難く,さしあたりは“ ”つきの“EQ”としておこうと思っている.よい用語がありましたらご教示頂ければ幸甚です.
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