1997/12 老年精神医学雑誌Vol.8 No.12
嘱望されるジェロントロジスト
新貝憲利
成増厚生病院院長
近年の我が国の老年精神医学の歴史を語るとき,その始まりは昭和29年の精神神経学会で「老人の精神障害」というテーマでシンポジウムがもたれたときであろう.新福尚武,金子仁カ,猪瀬正の諸先生が,「老人の精神病理」「老人の心理」「老人の脳病理」をそれぞれ分担発表された.その講演内容はいま読んでも十分に通用するものであり,以後多くの研究論文に引用されている.その後,老年精神医学的研究,とりわけ痴呆性疾患に関する研究が促進された.
また昭和40年代後半ころより前出の諸先生方を中心とした研究チームから活発な研究が報告された.痴呆性疾患のなかでもとりわけ脳血管性痴呆(vascular dementia)の研究がさかんに行われ,精神病理学,脳病理学,診断学,そして生理学的研究が主として報告された.
そして昭和50年代後半より老年精神医学を志す研究者が増えるとともに,多発梗塞性痴呆(multi-infarct dementia)のみならず,アルツハイマー病(Alzheimer's disease)に関する画像診断学,免疫学,そして遺伝学的研究が次々と報告され,現在に至っている.
昭和40年代後半ころより高齢者人口の増加の問題はようやく話題にのぼり始めたが実感はあまりわいてこなかった.当時を振り返ってみよう.ちなみに昭和48年と現在を比較すると,平均寿命では男性70.7歳,女性76.0歳であり,約7歳の差がある.総人口に対する65歳以上の高齢者人口比率は約7.7%であり,現在の約半分にしかすぎなかった.さらに老人医療費に関しては4289億円であり,現在の約1/20であった.また現在では総医療費の約1/3が老人医療費で占められているが,約12%にすぎなかった.
痴呆患者は精神科病院,老人病院,そして数少ない特別養護老人ホームにわずかに入所していただけで大半は在宅であったと思われる.このような状況であり,老人医療,なかでもとりわけ重要である痴呆性疾患に関する医療,そして社会経済学,医療経済学的研究はほとんどなされていなかった.そのため痴呆性疾患に対する対策は遅れたと思われる.痴呆性疾患に関しての医療および療養施設の検討は,現在においてさえ十分に行われているとはいえず,その対策はいまだに遅れている.
昭和57年に老人保健法が施行され,61年には老人保健法の改正があり老人保健施設が創設された.さらに平成元年に「ゴールドプラン」が,5年にはその改訂版である「ニューゴールドプラン」が策定された.しかしながら,痴呆性疾患に関しての対策は明確ではない.さらに現在国会で審議中の介護保険についても,最も国民の関心を集めていると思われる痴呆性疾患の対策はいまだ不明瞭で,ほとんど進んでいない状態である.
平成8年の調査では,65歳以上の高齢者人口は約1900万人に達している.痴呆性疾患の罹患率を少なく見積もって4%とすると,約76万人が罹患していることになる.厚生省の推計では,現在寝たきりでない要介護の痴呆性老人は約15万人,寝たきり老人は約105万人,虚弱老人は約115万人いるとされている.そして,これらの総計が介護保険の対象に想定されている.問題視しなければならないのは寝たきりでない要介護の痴呆性老人であり,現在の約15万人が2000年には約20万人になるとされている.現在,そのうちの20%が施設入所ではないと思われる.
高齢者全体の住居状況に関しては,平成5年の調査では全体の約94%は在宅であり,その数は1585万人,施設入所は105万人であった.そのうち痴呆性疾患に関係のあるおもな施設入所者数については,特別養護老人ホーム19万人,老人保健施設7万人,病院69万人(長期28万人,短期41万人)であった.しかし,このなかの痴呆性疾患患者数は多く見積もっても25万人であり,痴呆性疾患患者全体の約1/3を占めるにすぎない.残りは在宅介護されていることになる.介護保険適応の痴呆性疾患患者を受け入れる施設は,特別養護老人ホーム,老人保健施設,老人性痴呆疾患療養病棟,グループホームとなっている.その処遇に関しても,どこで,だれが,どのように認定するかははっきりしていない.
今後,高齢者人口の増加とともに痴呆性疾患はさらに増加が予想されるが,どのようにケアしていくのか,その対策はほとんど検討されていない.そして痴呆性疾患の正確な診断,評価認定,さらにケアプランをたてられる精神科医はほんのわずかしかいないと思われる.老年精神医学を専門とする精神科医が増えることを期待している.
1997/11 老年精神医学雑誌Vol.8 No.11
メメント・モリ(死を記憶せよ)
木下利彦
関西医科大学精神神経科学教室教授
本原稿の依頼を受け,なにを書くべきか迷った挙句,次ページに掲げた1枚の絵(※一番下)を思い出した.あまり有名ではない小さい作品である.作者はハンス・バルドゥング・グリーンという,デュラーのもとで修業を積んだ人である.タイトルは「人生の3段階と死」で,1510年ころの作品である.この絵との最初の出会いは,美術評論家の若桑みどり氏のイコノロジー(iconology,図像解釈学)に関する著作においてであり,その後ウィーンの美術史美術館で実物を見る機会を得た.ご存知の方も多数おられるであろうが,美術史美術館はかつてのハプスブルグ家の芸術コレクションを展示した世界有数の美術館である.ブリューゲル,デュラー,ルーベンス,ティツィアーノなどの作品がとくに著名である.そのなかで,この絵は片隅にひっそりと展示されている.多分,美術館へ行かれてもこの絵のことを覚えておられる方は非常に少ないと思われる.かくいう筆者も若桑氏の著作に出会わなければ,見過ごしていたであろう.
なぜこの絵にこだわったかというと,避けることのできない死,「メメント・モリ(死を記憶せよ)」がこの絵のテーマであるからである.うら若き美貌の乙女が鏡に自身の姿を映し,見とれている.その後ろにはまだ骸骨にはなりきっていない腐敗中の死体が砂時計を持って立っており,乙女がまとっているヴェールの裾をつかんでいる.乙女にはその骸骨の姿がまったく視界にはいっていない.しかし乙女の向かって左側の老婆は,骸骨を凝視している.さらに未熟な幼年期を示す左下の子供は,すべての出来事をまだヴェールを通して漠然と眺めている.骸骨は言うまでもなく「死」の,砂時計は「人の一生」の寓意である.鏡,髪をすく行為,化粧はすべて「虚栄」を表している.うら若き乙女は,自分の美しさが未来永劫続くかのように思っているが,若さは一瞬であり,いずれは老い,さらに「死」を迎えなければならない.人生の諸段階と避けることのできない「死」が象徴的に描かれている秀作である.
「老い」「死」を現代人は,なにか特別なもの,直視したくないものととらえているのではないだろうか.「老い」を特別な場所に収容し,そこで「死」を迎える.養老孟司氏が昨年の第11回日本老年精神医学会で講演されたときに,人の一生にも四季がある.とくに都会には「死」を人工的に隔離し,人目につかないようにして葬り去る傾向が強く,非常に不自然なことであると述べられたことを思い出す.生から死への自然で避けることのできないプロセスをもう一度,現代人はしかと認識するべきではないか.大昔から,人間は「死」を真正面から受け入れてきた,いや受け入れざるをえなかったのである.このことをこの1枚の作品は語っている.
絵画は見るものではなく読むものであり,そこに隠されている数々の寓意を読み明かす学問領域が,イコノロジーといわれるものである.たとえば,皿の上に果物をのせた静物画を見ることが多いが,果物は快楽の寓意で,必ずといってよいほど果物に傷がついている.これは快楽が一時的なものであることを表現している.また,皿のテーブルにおける位置にも注意してほしい.テーブルの端のいまにも落ちそうな位置に置かれている場合が多い.これも快楽のはかなさを表現しているのである.代表的な寓意を覚えれば,いままで漠然と見過ごしてきた静物画に作者のメッセージが数多く含まれていることがわかり,絵画鑑賞がよりいっそう楽しくなること請け合いである.最後に読者諸氏にイコノロジーに少しでも関心をもっていただけることを祈りつつ,筆を置く.
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1997/10 老年精神医学雑誌Vol.8 No.10
生物学的還元主義を補うもの
生地 新
山形大学医学部附属病院精神科神経科講師
老年精神医学の専門家のなかには,神経病理学や画像診断学,それに最近では分子生物学を手法とする人が多い.高齢者には,器質性の精神障害が多いためであろうと考えるのが常識的と思われる.しかし,それは本当なのであろうか.また,原因が器質的なものであるとしても,心理学的な研究,精神病理学的な研究も,もっと必要なのではないかと,筆者はあらためて考えている.医学を覆っている還元主義優位の風潮は,老年精神医学でも優位であるが,それでよいのであろうかとも思う.
筆者は,児童青年精神医学にもかかわっているが,この領域でも20年まえには,精神発達遅滞や小児自閉症が研究や臨床の中心課題であったし,還元主義的な研究が多かったように思う.神経症的な問題が臨床の主要な対象のひとつとなってきたのは,最近10年のことである.器質的な要因が大きく関与していると思われる小児自閉症でも,治療的なアプローチとしては,行動療法や認知発達治療といった方法を基礎とした持続的な治療教育が最も有効といわれている.こうした方法は,病気の症状とその背景にある中枢神経系の障害を丹念に調べていく作業のうえに成り立った実践的なアプローチなのである.作業仮説はあるが,単純な還元主義的な成因論はとっておらず,理論の基礎は心理学である.
中枢神経系は,いわゆる複雑系であり,線形的なふるまいを示すことは少なく,そのふるまいの異常が部分的な機能の亢進や低下で説明できることはまれである.われわれ精神医学者は,中枢神経系のふるまいに幻惑され,魅了されて,深みにはまっていく.しかし,その複雑系に挑むときに,還元主義的な方法論だけに頼ってばかりはいられないのではないだろうか.精神療法であれ,薬物療法であれ,そこでは「経験と勘」という,一見,あやしげなものが,,主役になるようにも思われる.日本精神衛生学会の企画による,土居健カ先生と村上陽一郎先生の対談で,土居先生が最後に,「臨床の知とは,勘だよ」という旨のことを言っておられた.土居先生の言葉が理解できない人のためには,熟練を要する複雑な仕事における勘の重要性を論理的に記述した本がある.この本が出版されたときに,筆者はわが意を得たりと思ったが,あるセミナーで中井久夫先生も引用しておられ,さらに勇気づけられた.その本とは,アスキー出版の『純粋人工知能批判』であるが,臨床の知について多くの示唆や連想を得ることができる良書である.
筆者自身は,老年精神医学において,疫学的な手法を専門としている.疫学も基本的には還元主義的な側面が強い.しかし,疫学の政策科学的な側面を強調されたのは,筆者の公衆衛生学の恩師である新井宏明先生(山形大学名誉教授)であった.先生が言わんとされたことは,いま流行の言葉を使えば,複雑系の科学ということであろうと思う.しかし,それを方法論とすることは,非常にむずかしい.多変量解析などを用いて,新井先生の教えをかたちにしようと思うのであるが,なかなか実現しない.あれこれ思っているうちに,もう人生もなかばに差しかかった.痴呆やうつ病の疫学の調査を通じて筆者に残ったものは,ごく常識的な研究結果と多くの高齢者に出会った経験だけののような気がする.経験の一部は,臨床的な勘を補正するものとして役立っていると思う.筆者は,痴呆の疫学調査で訪問した家で,「せん妄状態がひどくて,地域の精神病院へ行ったら,若い医者から『いま,病院は満員だし,はじめから入院と決めてこられても困る.入院が必要かどうかは医者の判断も必要だ』と言われたのであきらめた」という話を聞かされたことがある.その家の人は気づいていなかったが,その若い医者というのは筆者のことであった.このように,地域の側から病院をみる視点を少しではあるが,訪問調査で学ぶことができた.
一方,筆者の研究で得られた単なる常識ではない結果としては,地域における高齢者のうつ病やうつ状態の多くが,精神科医の治療を受けていないというデータがある.これは筆者と同僚の村岡の共同研究のデータであるが,大部分のうつ状態は,自然に,あるいは精神科以外の医師の力を借りて治っていくものらしいということがわかったのである.冒頭で述べた疑問に関連するが,このデータから,精神医療の敷居が低くなると,老年精神医学においても器質的障害から機能的障害へ患者層がシフトするのではないかと筆者は予測している.したがって,かりに痴呆患者が新しい施設に収容されても,機能的な精神障害の分野で老年期の精神科医療は生きて残っていけるのではないだろうか.いずれにしても,筆者は今後も調査と臨床を通じて臨床の勘を磨きたいと考えている.臨床的な勘の育成が,還元主義的な研究の進歩を支え,その欠点を陰で補うことになると思うのである.
1997/9 老年精神医学雑誌Vol.8 No.9
高齢社会に思う
佐藤 新
新潟大学医学部精神医学教室助教授
人が年齢を重ねると,主観的体験としての時間の進行は,若いときに比べてより速く感じられるもののようである.死が現実の問題となり,自身にとっての時間が限られていることを意識するからだけではなく,おそらく残された人生の時間に反比例して人間の視野は時間的な広がりを獲得するために,長い歴史的風景との間の相対的関係においても,自分に許されていた時間の短かさを実感するからなのではないだろうか.
昨年8月,わが国の65歳以上の高齢者人口は1891万人となり,人口1億2566万人に占める高齢化率は15.05%に達した.この時点をもって,わが国は高齢化社会から高齢社会にはいったといわれる.超高齢社会はまさに目前である.早稲田大学の嵯峨座晴夫氏によると,昨今,適齢期における未婚率の上昇(晩婚と非婚)や,少子化,人口構成の高齢化は,家族のあり方にも変化をもたらしており,結果として高齢夫婦世帯が増加し,高齢単身世帯と施設入所者が目にみえて増加の傾向にあるという,高齢社会に対応した社会的施策が急務であることは,ここであらためて述べるまでもない.
ところで,小津安二郎監督の映画に「東京物語」という作品がある.筆者がこの映画を知ったのは,ある公開講座で土居健カ先生がとりあげておられたからであるが,小津監督の最高傑作のひとつといわれる作品とのことであり,ご存じの方も多いであろう.老夫婦が長年暮らした尾道から上京し,おのおのが独立した生活を営む子どもたちを訪ねたときの人間模様を綴った映画である.
小津作品のなかには,かつての日本の血縁家族の絆が,崩壊を予感させながらも色濃く投影されているが,ライフサイクル論で知られるエリクソンがその著書のなかでもとりあげているイングマール・ベルイマン監督の映画「野いちご」になると,シュールレアリスムの手法をまじえて,個人主義的色彩がより鮮明に描写されている.妻を亡くした主人公の老医師は,メイドを雇い,家族と一緒には暮らしていないのである.
その国の風土,社会の史的局面,映画の舞台装置や表現技法が異なってはいるものの,この2つの作品は本質的な共通項を備えている.小津もベイルマンも,どちらも旅を進行役にしてストーリーの重層的な時間を進め,主人公たちに老年に至って自らの人生を振り返らせ,これまでの選択を反芻させ,過去の情緒的体験をたどらせながら現在の人間関係に交差させている.ちなみにこの手法は,痴呆に対する心理学的アプローチのひとつとして行われている回想法(reminiscence therapy)やライフ・レビューの原型である.1957年に公開された「野いちご」は,あたかも1953年公開の「東京物語」のその後を引き継ぐようにして製作されているかのように感じられるのであるが,はたしてベルイマンは小津作品を見ていたのであろうか.
「東京物語」のなかで原節子が演じた役割の一部分,すなわち俗にいう老いの繰り言を笑顔で聞いてくれる人の存在は,現代社会にあっては家族のなかに見いだすことがほとんどむずかしくなってしまったのかもしれない.わが国の社会環境のなかで,その役割が職業としてあらたに構築される必要性が生じてきたゆえんでもあろう.
血縁を軸とした家族システムの変化は,家族機能の分化・単機能化,外在化・社会化と表裏一体をなし,残念ながらこれまでのところは,人間的な関係成立のための生態的基盤を不安定なものにしてきているように思われる.しかし,家族の変貌はなにもいま急に始まったことではない.今日のように経済活動の単位が個人へと重心を移し,晩婚・非婚が日常化する以前には,夫婦を中心に据えた核家族化の段階があった.戦前までの直系家族制からはじきだされた青年たちは,戦後,都市へと流れて高度経済成長の担い手となった.少なくとも都市部では大家族がほぼ消失して核家族があたりまえの形態になったそのあとで,高齢夫婦世帯,高齢単身世帯が問題とされるようになり,単身生活の困難な高齢者は施設入所に頼らざるをえない状況が表面化したのである.
本誌の第8巻第4号(4月号)の巻頭言で,飯島節先生が,当初中間施設を目指した老人保健施設が収容型施設へ変貌してきていることを指摘しておられる.共働きの夫婦や残された単身高齢者のもとに,介護の必要な高齢者を戻そうとする努力の前には,個人の道徳的問題というよりも,むしろ社会システムの構造的な問題のほうが大きく立ちはだかっているように思う.すでに高齢社会は現実であり,超高齢化への歩みが速いことも事実である.わが国がこれからは黄昏へと傾斜することなく,成熟した豊かな社会へと向かうためには,血縁の希薄化の流れを無理にとめるのではなく,極端な医療化(medicalization)の道へと突き進むのでもなく,人間の多様性を認め,人が人として成長することが可能なゆるやかな絆の温かな社会を目指すべきなのではないかと考えている.
1997/8 老年精神医学雑誌Vol.8 No.8
ライフスタイルと老年精神医学
吉益文夫
和歌山県立医科大学神経精神医学教室教授
65歳以上の高齢者の死因の第1位は悪性新生物,第2位は心疾患,第3位は脳血管疾患で,これら三大成人病で60%以上を占める.さらに第4位の肺炎,気管支炎,第5位の老衰を加えると全体の75%以上となる.年齢階層別にみても,80歳以上では心疾患,脳血管疾患,肺気管支炎,悪性新生物,老衰の順となり,精神医学領域の自殺や精神障害はそれぞれ1%以下である.老年医学の大目標である三大成人病の原因,治療,予防を確立すれば,さらに平均余命の延長が推定される.精神医学は成人病の原因究明に寄与しうるのかどうか,ライフスタイルを鍵として私見を述べてみたい.
昨年末,厚生省は従来成人病と総称していた疾患群を生活習慣病と改めることを提唱した.この目的のひとつは,ライフスタイル(生活習慣)が疾患の原因に深く関与していることを強調することであると考えられる.虚血性心疾患の危険因子として,喫煙,肥満,運動不足,高脂血症,糖尿病がよく知られている.また長寿研究からも,健康と生活様式の関連が報告されている.ライフスタイルは狭義には食習慣,睡眠,運動習慣を意味し,広義には社会活動や生きがい,QOLを含めている.
アルコール摂取については,わが国では飲酒人口が多く,晩酌として習慣飲酒されている.最近では定年後に酒量が増えている.定年後の寂しさをアルコールにより癒すつもりが問題飲酒となり,いっそう家族や友人から離れ,孤独感を助長する結果となる.アルコール依存症は離脱症状と飲酒行動の逸脱によって診断され,その治療は解毒と並行して断酒目的の酒害教育を必要とする.しかし,離脱症状が軽い症例では,アルコール性臓器障害としての内科治療のみが行われ,断酒指導が欠如しがちである.入院を必要とするアルコール依存症では,慢性肝炎,膵炎だけでなく糖尿病,動脈硬化の合併症が多く,経過中の突然死もまれではない.あるアルコール専門病院での調査によると,男性入院患者では「喫煙1日20本以上」が70%,「睡眠障害」が67%,「コーヒーなどの多飲」が32%,「運動をしない」が29%と生活の乱れが顕著であるという.断酒率の低さは,習慣飲酒を改めることの困難さを物語っている.特筆されることは,自助グループ活動(断酒会,AA<Alcoholics Anonymous>)が断酒継続に有効とされていることである.酒害者本人がボランティアとして定期的に会合を開いて体験を語り,また,仲間の体験に耳を傾けることが基本活動である.
病の体験を語ることの重要性は近年,医療人類学の立場からも強調されている.慢性疾患において闘病生活は人生そのものであるケースもある.慢性の病をもつ患者や家族が自分の言葉で語る話は,同じ病に苦しむ孤独な患者や家族に希望を与え,闘病生活上の仲間意識を引き出す力となる.自助グループでの活動は専門家集団である医学医療とは若干距離があるが,ライフスタイルを変更する方法として有効であることに注目したい.
高齢者のライフスタイルについて,虚血性心疾患を有する患者の喫煙や飲酒をどのように指導するべきなのであろうか.患者の年齢が高齢になるほど,生活習慣の変更を求める声が弱くなると想像される.指導する側の医師自身のライフスタイルも影響を与える.日本の男性医師の喫煙率は一般人のそれより低いものの,アメリカの医師と比較すると高い.アメリカの医師の喫煙率はカリフォルニアでの調査によると,1950年の50%から1980年の10%へと激減した.幸いなことに,医師の禁煙成功率は世界的に高いといわれている.飲酒についての報告は少ないが,将来,寿命が延びて飲酒期間が延長すれば,習慣飲酒は健康に悪影響を及ぼすものと考えられる.睡眠障害も年齢依存的に増加するといわれている.
このようにライフスタイルを中心に考えても,神経精神疾患のいっそう広く深い専門知識が求められる.筆者は,ニューロンの老化とも関係の深い神経原線維変化の成因について研究を行ってきた.アルツハイマー病の中枢神経組織の微量元素分析結果より,アルミニウムの脳内異常動態が危険要因のひとつであると推定している。自然現象としての老化と思われていた変化も,このような種々の危険因子に左右されることがある.この分野はなお広大で未知なことが多く,今後の研究が待たれる.ライフスタイルの改善により寿命が100歳を超える可能性があると一部の識者は述べているが,遠からずその夢が実現される日がくるかもしれない.
1997/7 老年精神医学雑誌Vol.8 No.7
脳科学の時代
米田 博
大阪医科大学神経精神医学教室助教授
最近,アルツハイマー病,ハンチントン病などの遺伝性神経変性疾患を中心に原因遺伝子が相次いで発見されており,その成果には目を見張るものがある.分子遺伝学や分子生物学の急速な進展,とくに遺伝子操作技術の開発が,つい10年ほどまえまでは考えられなかったような成果をもたらしている.しかしながら,中枢神経の機能にはまだまだ解明されていない部分が多く,アメリカでは1990年代を「a decade of brain(脳の10年)」ととらえて,重点的に研究が推進されている.また,ヨーロッパでも同じように脳研究を推進しようとする動きがみられる.わが国でも昨年,科学技術庁の脳科学の推進に関する研究が,今後20年にわたる長期間の脳科学推進計画「脳科学の時代」プログラムを発表した.
この「脳科学の時代」プログラムでは,脳研究が大きく3つの領域,すなわち「脳を知る」「脳を守る」「脳を創る」に分けられ,それぞれの戦略目標がタイムテーブルに示されている.まず「脳を知る」では,脳の働きとして,知情意の脳の構造と機能やコミュニケーションの脳機能など高次脳機能の解明を目標に,たとえば5年後には知情意や記憶,学習の解明,20年後には言語,思考,知性の解明を目指している.「脳を守る」では脳の病気の克服を戦略目標として,脳の発達障害と老化の制御ならびに神経・精神障害の修復と予防の2つが大きな柱として掲げられている.具体的には,5年後にエイズ脳症やクロイツフェルト‐ヤコブ病,10年後にハンチントン病,15年後にアルツハイマー病やパーキンソン病,20年後に老化の制御と精神分裂病の克服が目標とされている.このなかには,病態の解明とともに当然ながら治療法さらに予防法の開発も含まれている.「脳を創る」では,脳型コンピュータの開発を戦略目標として,20年後には人の意図を理解し行動するロボットの開発を目指している.
老年精神医学は,まさに「脳科学の時代」プログラムの中心といってよい位置を占めている.とくに「脳を守る」は,老年精神医学が目標としているところである.たとえばアルツハイマー病は,現在までに4つの原因遺伝子,すなわち早期発症型家族性のタイプについてはプレセニリン‐1,2やアミロイド前駆体タンパク遺伝子の変異が明らかにされ,孤発例ではアポリポタンパクEが発症にかかわっていると考えられている.「脳科学の時代」プログラムのタイムテーブルに従うと,15年後にはその全容が解明され,治療や予防も可能となる.しかし,分子遺伝学的な研究で原因遺伝子が明らかにされたとしても,そこから知情意といった高次脳機能までいかに統合し理解されるのか,まだまだ道のりは遠いように思われる.
ちなみに,脳の機能を階層構造として考えてみると,まず基本的な分子としてDNAが存在し,DNAから転写・翻訳された機能性分子として神経伝達物質や受容体,神経栄養因子,細胞骨格タンパクなどがある.これらの機能性分子がシナプスの情報伝達,遺伝子の発現調節,神経可塑性,ニューロンネットワークなどの機能単位を形成し,さらに認知,記憶,学習などの高次機能をつかさどる.その上位に知情意,さらに「こころ」があると考えられる.
このような階層のなかで,分子遺伝学や分子生物学など最近のきわめて強力な研究手法を用いれば,機能単位のレベルまでは何とか到達できそうである.たとえばアルツハイマー病では,プレセニリンの塩基配列の突然変異(基本的な分子)や膜受容体と考えられる構造を示す変異遺伝子産物(機能性分子)が明らかにされている.さらに,機能性分子としての特徴や,いかに情報伝達にかかわっているのか(機能単位)についても,ここ数年で解明されるのではないかと思われる.しかしそれより上位の階層にたどり着くために,機能単位をいかに統合するのか,機能単位で得られたデータを総合すれば理解されうるのかは,きわめて重要な課題である.
「脳科学の時代」プログラムは,「脳」という人類最後のフロンティアともいわれる小宇宙を学際的に追及する巨大プロジェクトである.すでに多くの研究者が脳機能解明のための研究を精力的に行っているが,このプロジェクトによって研究にさらに弾みがつき,多くの成果が得られるものと期待される.しかし,「脳を知る,守る,創る」ということで本当に脳が理解できるのであろうか.少なくともこれら3つの領域を統合する作業が必要となるであろう.その際,DNAからこころまで,統合して理解しようとする老年精神医学に課せられた役割も大きいのではないだろうか.
1997/6 老年精神医学雑誌Vol.8 No.6
痴呆と脳循環代謝について考える
北村 伸
日本医科大学第二内科助教授
アルツハイマー病(Alzheimer's disease;AD)をはじめとする痴呆性疾患の診断や病態の把握に,SPECTやPETで測定された脳循環代謝所見が広く利用されている.筆者が脳循環の研究を始めたころは,投与されたトレーサーの洗い出しカーブから手で計算をして局所脳血流(rCBF)を求め,ただ数字のみを扱っていた.脳血流量(CBF)の測定を行っていた施設も少なく,研究対象も測定方法や脳血管障害が主体であったという印象をもっている.しかし現在では,CBFの分布をカラーイメージとして見ることができるのでわかりやすく,臨床に脳血流所見が利用されている.痴呆性疾患についてもSPECTやPETを用いた研究がさかんに行われているが,過去の測定法による検討結果と比べてなにが違ってきているのであろうか.
ヒトのCBFの定量は,1945年にKetyとSchmidtのN2O法によりはじめて可能になった.この方法や85Krを用いて測定されたものは全CBFであったが,痴呆患者では正常高齢者よりCBFが低下していることが1960年代のはじめにすでに報告されている.次いで,1960年代に開発された133Xe内頸動脈注入法により,内頸動脈領域のrCBFが測定できるようになった.この方法を用いて1970年には,初老期痴呆(65歳未満発症)や老年痴呆(65歳以上発症)で灰白質のCBFが低下していることが示されている.ADと脳血管性痴呆(vascular dementia;VD)の脳血流の違いも検討されているが,ADのほうがより血流が低下しているという報告とVDのほうがより低下しているという報告があり,痴呆の診断基準や分類が現在とは異なっていることが不一致の原因なのかもしれない.VDでは,痴呆の程度とCBFの値が相関していることはこの方法ですでに示されている.その後,より非侵襲的な133Xe吸入法が導入されると脳血流を測定する施設も増加し,ADについては頭頂部で血流低下が顕著で,末期になると前頭部に低下が認められることや,ピック病では前頭部の血流低下があること,そして多発梗塞性痴呆では左右差のある例や広範に低下している例などさまざまなものがあるということが1979年には報告されている.これらは現在,PETやSPECTで示されている各痴呆性疾患の特徴的な脳血流低下パターンと一致する結果である.現在の脳循環代謝測定法を過去の測定法と比較すると,局所の値をより正確に測定でき,イメージとしてとらえることができるという大きな違いはあるが,明らかにされた脳血流所見の多くはすでに過去の検討結果でも示されていたことが多い.
CBFの低下や血管反応性の低下などを検出することは,VDにおいてはその原因を明らかにして,治療に結びつく可能性がある.しかしADについては,脳循環代謝測定は診断根拠の一助になるかもしれないが,病気の本質に迫ることはできない.いま,PETやSPECTによる脳循環代謝測定が,ADの治療において果たせる役割はどのようなものなのであろうか.
ADをできるかぎり早期に診断することができれば,治療の可能性は大きくなる.しかし,ADの極早期は,加齢によるもの忘れとの鑑別が困難である.Age-Associated Memory Impairment(AAMI)という概念があるが,このなかの正常な例とADとを鑑別できれば,早期診断につながっていくはずである.MRIで海馬の体積を測定して萎縮所見をとらえる試みもなされているが,測定は容易ではなく,形態学的変化より機能的変化のほうがさきに検出される可能性がある.したがって,PETやSPECTによる脳循環代謝測定が有用であると考えられる.早期のADでは,側頭葉外側面や内側面,そして頭頂葉外側面などで脳循環代謝が低下することが報告されているが,この所見は臨床的にADと明らかに診断することのできる例についての特徴であって,加齢によるもの忘れとのできるかぎり早期の鑑別という意味からは満足できない.脳循環代謝測定をADの極早期の診断に役立てるためには,多数のいわゆるAAMI例について継時的に測定を行い,正常な加齢の変化とAD患者の違いがどこに現れるかを明らかにしていくことが1つの方法であると考えられる.そのためには,脳循環代謝の測定が可能な多施設が協力して,同様のプロトコールで多数例についてprospectiveに検討しなければ十分な結果は得られないのではないであろうか.
脳循環代謝を測定できる多くの施設がそれぞれ独自の研究をするだけでなく,1つの研究を協同で行ったり,研究範囲を施設ごとにうまく振り分けることができれば,もっと臨床に役立つような結果が得られるのではないかと感じている.
1997/5 老年精神医学雑誌Vol.8 No.5
老年精神医学の存在理由
朝田 隆
国立精神・神経センター武蔵病院老年精神科
わが国でも欧米でも近年の医療・福祉制度の改革により,病院で長期療養し臨終を迎える痴呆患者は激減しつつある.先日,このことで縦断的な臨床観察に基づく痴呆症の臨床病理学研究が,いままで以上に困難になることを憂慮したイギリスの学術雑誌の巻頭言を読んだ.こうした学術的な立場とは異なり,筆者には老年精神科の臨床活動がいまのままなら,はたして今後も必要とされるのであろうかという思いがある.
高齢者の福祉・医療にかかわる厚生官僚の間で,「介護保険の制定は,残り少ない20世紀においてわれわれにとって最後のクリエイティブな仕事だ」といわれているという.介護保険を持ち出すまでもなく,ゴールドプラン,新ゴールドプランなどに基づく高齢者の医療・福祉・保健制度の過去10年間における急速な充実ぶりは刮目に値するものであった.この結果,痴呆性疾患の患者を入院させると退院のタイミングがつかめず,どうしても長期入院となり次の受入先を見つけるのに苦労したこともいまは昔となった.
老朽化した国立病院の老年精神科病棟で働く筆者などは,次々にオープンする老人保健施設,特別養護老人ホームなどを訪れると,まずその豪華な建築ぶりに圧倒される.「いやいや見かけ倒しでケア内容などは……」と思っても,少なからぬ職員が使命感とモラールをもって高齢化社会の象徴たる施設で働く姿を見ると,その思いはすぐに覆されてしまう.とくに痴呆老人のケアに創意・工夫をこらしているスタッフに接したときなどは頭が下がる.翻って我が身は,と考えざるをえないことが少なくない.患者の家族にもこうした施設の評判は概して良好のようである.
筆者らの病棟を出て施設に移る際に,「また定期的にみてください,よい治療法やケアがあったら教えてください」と言う家族はままある.しかし,実際にまた来られる方はまれで,時には「先生の病院にいてもいまの施設でも同じよ」とか,「身内がね,精神病院よりはいまの施設がいいって言ってね」などの手厳しい意見も聞かれる.
つまり,過去にわれわれが指導的役割を果たしたこともあってケアは目に見えて充実したのに比べて,本家たる老年精神医学・医療はこの間さほど進展しなかったといえるのかもしれない.したがって今後,老年精神医学・医療を専門にする者にとって,時代は転換期にさしかかりつつあるように思われる.まずなによりも,あらたな方向性と戦略をもって高齢化社会に寄与する姿勢が求められるであろう.
それでは具体的にはなにが求められるのか.痴呆患者の臨床における日常経験から述べる.まずケアの基礎としての医学・医療という次元では,危険性を予測し,倫理的に健全な予防を講じることが最重要と考える.換言すれば,いかにして安全を守りつつ活性化するかという課題である.
筆者自身は従来,転倒・転落事故が多いことに注目し,こうした事故が起こりやすいステージや心身の状態,環境があることに気づいた.ではどのように対応すればよいのかということになると,実践は容易ではない.末期の患者では,嚥下障害が顕在化して経管栄養が必要になり,嚥下性肺炎や窒息が問題となる.最近のLancetで,経鼻チューブの安全性がレビューされていたが,経管栄養を開始すべき状態や胃瘻適用の診断基準などは,いますぐにも知りたいことである.また,暴力は各種の問題行動のなかでも,病院・施設では最も嫌われがちだが,この暴力ひとつとっても発生背景はさまざまである.こうした問題の実際的な評価手順や対応のマニュアルがぜひほしい.
こうしたことを考えると,必然的に「許容しうる抑制とは」という課題に直面する.これに対する回答は,おもに老年精神医学の臨床にかかわる者の責任でなされるべきであると考える.
医学の面からは,倫理性を十二分に考慮したうえで将来の解明に備えて遺伝子を蓄積するなど,臨床遺伝学的な日々の努力が必要である.神経放射線学的手段などをあわせた正確な診断,除外診断,診断の亜分類がもとより基盤となる.また,各種の痴呆性疾患のリスクファクター候補をルーチンとしてチェックし,さまざまな遺伝子的背景に呼応した個別的なリスクファクターを明らかにしていく,予防を目指した臨床遺伝疫学的な知見の蓄積も重要である.これらの面に貢献しうるのは,臨床医以外にはない.
以上に述べたことは,いずれも単調で地道なものかもしれない.しかし,小さな改善・貢献をおおいに喜び・励みとするところから創造的な仕事が生まれるものと信じる.
1997/4 老年精神医学雑誌Vol.8 No.4
在宅介護と施設介護
――老人保健施設における経験を通じて――
飯島 節
国際医療福祉大学保健学部教授,老人保健施設マロニエ苑施設長
住み慣れた自宅で愛する家族に囲まれて生活することが幸福な老後であると考えられている.したがって,痴呆や身体障害などのために介護が必要となっても自宅で療養を続けることが望ましいとされ,政策的に在宅介護の促進がはかられている.
老人保健施設制度は,「リハビリテーションや看護・介護を必要とする寝たきり老人等」を対象にして医療機関から家庭への復帰を促進するため,中間施設あるいは通過型施設として発足した.昨年の診療報酬改定ではこの家庭復帰を支援する機能を評価する意味で,施設療養費に逓減性が導入された.すなわち,入所後6か月以内の施設療養費を増額する一方,1年以上の療養費は大幅に減額された.この改訂の結果,多くの施設で減収となり,施設関係者の間に強い不満が生じた.ここで明らかになったことは,当初中間施設を目指した老人保健施設が収容型施設へと変貌しているという実態である.
この実態は施設利用者の入退所経路をみると,さらによくわかる.厚生省による平成7年の老人保健施設調査によれば,ショートステイを除いた施設退所者全体のうち家庭へ復帰できた者はわずか46.4%にすぎない.これは入所経路のうちで「家庭から」の占める割合(54.0%)より明らかに少ない.もともと家庭から入所した者に限ってみても,家庭に復帰できた者は63.0%にすぎず,残りは医療機関や社会福祉施設への退所となっている.逆に医療機関からの入所者についてみると,その過半数(54.1%)は医療機関へ逆戻りしており,家庭へ復帰できた者はわずか27.4%にすぎない.つまり,老人保健施設利用者の流れは,当初の目論見とは逆に,家庭から入所し医療機関や社会福祉施設へと対処する方向へ傾いており,そのどちらにも移動できない老人が施設に滞留するようになっているのである.
老人保健施設では家庭復帰を促進するために,ケアプランの策定や経路判定会議を通じて家庭復帰の方策を練り,家族に対して退所指導を行っている.家庭への復帰が進まないのは,この施設側の努力が不足しているからというのが国の指摘である.しかし実際に現場で経験するのは,老人の要介護度と家族の介護能力とを比較したときどうみても在宅介護は不可能と考えられるケースばかりであり,家族の大半が入所継続を強く希望しているという現実である.入所者本人にしても「死ぬまでここにおいてほしい」とすがりつく者さえいる.そのような状況下で強引な退所指導を行うと,家庭に帰ってすぐ寝たきりになってしまったり,いつの間にか他の施設へ入所していたりすることのになる.
こうした実態を少しでも改善するために,ホームヘルプ,訪問看護,デイケア,ショートステイなどの充実がはかられている.これらはいずれも在宅介護者の大きな支えになるが,計画通りに実現したとしても家族の過大な負担をすべて解消するのは困難である.本当に十分な在宅介護支援を実現するには現在の計画の数倍の規模が必要であり,在宅介護はけっして低コストではないことを認識しなくてはならない.
すべての老人にとって,自宅で生活することが最善であるのかについても検討の余地がある.現代では自宅とはいっても老人のために十分なスペースが確保されているとは限らない.健常人にとってさえ劣悪なわが国の住宅環境のもとでは,障害をもった老人が人間らしく生活することは非常に困難である.また,自宅とはいっても住み慣れた場所とは限らず,郷里を遠く離れて都会に住む息子と同居するしかないこともある.一方,たとえ実の親子でもいつも仲がよいとは限らず,まして義理の家族の場合には精神的ストレスも無視できない.さらに,痴呆が進行して家族の顔や自分の居場所さえもわからなくなった老人にとっては,どうしても在宅でなければならない理由は乏しい.
昨今,マスコミでは献身的な家族による老人介護の実例がしばしば紹介される.そうした美談の一方で,事情があって老人を施設に預けた家族は「親不孝者」という陰口に耐えなければならない.しかし,現実の老人介護には理想論や道徳論では解決できない厳しさがある.老人保健施設の実態からも明らかなように,介護を一律に家族に押しつけることには無理があり,またそれで老人が幸せになれるとも限らない.もちろん在宅介護を希望する者に対するより一層の支援が必要であることは言うまでもないが,在宅一辺倒になることには問題がある.在宅介護も施設介護も同列の選択肢としてバランスのとれた施策を望むものである.
1997/3 老年精神医学雑誌Vol.8 No.3
老年期の精神医療をになうということ
粟田主一
東北大学医学部精神医学教室
最近,医学部の学生から,痴呆症の臨床を学ぶにはどの科に入局するのが最もよいか,と相談されることがある.たしかに,大学病院の中で痴呆症疾患を扱う科は複数あり,患者さんや家族ですらどの科を受診すればよいのか迷うほどである.ちなみに東北大学医学部附属病院では,精神科,神経内科,老年内科,理学診療科が痴呆性疾患の診療にかかわっている.いずれの科が専門であるのかは一概には決められないところがあり,それぞれの科に属するある一定の医師が,それぞれの分野の専門性のなかで痴呆性疾患にとりくんでいるというのが実情であろう.
精神科で痴呆症の臨床を学ぶということは,今日の老年期の精神医療をになって,それを実践しながら学んでいくことではないかと筆者は思っている.それでは,今日の老年期の精神医療をになうとはどういうことなのか.最近の自分自身の仕事をあれこれ振り返りながら考えてみた.
ここ数年来,ゴールドプランに基づいた老人保健福祉事業が各地域で本格的にとりくまれるようになり,保健所の精神保健相談で痴呆症の相談に応じる機会が急増してきた.当初のおもな対応は,痴呆症は「歳のせい」ではなく「病気」であるから,まずは専門の病院でみてもらうことが必要である,と説明することであった.ところが,「ならばどこが専門の病院なのか」と質問されて考えさせられた.はたして,最寄りの精神病院を専門の病院といってよいのであろうか?単科精神病院の多くは,痴呆症の精神病理学的診断はできても鑑別診断に必要な設備は不十分であり,身体所見の評価も不得手である.随伴する精神症状に対する対応も不十分である.かといって,県内に1か所しかない老人性痴呆疾患センターや筆者が勤務する大学病院は遠すぎるうえに混雑しており,痴呆症の高齢者や介護する家族(多くの場合,介護者も高齢で,何らかの身体疾患をもっている場合も少なくない)に,安易に受診をすすめることはできない.
結局,ほとんどのケースは,保健所で臨床症状の評価をしたあとに,地域の総合病院の放射線科医や内科医に連絡をとって必要な検査と身体所見の評価をしてもらい,次回の保健所の相談日にその結果を総合して最終診断し,居住地の家庭医に連絡して医療の継続を依頼するとともに,その後のケアの方針を保健所や町村の保健婦,家族らとともに検討していくという方法をとるようになった.こうした活動を続けているうちに,今度は地域の診療所や病院から,痴呆症が疑われる患者さんが保健所の相談日に紹介されてくるようになり,相談日の保健所診察室は,あたかも巡回型の簡易痴呆疾患センターの装いを呈するに至った.
ゴールドプランで構想されている老人性痴呆の診断・治療・ケアシステムでは,老人性痴呆疾患センターが中核医療機関として専門相談,鑑別診断,治療方針の決定等を行い,地域の医療機関,保健・福祉機関で継続的なケアがなされる図式が描かれているが,大都市から離れた地域に居住する痴呆症の高齢者がセンターを利用するには無理があり,また,数少ないセンターに痴呆症の高齢者を一極集中させることにも問題がある.現時点で老年期の精神医療をになう精神科医が最低行うべきことは,その地域の名井甲斐,神経内科医,放射線科医らと連携しながら痴呆症をもつ高齢者を心身ともに総合的に評価し,痴呆性疾患の鑑別と治療方針の決定を行い,本人とその家族がもつ精神保健上の問題を理解したうえで,居住地域の保健・福祉スタッフや家族と繰り返し相談する機会をもち,長期的なケアの方向を講じていくことではないだろうか.
数年前に,当院の老年内科に所属していたある医師が中心となって,痴呆性疾患にかかわりをもつ精神科医,内科医,神経内科医,放射線科医が参集し,痴呆性疾患の症例検討会を定期的に開催していた.この会は,筆者にとって,専門分野を越えた各科との連携をとおして多面的な角度から老年医学そのものを実践的に学ぶ重要な機会となった.そしてまた同時に,老年医療のなかでの老年期の精神医療の意義をあらためて学ぶ契機となり,精神医療のなかで老年期の精神医療をになっていくことの重要な動機づけとなっている.
かつて,当院精神科の外来新患を受診する高齢者の精神医学的問題を調査したことがあった.1982〜1991年に外来新患を受診した高齢者715人の診療記録をすべて調査し,初診時の状態像と診断名を調べたところ,状態像では抑うつ状態(25.9%)が最も多く,診断名では初診時には状態像診断にとどまるケースが25%であった.高齢者の抑うつ状態は,心因や気質因など成因論的な多元性が問題となる症例が多く,その対応には,老年期という年代に特有な生活課題や心理的な問題を理解すると同時に,老化退行に伴う脳の器質的な変化や,時には痴呆性疾患の初期病態の関与などを考慮した,バランスのとれた多様なアプローチが必要とされる.このような成因論的な多元性を考慮する臨床的アプローチは,痴呆症の高齢者にみられる多様な精神症状や行動異常を理解し,それらの問題に対する臨床的対応を考えていく場合にも重要であり,それが老年期の精神医療に課せられた固有の問題ではないだろうかと考えている.
1997/2 老年精神医学雑誌Vol.8 No.2
老年期精神障害の多様性と新鮮性
天野直二
東京大学医学部精神医学教室講師
老人の診療に携わって感じることは,老年期にみる精神障害の多様性と新鮮性である.高齢化の時代を迎えてはじめてわかってきたことが多く,そして,まだ十分に理解されていないのではないかというのが実感である.たとえば,アルツハイマー型老年痴呆ひとつとっても,その発症,臨床症状,そして経過にさまざまな人間模様がみられる.
まず,多様性についての雑感を述べる.筆者は,たまたま痴呆の鑑別に際して頭部CTやMRIをみる機会に恵まれている.年齢層はおもに70歳代後半から90歳代にかけての高齢者である.その所見は,生理的な老化現象の範囲内と考えられるものから,前頭・頭頂・後頭部の弓隆面の萎縮が進行し,海馬の委縮や側脳室の開大が比較的軽度であるもの,その逆に側脳室の開大が顕著で,大脳の表面の萎縮をあまりみないものとさまざまである.前頭葉や側頭葉の委縮は各例でかなり異なっている.さらに大脳白質や大脳基底核の循環障害性病変を考慮すると,その所見の組合せはまさに膨大になる.ただし,この所見の多様性は,痴呆の程度と必ずしも相関していない.
加齢による脳委縮は,まず側脳室の開大で表現されるが,アルツハイマー型老年痴呆の診断には,やはり海馬の萎縮がメルクマール(指標)のひとつとなることは確かである.CTではよく表現されず,MRIの前額断でその萎縮にはじめて気づく例も多い.海馬は,何といってもさまざまな記憶障害と切っても切れない関係にある.アルツハイマー型老年痴呆のなかにコルサコフ型といえる一群がみられる.たとえば,ある老人はよくしゃべり,日常生活上の動作は基本的に平滑であるが,記憶障害は高度であり,しかも病感めいたものはまったくみられない.自由気ままに生活し,毎日のように散歩に出かけ,時にはとんでもなく遠いところへ行ってしまう.一昼夜かけて自力で戻ってきたこともあるが,本人はけろりと忘れてしまっている.家人は,新しいことはなにも覚えていないと嘆いている.ちなみにこの症例の海馬はとても小さい.同じような画像を呈する例はいくらでもみられる.それらの症例では,同様に記憶障害が高度であり,さらに意欲の減退がみられ,時にせん妄を呈したり,日常生活にかなり支障をきたしている.せっかく撮影したのだからと意気込んで観察しても,前述の症例とはほとんど差異をみない.画像の多様性が臨床症状を規定するわけでもないし,臨床上の多様性が画像に必ずしも反映するわけでもない.症状と画像の多様性が相関するわけではないことに,もどかしさすら感ずる.しかしながら,多くの例が,老年期の精神障害がいかに多彩であるかをまず認識しなさいと教えてくれているのだと痛感する.
新鮮性とは,老年期の精神障害がけっして壮年期や初老期の延長線上では考えられない側面をもっていること,すなわち新しくみられる出来事であるという意味である.痴呆だけではなく,うつ状態や幻覚,妄想にも特徴があることは周知のとおりであるが,老年期を迎えるまでこのような精神世界と無縁であった老人が,この時期になってなぜ新しい出来事を体験するのであろうか.
老年期の幻覚,妄想には,老人の生活の背景が反映されるという特徴がある.その内容は,彼ら自身の生活を基盤にしている.彼らの身体や生活基盤をおびやかす幻覚や妄想に悩まされることが多い.身体の変調をきたすような体感幻覚であったり,生活感に不安,恐怖を与えるような,だれかが侵入してきて自分の持ち物や財産をとろうとしているという妄想であったりする.自分の持ち物である健康,金銭などに対する執着心を背景にしている.
家族とは離れて単身で生活していた70歳代後半の老婦人が,痴呆ではないかと外来を受診した.このままでは隣近所に迷惑なり,火事を起こすのではないかと心配されるため,保健所の指導で娘とともに来院した.老婦人の話をよく聴いてみると,痴呆ではない.「家にだれかが入ってくる.なにかが盗まれた.実際なくなった物があれこれある.自分の生活はどうしても続けたい.子どもの世話になりたくない」という切々とした訴えであった.日中,近所づきあいもなく,家に閉じこもりきりであるという背景を考えると,十二分に理解できる状況であるがゆえに,空恐ろしさすら感じた.薬物療法をすぐに行えばよいというものではなく,まず,このような幻覚や妄想がなぜ生じてきたのかをできるだけ理解することに端緒があると思った.
このように,老年期にはその特異性を考慮した診断や治療が必要であり,その分類や基準をさらに検討する必要性を実感する昨今である.
1997/1 老年精神医学雑誌Vol.8 No.1
アルツハイマー型痴呆
― 研究の進歩といまできること ―
新井平伊
順天堂大学医学部精神医学教室講師
新年を迎え,21世紀に向けての期待が膨らむと同時に,世紀末とよぶべき事態が社会のさまざまな領域で見受けられるなかで,わが国は未曾有の高齢社会に突入しつつある.振り返ってみると,今世紀はまさにアルツハイマー型痴呆(Alzheimer-type dementia;ATD)研究の時代であった.
A. Alzheimerによって初老期発症の痴呆性疾患がはじめて報告されたのが1906年であり,1950〜60年代には神経病理学的研究により形態学的病態の解明が大きく進展した.そして,その後の方法論的進歩に伴って,ほぼ10年ごとに研究の躍進がみられた.70年代なかばには神経伝達物質以上が明らかにされ,80年代後半から現在まではコリン作動系薬物を中心とした治療薬開発ラッシュが続いている.80年代には老人斑アミロイドや神経原線維変化の主要構成タンパクが明らかにされ,その後,家族性アルツハイマー病(familial Alzheimer's disease;FAD)家系の一部はアミロイド前駆体タンパク(APP)遺伝子領域の異常によるものであることが判明し,また,脳脊髄液中のタウタンパク濃度は診断マーカーとして有用なことも示唆されている.そして,90年代なかばになると,分子遺伝学的研究によりFAD家系の多くは第14染色体のプレセニリン-1遺伝子異常により説明できることが明らかにされた.現在ではATD研究は孤発例の本態解明に移っているが,脳内病変の最終的過程は共通しているので,これまでのFADの研究成果から孤発例の病因もしだいに明らかにされるものと予測される.このようにATD研究はいわば峠を越えた感があり,今年もまた大きな成果が報告される年になってもらいたいものである.
ところで,このようにATD研究の躍進には目を見張るものがあるが,根本的治療法の確立までにはまだしばらく時間がかかることも事実である.厚生省の高齢者医療福祉対策は十分評価でき,今後に期待はもてるものの,日々の臨床のなかでATDに罹患された方々を前にすると自らの無力さを感じつつ,より現場に近い立場でなにかできないものかと考えたりもする.
たとえば,まず思いつくのはATDに対する治療費の公的補助の問題である.これは,すでに今井幸充先生が本誌巻頭言(5巻4号,1994)で「若年性ATDは難病ではないのか?」と疑問を投げかけ,その必要性を説かれている.周知のように,多くの疾患が特定疾患に指定され,医療福祉面で恩恵を受けている.ATDは特定疾患に含まれていないが,(1)診断技術の確立が不十分(診断確定マーカーがない)であること,(2)対象患者数が多すぎること,(3)老人向けの対策体系が存在すること,などがネックになり,指定は今後も困難のようである.しかし,臨床場面で最も印象に残るのは,40歳代から50歳代前半にかけて発症した早発性ATDの患者さんである.性別を問わず,働き盛りで一家を支え,子どもの教育に追われ,住宅ローンの返済義務も残っているといった世代での発症は,その後の進行も早く,早晩入院治療を余儀なくされることからも,患者さん一家の生活基盤を脅かす事態である.しかも,65歳以上を対象とした医療福祉対策の恩恵を受けることもなかなかむずかしいようである.そこで,パーキンソン病で重症度分類により一定の枠が設定されているように,たとえば60歳未満でのATD発症例にかぎって特定疾患の指定を受けられるようにならないものか,また,このように年齢の制限を設けることによって,ATDにかぎらず他の痴呆性疾患(たとえばピック病やレビー小体病)も抱合して指定を受けることができないものかと思う.特定疾患の枠が無理ならば,ゴールドプランのなかで早発例にかぎった特例措置として公的助成が制度化されないものであろうか.
もうひとつは,医療福祉サービスの現状についてである.全国的に特別養護老人ホームや老人保健施設が急増し,同時にさまざまな診療科出身の医療従事者,さらには医療以外の多くの福祉関連領域出身者がその運営に関与するようになっている.これにより痴呆老人が医療福祉サービスを受ける機会が増えていることは確かであるが,より重要なことは,痴呆老人の心理や病態を正しく理解して実践することであろう.このことは,室伏君士先生(国立療養所菊池病院)や杉山孝博先生(川崎幸病院)がつねに指摘されていることである.時には薬物を用いた治療・管理も必要となるであろうが,痴呆老人を一人の人間として理解する姿勢は,介護やリハビリテーションの効果をはるかに高めることにつながり,さらには痴呆老人の人権や疾患の告知といった基本的問題の議論にも大きく影響すると思われる.
ATD研究の発展に期待しながら,老年精神医学を学ぶわれわれがいまできることをひとつひとつ検討し,アピールしていくことが重要であろう.