1996/12 老年精神医学雑誌Vol.7 No.12
大学での老年精神医学のあり方
井関栄三
横浜市立大学医学部精神医学教室講師
 精神科医にとって専門領域が老年精神医学であるという場合,単に老年患者の診療をしているというだけでは不十分で,やはり臨床的なものにしろ基礎的なものにしろ,他人を少しでも啓発するに足る研究を行っていることが必要条件となるであろう.その際,大学病院で老年精神医学を専門として診療や研究に従事している医師にとって,患者の診療と自分の研究とをどこで結びつけていくかは,個々人によって異なるように思う.たとえば,筆者は変性性痴呆疾患の神経病理学的研究を専門にしているところから,大学内外での老人専門外来で患者に接するとき,どうしても個々の患者の臨床症状や経過と,予想される病理変化とがどのように関連するのかに関心が向きがちである.むろん臨床医として,治療できる部分は治療を心がけ,できない部分については患者自身ができるだけ安心できる環境をつくれるよう,介護する家族への助言と指導を行うことも重要であることはいうまでもない.ただ,筆者がこのような診療姿勢と研究姿勢とをある意味で使い分けていくことに,これまでさほどの矛盾を感じてこなかったことは事実である.
 しかし,数年まえより筆者の所属する大学病院に老人性痴呆疾患治療研究センター(以下,センター)が設置され,いままで以上に老人性痴呆患者についての地域医療に積極的に携わる必要が生じ,また,行政からの依頼もあって地域の老年期および初老期痴呆患者の疫学調査などを行っているうちに,あらためて大学での老年精神医学のあり方,とくに診療と研究との関係について考えさせられることが多くなった.
 センターとは,周知のように,在宅の痴呆老人を医療・保健・福祉の密接な連携のもとに支援していうことを目的として,1989年に厚生省により一定の設置基準に基づいて全国の総合病院に設置されたものである.筆者らのセンターでは,地域の保健所の相談窓口で対応した痴呆老人および他の医療機関における処遇困難な痴呆患者について,専門医の診察と検査による鑑別診断および治療方針の設定を専門外来と入院により行い,その後地域に戻すか,必要な場合には専門外来での治療を継続する.このほか,電話医療相談,地域の連絡会議への参加,定期的な研修会の開催などを通常業務として行っている.また,専門外来受診者の性別,年齢,地域分布,受診経路,受診目的,家族状況,主要な精神症状・行動異常・診断分類,通院状況および転帰などについて定期的に調査結果としてまとめ,報告している.
 このように筆者の所属している公立大学では,国立ないし私立大学以上に,地域医療に貢献する責任があり,地域行政との連携も深めていく必要がある.すなわち,大学病院で来院する患者を受動的に診療するだけでは済まず,地域への積極的な働きかけが重要となってくる.このような場合,大学が診療・教育・研究をともに行う場である以上,当然のことではあるものの,これらすべてが兼務であることから,限られた人員と時間のなかで,どこまで心の余裕をもって地域医療に対して責任を果たしていけるか,老年精神科医の場合,このような臨床と研究との心理的乖離はまだ少ないことが予想されるが,基礎的研究を専門とする場合,この思いはより深刻なのではないだろうか.
 これは老年精神医学にかぎったことではないが,今後は,大学で地域医療を含めた臨床・教育・研究のすべてを担うことにこだわらずに,施設も人員も専門分化していくのが自然な方向であるという気もする.そのような意味で,言い古されたことかもしれないが,大学は個々の医師が自分に最も適した方向と場所を見いだすための研修の場所程度に考えるのが適当なのかもしれない.
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1996/11 老年精神医学雑誌Vol.7 No.11
欧州脳バンク事情
池田研二
東京都精神医学総合研究所神経病理研究部門
 大阪で行われた第5回国際アルツハイマー病および関連疾患に関する国際会議から帰ってきて,この文を書いているのだが,「世の中は3日見ぬ間の………」というほどではないにせよ,アルツハイマー病研究の進歩,とくに分子病理学や遺伝子研究の分野の進歩の速さには瞠目するものがある.学際的研究の必要性をあらためて痛感し,もって命ずるところがあった.ひるがえってみると,ここ数年の間にアルツハイマー病研究に限らず,長年論争のあった疾患がトリプレット・リピート病として決着をみるなどを目の当たりにするにつけ,「私になにができるのか」という精神科医兼神経病理学の徒としてスタートしたときからずっと持ち続けている命題に,あらためて向き合わざるをえない.
 ところで,4月にパリで開かれた第5回欧州神経病理学会に参加する機会があった.少しのんびりとしたこの学会は,欧州びいきの筆者の好みにぴったりであったが,学会終了後にいくつかの施設を回り,分子神経病理のセクションが開設されているのを見たり,brain bankの状況を聞いたりするにつけ,欧州でこうなのだから,アメリカではどういうことになっているのだろうか,日本の神経病理は大丈夫か,個人の努力ではカバーしきれない学問的不均衡がつのるのではないかと不安になった.
 神経疾患の総合的なバンクとして,Salpetriere病院神経病理(Dr. Hauw)を見学したが,地下に10台のdeep freezerがずらりと並んでいる光景には圧倒された.疾患に応じて採集部位が決められており,要望があれば提供できる体制にあるとのことであった.欧州にはこのほかに,Netherland brain bank(Dr. Swaab)やUniv. Barcelona neurological tissue bank(Dr. Cruz-Sanchez)があり,またパーキンソン病やハンチントン病など疾患別にいくつかのバンクがあるという.どの程度有効に稼働しているのかはわからないが,とくにBarcelonaグループには欧州共同体から資金が援助されており,欧州全体を統合しようという動きがあり,しきりに会合がもたれているとのことである.しかし,ここでも診断基準やサンプリングの統一で意見の違いがあり,まだ統合にはほど遠いようで,なにやら政治・経済の世界と同じような問題があるところが面白い.
 前述の欧州神経病理学会では,最終日にEuropian brain bankのワークショップがあったが,内容は「各国代表」のような研究者たちが次々と登場して各自の研究について延々と喋り,なぜbrain bankと銘打っているのかまったくわからなかった.このところbrain bankに関する特集が雑誌にしばしば組まれているので,実際の研究成果の呈示ということであったのだろうか,いまだにわからない.
 筆者は今回の国際アルツハイマー病会議で,「高齢者で老人斑を伴わず海馬領域の神経原線維変化のみの老年痴呆群」ではアポリポタンパクEのε2の頻度が高く,病理と分子の双方のデータにより「アルツハイマー型老年痴呆」から分離される群である可能性が高いことを,東京都老人研神経病理部門,新潟脳研病理学分野,東京都精神研分子生物部門との共同研究で報告した.今後もこのようなかたちで草の根共同研究の輪を広げていくことができれば,有効な研究がなされると思われる.「学」と「施設」の枠を越えた研究のあり方として定着することを切に願うものである.
 つまり,なにがいいたいのかというと,この場を借りて,どのようなかたちであれbrain bankの設立が必要な時期なのではないか,ということを訴えたいのである.現実的な日本型brain bankのあり方として,とりあえずは剖検脳に限り,1か所の施設に集中する方式ではなく,個々の施設がそれぞれの脳を管理し,提供できるケースについてのみ,診断,保存形態,剖位,使用の際の条件などを,たとえば関東地区のように地区別に設立されたbrain bank協会(情報を管理するだけであるから,それほどおおげさなものでなくてよい)に登録しておき,要請があれば情報を提供し,あとは各自で連絡を取り合って使用する,というかたちが現実的ではないかと思う.設立の是非や形式について議論しているうちに,診断の精度管理,サンプリングの統一など,いま欧州で問題となっていることが現実問題となり,おのずとよりよいかたちとコンセンサスが導かれるであろう.いまから次世代の神経・精神医学の研究の進歩を睨んで各施設,各分野が手を結び,垣根を越えた研究を可能にしなければ,わが国の研究水準は大きく遅れをとるのではないだろうか.
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1996/10 老年精神医学雑誌Vol.7 No.10
地域の中での徘徊老人の発見・保護システム
――はいかい老人SOSネットワークシステムの意義――
川室 優
医療法人常心会常心荘川室病院理事長
 今日,老人が安心し,生きがいをもって暮らせる“まちづくり”を推進していくことに多大な関心が向けられている.そのためには,地域の特性に応じて高齢化に対応したさまざまな制度の確立と,それに基づく施設やサービスの充実が求められている.その実現にあたっては健康老人だけでなく,さらに弱い立場にある虚弱老人についても生きがいのある生活を送るための援助を十分考慮するべきである.そのなかでもとくに,現在,約126万人(対老人人口比6.9%)といわれている痴呆性老人については,いっそうすみやかな対応が迫られているといえよう.
 痴呆性老人が地域の中で楽しく暮らすためには,自発的に自由に行動できること,そしてそれを見守るシステムが不可欠である.最近,徘徊(平井の報告注によると出現率は,アルツハイマー型痴呆88.6%,脳血管性痴呆36.6%)のために行方不明になった痴呆性老人を早期に発見するためのシステムが各地で実施されつつある.わが国では,平成6年4月に北海道釧路市の警察署管内ではじめてつくられ,地域ネットワークが構築された.現在,1道9県に,「はいかい老人SOSネットワーク」「お年寄りSOSネットワーク」「高齢者SOSネットワーク」など名称はさまざまであるが,約500の警察署が関与し,18のネットワークがつくられ,徘徊老人の発見・保護に効果をあげている.
 このシステム(以下,はいかい老人SOSネットワークとする)については,「呆け老人をかかえる家族の会」より,厚生省を通じて依頼があったこともあり,警察庁が平成7年に全国実務者担当会議において,釧路の事例を中心に紹介しながら,ネットワーク構築のすすめを強調している.「はいかい老人SOSネットワーク」は,各都道府県警察署が地域の自治体関係諸機関(県・市町村,保健所,福祉事務所)や家族の会,病院,バス・タクシー会社,放送局,郵便局,電力会社等との連携の強化を念頭におくだけでなく,給油所,JA,コンビニエンスストア,新聞牛乳販売業者,宅配業などを加えた幅広いネットワークの確立を目指すものである.また,防災無線や有線放送などを活用して町内の全住民に連絡網が敷かれ,ファックスネットワークを活用して関係団体への手配の効率化,迅速化をはかっているのが一般的である.このネットワークシステムの目的は,第1に障害・虚弱老人の保護に関する情報を一元化し,早期発見,保護をはかること,第2に対象老人の保護にかかわる関係機関等の役割を明確にし,連携による効率化をはかり,保護後の適切なケアを行うこと,第3に対象老人を抱える家族等の不安の軽減をはかり,本システムの普及啓発を推進することにある.
 本年7月1日に,当上越地域内の上越南・北警察署において,新潟県ではじめて行政機関や民間業者等が集い,「はいかいシルバーSOSネットワーク上越」が発足した.当地域は,老年人口比率が17.9%(全国14.4%,新潟県18.1%)と高い数値を示しており,痴呆性老人の発生もけっして少なくない(新潟県高齢者の約6.3%,上越地域約2,000人).県内の行方不明者は1,395人(平成7年)で,そのうち65歳以上は151人を占めている.151人中94人が痴呆性老人で,上越地域では9人の徘徊老人を認めた.上越のSOSネット総数は約150あまりで,有線放送やケーブルビジョンなどもおおいに利用することになっている.老人の行方不明が発生し,警察に捜索願いがだされた場合には,家族から承諾書を得たうえファックスで各機関に情報を流し,発見,保護につとめるシステムとなっている.
 毎年,四季の移りかわりに誘われて単身で山菜採りに出かけた老人が行方不明となり,数年後に白骨状態で発見される痛ましいニュースを目にする.このような悲しい出来事が起こらないように,老人を可能なかぎり早期に保護することが,重要課題となっていくであろう.また,痴呆性老人の事故対策の検討と同時に,当然のことながら,痴呆の早期発見・診断を含めて,地域の中で住民が相互に見守りあえる体制づくりが必要である.
 「はいかい老人SOSネットワークシステム」のなかには,発見保護の緊急対応として,老人性痴呆疾患センターが組み込まれている.しかし,今日のセンターの機能には電話相談から,入院加療に至るまでレベルにかなりのばらつきがある.今後,二次医療保健・福祉圏に1つのセンターを必ず設置して痴呆性老人を統合的にケアできる機能を充実し,地域の「はいかい老人SOSネットワークシステム」と相互に連携をとることが大切である.そのような機能の充実した,サービスや制度の整った「まち」こそ,老人が安心して暮らせる場である.そのために今後,老人精神科医療に従事する者は,こうした専門的,統合的な視点をもった福祉的協力体制の確立を目指すことが必要となるであろう.

注 平井俊策:老年期痴呆の病態,病状による薬物療法のガイドライン.(大友英一編著)実地医家のための老年期痴呆の診断と治療,臨床医薬研究協会(1988).
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1996/9 老年精神医学雑誌Vol.7 No.9
老人性痴呆疾患センターからみた老年精神医療
中野隆史
獨協医科大学精神神経科助教授
 栃木県には老人性痴呆疾患センターは現在1か所しかなく,当科の外来に併設されている.実情は外来の1室に専用の電話があるだけで,センター勤務の精神科医,看護婦,ケースワーカー,臨床心理士はすべて本来の業務と兼務である.開設以来6年あまりになるが,毎年の相談件数はおおよそ横ばい状態である.これまでの相談の実人数は約1,800人となっている.平成7年度の延べ相談件数は523件,実人数は319人であった.
 電話相談と来所相談とがあるが,来所の場合はほとんどが電話相談ののち,当科の外来を初診することになる.アセスメントに必要な頭部CT,脳波,心電図,甲状腺機能検査を含む血液検査,尿検査などが1日でできるように,あらかじめ検査の予約を調査して受診日を決定している.このようにして,平成7年度には195人が鑑別診断や治療方針の選定の目的で当科外来を受診した.すなわち,電話相談者の約6割が受診したことになる(これはこの年度の外来初診者全体の14%にあたる).初診時以降は精神科のカルテがつくられ,健康保険を利用した通常の診療が行われる.
 アセスメントがすむと,(1)在宅で当科外来に通院,(2)在宅でかかりつけの近医に通院,(3)施設に入所のいずれかの処遇となることが多い.おもな入所先は特別養護老人ホームと老人保健施設である.ちなみに,ある期間の追跡結果では,相談者全体の約1/4が施設に入所しており,その67%が特別養護老人ホーム,19%が老人保健施設であった.また,一部は当科の病棟あるいは県内の老人性痴呆疾患専門病棟(治療病棟)に入院となった.施設入所や入院の相談では,その約半数が当センターのケースワークによって施設(病院)に入所(入院)できていた.このうち3か月以内に入所できたのは半数弱であり,1年以内では約90%であった.
 ところで,平成7年度の外来初診者1,448人のうち60歳以上の者は442人で3割を占めていた.このうち神経症やうつ病などの機能性精神障害は38%,痴呆を含む器質精神障害は62%であった.これを年代ごとにみると,前者は60歳台で61%,70歳代で32%,80歳代で8%と年齢とともに著明に減少しているのに対して,後者はそれぞれ39%,68%,92%と増加していた.アルツハイマー型痴呆(ATD)は103例で,脳血管性痴呆(VD)の75例より多かった.これは,疾患センター開設前の当科外来ではVDがATDより多かったことに比べて大きな変化である.わが国でも欧米のようにVDよりもATDが多くなっていることが,いくつかの地域調査で指摘されているが,外来受診者においてもその傾向が明らかになったことは,痴呆という病気に対する認識が高まり,早期には気づかれにくいATDが受診するようになったことも関連していると考えられる.従来いわれているように,ATDでは女性と男性の比は4:1と圧倒的に女性が多かったが,VDではほぼ同数であった.
 痴呆性疾患の患者が当科の病棟に入院する目的は,(1)鑑別診断等のためのより詳細な診察と検査,(2)せん妄,妄想,易怒的・不機嫌などの問題行動の治療,(3)身体合併症の治療などが多い.他施設に入所中に合併身体疾患の憎悪,感染症,脱水,せん妄などのいくつかが重なって当科の入院となることも多い.これは身体的救急の事態であり,内科や外科など他科との連携が非常に重要となる.そのためには,他科の医療スタッフに,痴呆性疾患だけでなく精神疾患・精神医療・精神科医に対する理解と認識を深めてもらえるように,われわれ精神科医の側から積極的に働きかけることが必要である.
 疾患センターを受診したケースは,少なくとも医学的な評価を経てからその処遇が決まるという点で,その処遇にある程度の妥当性が保障される.しかし,医学的評価を受けるまでに至らないケースが数多くある.家族を精神科に受診させることへの抵抗もまだまだ強い.最近急速に拡充されつつある各種の福祉施設に,医学的評価を経ないまま埋もれているケースもある.医療と福祉の連携の必要性が指摘されているが,まだ不十分であり,医療と福祉の誤った分担が行われている場合も多い.そこには医学的な問題だけでなく,老人の虐待や法によらない行動制限・拘束など人権にかかわる法的問題も隠れている.これらに対して精神科医の専門的なアドバイスが必要である.家族だけでなく,福祉機関の関係者にも痴呆性疾患や精神疾患に対する正しい理解が行き渡っているとはいいがたい.福祉施設の職員や嘱託をしている他科の医師にも精神科に紹介することに対する抵抗がまだ残っている.
 われわれ精神科医は,他の医療関係者に対して,福祉の関係者に対して,社会に対して,いままで以上に声を大きくして発言していく必要があろう.
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1996/8 老年精神医学雑誌Vol.7 No.8
最近感じたこと
山下元司
高知医科大学神経精神医学教室助教授
 作家の安岡章太郎の文章には,医者に対する皮肉がたくさん書かれている.なかでも驚いたのは,氏が心筋梗塞の発作を起こして救急車で病院に運ばれたときの話である.心筋梗塞とわかって病院に行ったわけではないが,診察のまえに看護婦さんから,延々と既往歴を聞かれ,次いで家族歴を聞かれた.もうとっくに亡くなっている人全員の死因をしつこく聞かれ,一部の人についてはわからないと答えると,よく思い出すように強要されたという.本当に苦しいので医師をよんでくれと頼むと,医師が来て,こりゃいかん心筋梗塞だ,至急検尿をしろ,と言ったという.氏は,この検尿というとどめの一言で絶望的な気持ちになったという.
 医療というものが資格制度に守られて,実力以上に評価されていることは,おおむねまちがいのないところであろう.近年,雨後の筍のごとく林立している老人保健施設をみていると,病院の限界を思い知らされる気がする.ある精神科の医師が,「昔,よその病院に勤めていたときに,外来に来た痴呆老人を入院させて院長にしかられたけど,いまそんなことを言う人はいないよね」と言ったことがある.たしかに,私も痴呆老人を入院させて,しかられたことがある.
 痴呆や行動異常の重症度を無視して,精神病院と老人保健施設を比較するのはいささか乱暴であるが,老人保健施設の入所者は本当に幸せそうである.広大な部屋で寝て,広大なデイルームで過ごす.良質の食事のほかに立派なおやつまででる.職員の年齢は,医学部の学生とそう違わないようにみえる.したがって,精神医学の造詣が深そうではないが,とくに問題なく仕事をこなしているようである.これをみていると,痴呆老人の介護には体力と根気と熱意が本質的な意味をもち,心理学や精神医学の知識は本質的な意味をもたないようにも思える.とにかく入所者は幸せそうである.痴呆老人を助けるために,精神科医としてわれわれは体力や根気,熱意と精神医学や心理学の知識のどちらの方向に進んでいけばよいのかわからなくなる.
 以上のことはあくまでも私の想像にすぎないが,老人介護の現場で体験を積んだ医局の若い医師たちは,私とは違って,介護者の資質を高めることが必要であると考えているらしい.彼らはそのためのひとつの試みとして,県下のすべての看護婦,介護者を対象に「痴呆老人介護研究会」というものをつくった.こうした会合にそれほど多くの人が集まるとは思えないが,会の担当者もそう思ったようで,参加希望者はファックスでお知らせください,という案内状をつくり,それを配送すると,休暇をとってニューヨークに遊びに行ってしまった.しかし,第1回の会合が近づくにつれて,5人,10人と参加者の名前の書かれた申込書がたくさん届くようになったが,まわりの者は,ただそれを担当者の机の上に置くことしかできなかった.
 私はのちに,研究会に参加した別の病院の看護婦さんたちが,あの会合はよかった,胸がスッとした,と激賞しているのを聞いて,会が大成功であったことを知った.定員を超えたため,申込みの遅い人は電話で断ったが,会場には立ち見の人もいたという.どのようなことを話すと看護婦さんがこれほど感激するのかはわからないが,その後も「呆けない方法教えます」という題で,一般の人を対象に講演をしているところから察すると,痴呆介護研究会でも怪しげなことを話したのではないだろうか.いずれにしろ,その後もこの研究会は盛況を極めているので,若い医師たちの行動力には感心する.
 ところで話はかわるが,わが医局でも,昨年からインターネットが利用できるようになった.無料のものに値打ちのあるものはないというのが世の常であるが,Alzheimer's Webというホームページには,奇跡的な情報が満載されている.これは,David Smallというメルボルン大学の病理学者が発信しているものである.
 ホームページをめくっていくと,発表されたばかりのアルツハイマー病に関する論文のうちでもとくに注目に値するものが,ニュースとして載っている.わが大学の図書は船便で届くので,最新の情報でも1か月遅れになってしまうが,このページを見ればすぐ入手できるようになった.アルツハイマー病とはなにかというものや,その原因,生化学,治療,診断についての質問への回答ページもある.もちろん正しいという保証はないが,これらのむずかしい質問に明瞭に答えており,私にも参考になる.このほかに,「今週の論文」という40ほどの論文の題名と著者名が紹介されているページがある.その数から想像すると,ほぼすべての英文の論文が載っているのではないだろうか.本日の大発見は,「今週の論文」に抄録がつくようになったことである.この文が掲載されるころには,Alzheimer's Webは,もっとパワーアップしていることと思われる.
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1996/7 老年精神医学雑誌Vol.7 No.7
アルツハイマー型痴呆に対して,いまなにをなしうるのか
一瀬邦弘
東京都立荏原病院精神科医長
 21世紀へと続く老年精神医学の課題は,dementia(痴呆),delirium(せん妄),depression(うつ病),delusion(妄想),death(死の臨床)の5つのDにまとめられる.ここでは,最初のDnoうちとくにアルツハイマー型痴呆(ATD)をめぐって,研究・心療・教育の3つの側面から,差し当たって着手可能で今世紀中に成果を得ることが可能と思われる事柄について述べる.
1.研究の面から;apoEε4を用いた高齢同胞研究の提唱
 現在の痴呆の診断基準では,記憶や認知障害が社会的,職業的機能に影響を及ぼして,はじめて診断がなされる.しかし,このときにはすでに多数の神経細胞脱落が生じているため,現在,精力的に開発されつつあるアセチルコリン関連の抗痴呆薬も不十分で短期的な効果しか示さないだろうと思われる.治療的関与のためにも,また痴呆発症にかかわる病態生理学的過程を解明するためにも,痴呆症状群の完熟以前,痴呆発症前の状態でとらえることが必要である.
 発症以前にATDを探知する方法として,遺伝子研究の応用が考えられる.現在知られているATD関連遺伝子は,常染色体優性遺伝の遺伝子と発病危険因子の遺伝子の2つに大別される.前者では若年多発家系から見いだされた21染色体長腕上のアミロイド前駆体(APP)遺伝子の点突然変異,30歳代から40歳代に発症する大家系から見いだされた14番染色体長腕上のS182(presenilin 1)の点突然変異などが知られている.こうした研究は貴重であるが,発生数が少なく,発症以前にATDを探知する方法としては必ずしも多くを期待できるものではない.
 一方,ATD高齢発症の危険因子としてapoEε4が注目されている.また,ATD発症と関連する他の因子,たとえばapoEの受容体であるVLDLR(very low density lipoprotein recepter)遺伝子の5リピート型増加(もしくは8リピート型減少)や,α1-アンチキモトリプシン(ACT)遺伝子のコドン15のシグナルペプチド多型の1つであるAA(アラニン)型がapoEε4と組み合わされることでATDの発症の確率はさらに高まる.また,マーカーとして注目される髄液中のタウタンパクとapoEε4との関連も明らかになりつつある.ATDの危険因子としてアポリポタンパクが疾病完成の一翼を担っていることは,確実になってきたようである.アポリポタンパク表現型の解析は,比較的簡便なこと,大多数を占める老年発症の患者とその家族を対象に選べることから,発症以前にATDになる危険性を探知する方法としておおいに役立つ.
 そこで,研究戦略として遺伝学的危険因子に基づいた高齢同胞研究(genetic sibling study for the aged ATD)を考えたい.まず痴呆患者のアポリポタンパク表現型の解析によってapoEε4をもつ者を選び,さらにその高齢同胞からapoEε4をもつhigh risk群を抽出する.そして,この群の経過を時間順行性に追う.対象はすでに高齢であるから,数年の経過でATD発症群と非発症群とに分かれる可能性が高い.そこで次に逆行性に両群の背景を比較し,遺伝子の傷にどのような因子が重なって発症に至るのか,そのストレッサーを明らかにし,同時に防御因子を明らかにする.
 指標としては,他の遺伝子検査のほか,現在,施行可能なタウタンパク定量,α1-ACT定量,プロテアーゼの解析,瞳孔計を用いたコリン系薬反応テストなどをホルモン環境や,動脈硬化危険因子とともにチェックする.同時に機能画像診断による継時変化が重要となる.解像度,時間分解能が劣る点で問題が残るが,汎用にはSPECTを用い,少数例にはPETも利用できる.
 課願達成にあたっては,遺伝子検査や機能画像診断の際のインフォームドコンセントの倫理的検討,さらに遺伝子検査結果の痴呆介護保険に与える影響など,老年精神医の社会的働きかけの面での検討を忘れることはできない.
2.診療の面から;ATD外来とアセスメント入院のすすめ
 老人性痴呆疾患センターは各地域に設けられているが,その機能は電話相談のレベルから入院収容に至るまでかなりまちまちである.痴呆の医学的診断と評価が可能なATD外来とアセスメント入院施設の増設が必要である.
 ATD外来はまず痴呆か否かの鑑別診断に重点をおく.病歴,全身状態のチェックとともにSPECT,MRI,MRAなどの画像診断と脳波定量検査を含めて,神経学検査,遺伝子検査,心理テストによる評価を行う.こうして痴呆と間違えられやすい老年期うつ病,脳血管障害後の慢性のせん妄状態,正常圧水頭症,睡眠薬依存症,甲状腺機能低下症,ぺラグラ脳症などを鑑別する.
 次に痴呆の程度の評価,痴呆のタイプ診断と病状進行を予測し,治療方針を考える.こうして適切な処遇を多職種で構成されるケース会議で判断する.筆者の経験では,期間は約4〜6週の予定で4〜5回の来院になる.その後は施設入所や入院できるまで,精神科一般外来でフォローする.
 アセスメント入院は,痴呆患者で通院が困難なケースや身体疾患の増悪によって緊急を要するときに行う.脳血管性痴呆患者の夜間せん妄や睡眠・覚醒リズム障害の治療もここに含まれる.ここ1年ほどの経験では入院期間は2週間程度1か月以内であるが,入院中の転倒による大腿骨頸部骨折や肺炎の遷延化に伴うMRSA検出によって入院期間が長くなるケースがある.大学病院や総合病院精神科が基幹となって,すでに入院・入所中のケースも対象とするべきであろう.
3.教育の面から;自己精度管理機能をもつ老年精神医学専門家集団の育成
 最後に,われわれ自身が抱える問題として,痴呆診断の精度管理の問題がある.たとえば抗痴呆薬の治験に際し,ADAS(Alzheimer's Disease Assessment Scale)による他覚的検査と医師の評価によるMENFIS(Mental Function Impairment Scale)の得点との乖離が問題となっている.どちらが正しく痴呆の状態を把握できるか,科学的真実に近いかの哲学的論争はさておいて,まずは老年精神医全体による痴呆評価の精度を高める努力が必要ではないだろうか.
 かつて大学に勤務していたころ,教室員全員でHamiltonのうつ病評価尺度をトレーニングしたことがある.故高橋良教授を囲んで医師と患者の面接場面のビデオを見て,手元の評価尺度表をつけた.結果は臨床経験年数の差が大きく影響し,得点のばらつきがみられた.さらに何回か各自が5から10年の経験年数になったつもりで,採点しなおしてもらった.こうした採点の際には,経験の浅い研修医も極端な採点をしてしまうが,臨床経験の長い名医も同じように極端なスコアをつけてしまう.評価尺度の採点では,能ある名医には爪を隠して貰う必要があるのである.トレーニングを繰り返したあとには,同じ患者の経過を別々に診察しスコアしても,総得点は0.5〜1点程度の差で一致するようになった.
 こうしてまず一致率をあげる努力をしたのちに,集団全体の採点を経験年数の長い者に合わせていく,つまり診断の鋭さを増していく努力が必要となる.目標とすべきレベルが単に経験年数だけに依拠してよいのか,他の補助検査(機能画像などの他の分野)との整合性を加味していくべきかについては,さらに論議が必要である.
 全国規模の訓練は,かなりの手間と費用がかかりそうであるが,治験責任者ではなく治験実施者を対象としたビデオを用いたMENFISのトレーニングは,痴呆評価の医師側自身の精度管理の向上に役立つと考える.均質で頑健な診断・評価制度をもち,同時にその精度を自己管理する能力を内包し,さらに診断の鋭敏度の向上を志向する老年精神医学専門家集団をつくることが学会に望まれる.
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1996/6 老年精神医学雑誌Vol.7 No.6
脳刺激訓練教室
須貝佑一
浴風会病院精神科医長
 “楽しいことが一番”“とぼけが治った”とにこやかに話す老人たちの顔がテレビ画面にアップで写される.しばらくまえにNHK教育テレビで放映された,「めざすは“ぼけ老人ゼロの村”」の一場面である.長野県伊那谷.急峻な斜面に開けた人口わずか4,009人の下條村が一躍全国の注目を集め始めたのは,平成3年から村ぐるみで始めた“脳刺激訓練教室”の成果がテレビ,新聞で紹介されだしてからである.この事業には飯田保健所と静岡県の医療機関が全面支援を行っている.
 下條村方式を簡単にまとめると,まず村のお年寄りにかなひろいテストを受けてもらい,成績の悪い者をスクリーニングする.点数によって前痴呆,軽症痴呆に分ける.それとわかる痴呆状態は,重症痴呆とされる.正常者を含め,前痴呆,軽症痴呆とされた人,つまり,痴呆予備軍のお年寄りを1年間,月2回の脳刺激教室に通わせて訓練しようというものである.脳刺激教室のプログラムは,右脳を刺激できるものにしたという.手工芸,調理,ゲームが選ばれている.その結果,3年間で20人中11人のテスト結果が改善し,7人は正常者とかわらない状態になったという.「痴呆は予防できる」.村も保健所も支援の医療機関もそう確信している.
 雪解けの季節を待って,下條村に出かけた.中心となって活動している村の保健婦に同行してみてわかったことがある.まず1つは,お年寄りが対象といっても,厳密には80歳未満のヤングオールドに絞られていたことである.80歳未満を対象にしていることについて,「84.5歳がここの平均寿命.80歳でぼけても4〜5年です.70代でぼけられたら15年という思いがありますので…」と,住民課で説明された.長野県内でも高齢化率がトップクラスの下條村でも,80歳以上の高齢者痴呆対策はこの事業の外におかれていた.
 脳刺激教室に通っている人たちの名簿と症状をみて気づいたこともある.村には65歳以上の高齢者が1,768人いるが,村の呼びかけにこたえて平成6年度新規教室の説明会に参加した人は98人であった.村ぐるみの事業にしては少数であったのが意外であった.新規教室でのテストの不合格者は10人で,のちにテストの成績が向上し正常または正常境界とされた5人は,年齢が64歳,66歳,67歳,70歳,75歳であった.一般的にいわれる痴呆の好発年齢とは,約10歳以上の隔たりがある.軽症痴呆にしても,前痴呆にしても,知的機能低下を起こしている基礎疾患があるのかないのかは問われていない.痴呆ゼロ期というそうである.名簿にある簡単な“病歴”からみると,正常に戻ったケースはリウマチや脳梗塞の後遺症で意欲をなくし家に閉じこもっていた人たちである.アルツハイマー病の初期を思わせる兆候は見いだせなかった.
 少し意地が悪いかなと思いつつ,「脳刺激訓練をしても悪化してしまった人にお会いしたい」と村役場に申し出たところ,快く承諾していただいた.村内有力者の妻(76歳)であった.人当たりがよく,にこやかにわれわれを迎えてくれた.あいさつをしているかぎりでは,ごく普通の元気なお年寄りといった印象を受けた.「今日はよくきてくれたなー.よかったよ.私ってわりに運がいいんだよな」という台詞を何度となく繰り返していた.夫によれば,いますんだこともすぐ忘れてしまい,またなにかするという.本人はそばでニコニコして聞いている.どうみてもアルツハイマー型痴呆であった.
 村内でも批判のある脳刺激訓練といういかにも無骨な名称の訓練を5年間も継続できている力も無視できない.その力とは,教室に参加してきているお年寄りたちの共通の思いを込めた,「これ以上ぼけたら家の人が迷惑してしまう」という発言からうかがい知ることができそうである.緊張した思いでテストを受け,やがて月2回の訓練教室に通う.テストの雰囲気とは裏腹に,教室は調理実習やゲームの場となって楽しいものである.60歳代,70歳代で多少とも脳梗塞やリウマチ,その他の慢性疾患があって1人でポツンと家の中に閉居していたお年寄りが,快活に変化していくことは十分納得できる.しかし,それを痴呆の改善,予防効果と即断しているところに問題がある.それも,いつのまにかアルツハイマー型痴呆の予防と等価になって一人歩きし始めている.
 下條村を訪ねて気づいたこれらの点は,さきのテレビ放映ではふれられていない.その後,たびたび新聞や雑誌に登場する紹介記事は,きまって「早期にぼけ防止」「進行せず含め9割効果」「集団活動,痴呆改善に効果」といったセンセーショナルな見出しで報じられている.
 新聞紙上で見るかぎり,痴呆もぼけもアルツハイマー型痴呆もみな同じものである.その反響で自治体の職員の見学もあとを絶たない.下條村が悪いのではけっしてない.痴呆症とはなにか,痴呆疾患とはなにかが,一般臨床家の知識のなかでさえなお混乱していること,とくにアルツハイマー病の本質とはなにかが,なおわれわれの間でも混乱していることと無関係ではないように思えた.
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1996/5 老年精神医学雑誌Vol.7 No.5
老年期痴呆症と尊厳死
斎藤正彦
東京大学医学部精神医学教室講師
 痴呆性疾患になった場合,本人の意志によって尊厳死を認めることの是非について議論がある.痴呆性疾患の患者さんを診療し,患者さんやその家族が少しでも楽しい日々を送れるようにと,努力している自分自身や周囲の仲間たちをみていると,こうした議論には少なからぬ違和感を感じる.そもそも,そんなことがなぜ議論になるのかとさえ思う.けれども,「痴呆になってまで生きたくない」という考え方,感じ方は一般の人びとのなかにけっして珍しいものではない.恍惚の人という流行語を生んだ有吉佐和子の小説では,痴呆になった親を介護する息子の家族の間で,「自分はああなるまえに死んでみせる」「ああなってまで生きたくない」といった言葉が繰り返し語られる.自分というものが失われていくことへの恐怖なのか,もっと単純に醜いものへの拒絶,排斥なのか.
 リビングウィルに関連して,痴呆性疾患が問題になるのは,その経過の長さのゆえである.いわゆる尊厳死は,予後の限られた末期がんなどの治療に関して,一定以上の延命処置を拒否するというものであるが,痴呆性疾患の経過は10年余に及ぶ.がんの末期に延命治療をするなというリビングウィルを残すのと,アルツハイマー病になったらその後延命治療をするなというのとはかなり質の異なった問題であろう.
 欧米で近年一般的になりつつある持続的委任権の概念は,自分が何らかの原因によって意思能力を喪失した場合,自分にかわって意思を決定してもらう人をあらかじめ指名しておく制度である.国によって制度が異なり,全般的な成人後見制度に近いものから,医療,経済など限定された領域に関する決定のみをゆだねるものまでさまざまであるが,この制度が高齢者の痴呆性疾患を念頭においているという点はだいたい共通している.わが国では,意思能力のあるうちに行った委任契約が,意思能力を喪失したあとまで有効でありうるか(本人には委任契約を破棄する意思能力がなくなってしまうわけだから)ということについて,明確な指針がない.しかしながら,一部の自治体ではこれに類した後見委任制度を導入しようとする動きもある.
 持続的委任権の制度を導入する場合の精神医学的問題点の第一は,だれがどうやって患者の意思能力を判断するかという点,第二は患者に痴呆性疾患をどの時期にどうやって告知するかという点である.第一の問題解決をむずかしくしているのは,白か黒かを問う法律的思考と,無限の灰色のバリエーションを問題にする精神医学的思考とのすれ違いである.第二の問題の解決は,精神科医や看護婦,臨床心理士,ソーシャルワーカーなどの力量に負うところが大きい.がんなどの場合をみていると,患者がどう受け止めるかによって告知すべきか否かを決めるというのは,たいていは医療従事者,とくに医師の言い訳で,実際は医師の側に告知する能力があるかどうかが告知するかしないかを決めているように感じられる.命にかかわるがんを告知されれば,混乱し動揺し,抑うつ的になったり自暴自棄になる人がいるのは当たり前で,そうした混乱を支える力量が医療者の側にあるかどうかが,がんの告知を可能にするかどうかを決定する.痴呆についても同様であろうと私は思う.私自身についていうなら,脳血管性痴呆については,かなりの場合,検査所見の説明も診断名も告げることにしている.アルツハイマー病については,どう説明すればよいのか,告知後になにが起こるのかを目下思案中である.
 患者さんには治療を受けないという選択を含めて,治療を選択する権利がある.宗教的理由によって輸血を拒んで,自分の命を縮める権利が認められて,痴呆になったあとの身体疾患への延命治療を拒む権利が認められないわけはない.基本的にそうした権利も認められてしかるべきだとは思う.私たちの責任は,運悪く痴呆性疾患になったとしても,家族をして,「ああなってまで生きたくない」と思わせるような生活を患者さんにさせないような社会をつくることであろう.どのような時代になっても,人間が老いの問題から解放されることはおそらくない.治らない病気がなくなる社会もこないだろう.治らない病気を抱えながら,少しでも幸福な老いを生き,安らかな死を迎えるための援助をすることは,病気やけがと戦い,それを克服するのと同じように重要な医療従事者の使命であろう.
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1996/4 老年精神医学雑誌Vol.7 No.4
老年精神医学雑感
武田雅俊
大阪大学医学部精神医学教室教授
 65歳以上の高齢者が全人口の7%を越えると高齢化社会(aging society)とよび,14%を越えると高齢社会(aged society)とよぶ.わが国は,1970年に高齢化社会となり,早くも1994年には高齢社会に突入した.今後も高齢者人口は増え続け,2020年には65歳以上の比率は25%に達し,そのうち75歳以上が半分を占めるようになる.これからは高齢者というより,高齢・高齢者(aged-aged)の問題が重要となる.わが国の平均寿命が世界最長であることは広く知られているが,より重要なことは最も短期間で高齢社会に突入した点にある.多くの欧米諸国が,50〜100年をかけて徐々に高齢化社会から高齢社会へと移行したのに対して,わが国は1970年からのわずか24年間で到達した.多くの場合,たとえ変化量が大きくてもその移行がゆるやかであれば対応できるが,変化が急速であるとその影響は速度の二乗で効いてくる.わが国では,この急速な高齢社会への変化に対して,社会も個人もあらゆるシステムが十分に対応できておらず精神医学においても同様のことがいえる.このような社会のひずみに対して,老年精神医学はその重要性が認識され,社会への貢献が求められている.
 老年精神医学が対象とする疾患として,うつ状態(Depression),せん妄(Delirium),痴呆(Dementia)が知られている.老年期精神障害で最も頻度が高いのはうつ状態であり,高齢者のうつ病については,抑うつ気分がさほど前景に出ておらず,焦燥感や身体症状が目立つという特徴がある.また,近年,高齢者の自殺が問題となっている。わが国の男性では,自殺の年代のピークが青年期とともに老年期にも認められるが,女性ではこの老年期のピークは目立たない.せん妄は数多くの身体的要因により惹起され,複数の身体疾患を合併している高齢者では,容易に起こりうる.せん妄の生化学的理解はいまだ不十分である.
 痴呆は現在,最も深刻な社会問題である.現在125万人の痴呆患者がおり,10年後には200万人,25年後には300万人までに増加する.老年期痴呆の過半数を占めるアルツハイマー病の研究は,急速に進展している.今世紀初頭にA.Alzheimerが初老期発症の痴呆症を報告して以来,老年痴呆と区別されてきたアルツハイマー病は,1980年代にはあらたな生化学的理解にのっとり,老年痴呆と初老期痴呆の両者をまとめて示すようになった.近年は,この広義のアルツハイマー病から,びまん性レビー小体病,前頭葉型痴呆,皮質基底核変性症などが独立した疾患として取り扱われるようになってきた.MRI,SPECT,PETなどの脳画像診断技術と神経心理学の発達により,痴呆の症候学は大きく進展した.さらに,アルツハイマー病の発症に関与する遺伝子として,21番染色体上のアミロイド前駆体タンパク遺伝子(FAD1),19番上のアポリポタンパクE(FAD2),14番染色体上のS182,presenilin-1遺伝子(FAD3),1番染色体上のpresenilin-2遺伝子(AD-4)と,少なくとも4種類の遺伝子の変異が見いだされている.アミロイド線維の沈着,神経原線維変化の形成過程に関する研究が精力的に続けられており,神経科学領域での最大のトピックスとなっている.
 老年期精神障害の診療の場では,さらにもうひとつのDで始まる薬物(Drugs)による精神障害も忘れてはならない.高齢者の合併(というより共存)疾患の多さと薬物代謝の特徴から,常用量を投与していても時に思いがけない中枢神経系の副作用を経験する.痴呆として当科に紹介されてくる患者のなかには,投与されている薬物を中止するだけで症状が改善する者も多い.
 老年期の幻覚・妄想状態では,多くの特徴的な病態を示す症候群が知られている.このなかには短期間で寛解状態になる比較的良性のものと,幻覚・妄想が長期間持続するものとの両方がある.臨床家はまずこの幻覚・妄想状態が良性か悪性か,治癒までにどの程度の時間が必要かを告げることができなければならない.
 老年期の神経症は長い間,不当に軽んじられてきた.精神科外来では高齢者の数が増加しており,思春期・青年期と比較しても,「高齢者の神経症」はけっして少ないものではない.思春期の人格形成過程における神経症ではなく,完成された人格の喪失体験により発症する「神経症」は,既存の神経症の概念を越えるものかもしれない.このような神経症をどのように理解し,どのような精神療法でサポートしていくかは,今後の課題である.
 人の高次判断機能の総体として行動や判断の基準やメカニズムを明らかにし,正常な行動と異常な行動の差異を明らかにすることにより,精神医学は生物学的・心理学的・社会学的な局面を結合した行動科学(behavioral science)として発展していくであろう.もちろん,行動科学の根底には神経科学・脳科学の成果があり,行動科学の臨床適用として精神医学が存在するのであるが,人の行動はつねに他者との関係において意味をもつものであるから,精神医学はきわめて社会的な学問である.
 老年精神医学にとっても高齢者の責任能力,久留間の運転,遺言の有効性など直面する社会的課題は多い.学問的な発展と同時に,これらの社会的課題についてもひとつひとつ対応していくことが期待されている.
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1996/3 老年精神医学雑誌Vol.7 No.3
知能の帰属
佐藤甫夫
千葉大学医学部精神医学教室教授
一人だけ賢くなろうとするのは大なる愚行である
ラ ロシュフコー

 おおまかな言い方をすると,知能とは個人の課題解決能力であるといえるであろう.そしてその能力は,個人に帰属するものと考えられている.しかし,はたしてそうなのであろうか.サバイバルゲームでは,ある文明から切り離された状況を想定して,孤立した人(または人びと)がその状況において直面する課題をどのように解決していくか,その巧拙を問題にする.1つの思考実験であるし,またある程度スリルを伴った遊びの側面や万一のときの訓練の意味もないわけではない.現実にそれに近い状況が起こらないともいえないし,そのような孤立状況におかれれば,個人に帰属する能力がかなり役立つことを否定するわけではないが,これだけで,課題が十分解決できるとはだれも思わないであろう.
 われわれの日常は,いくつかの継続的または断続的に処理すべき問題を与えられている状況である.通常,切迫する危険をさほど意識する必要はないが,サバイバルゲームと最も異なる点は,周囲の人や文明から陰に陽に支援を受けていることである.知的能力が課題解決能力であるとすると,周囲の応援を受けて解決している部分は個人に直接帰属する能力ではなく,周囲に帰属するべきものである.にもかかわらず,われわれはそれをある個人や自分に帰属すると考えているのではないだろうか.
 つまり,直接個人に帰属する部分と,それを補う周囲に帰属する部分をあわせて,いつのまにかその個人の能力であると考えている.これはバーチャルリアリティに似た現象である.
 virtualとは,光学ではレンズが結ぶ虚像のように,実体と異なる人工的架空の性質を指している.力学では仮想変位のように,現実にあるいは思考実験として可能なものを意味する.通常の意味は,もちろん“事実上”や“実質的に”であろう.そしてコンピュータグラフィックスでは,人工的虚構であるが実体感を伴う技法の産物をvirtual realityとよんでいる.つまり,fictitious but almost realに見えるもののことである.
 リアルに見えるものを精神全般に適用すると,リアリティとは,そう感じられ,考えられ,信じられるもの,となるであろう.一般にそう考えられていても一歩踏み込んでみると,その根拠や理由が確実ではないことが多い.根拠を絶対的であると信じるのは宗教の世界であろうし,根拠が妥当かどうかつねに自分に問い続けるのは哲学である.主として感性のなかに妥当な根拠を見いだすのは芸術の世界である.リアルな部分と,まだ非リアルな部分との間の因果律から根拠を確かめ,リアリティを広げていくのが自然科学であろう.こう考えると,バーチャルリアリティ類似の世界は意外に広く普遍的である.
 とはいうものの,個人の知能がバーチャルリアリティであるというと,種々の異論があるかもしれない.知能の帰属をそう厳密に考えなくてもよさそうであるし,たとえば,身近な人や座右の書にあたればすぐに役立つ知識は,その人に帰属させてよいものであろう.時間に余裕があれば,遠方の人に相談することも可能であろう.そのようなプラスアルファも含めて,事実上その人の知能や能力と考えてもよいかもしれない.ソクラテスの産婆術を持ち出して,「われわれはなにも知らないのだ」というつもりはないが,われわれの身辺には,蔵書,先輩,同僚,友人,知人など,一見目立たない“後見人”が存在している.少なくとも,周囲との知的交換のなかに,人は位置している.
 痴呆は,医学的には個人の病的状態である.ある人の身辺に重大な問題が起こると,まずその人の能力が問われ,痴呆の有無が問題になる.痴呆や加齢性変化は,知能の場合よりも個人に帰属する面が多いかもしれない.しかし一方では,廃用性萎縮論のように,現代文明がdetrainingやdisengagementの状況を,伝統的慣習によりそれと気づかずに放置なしい強制していることも確かである.自然な後見人をもたない状況では,たとえ有能な人でもサバイバルは意外にむずかしい.老人を孤立状況において観察するようであれば,老化は困惑すべきバーチャルリアリティになるであろう.
 高齢化社会は,われわれがまだ熟知していない社会である.高齢化社会即痴呆・福祉の社会というとらえ方は,高齢者の参加を知らず知らずのうちに拒んでしまう傾向が,現代文化のなかにみられるために生じるものでもある.知能と痴呆の帰属を含め,高齢化社会をつねに新しい眼で見つめ,問い直す必要が,まだまだあるのではないだろうか.
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1996/2 老年精神医学雑誌Vol.7 No.2
ファジーな長寿医療を目指す
遠藤英俊
国立療養所中部病院・長寿医療研究センター
 近年,コンピュータの分野でファジー理論が導入されている.複雑なものやあいまいな概念をそのまま数式や機械,システムに取り入れるということであると理解しているが,私は長寿医療はファジーではないかと考えている.なぜなら,長寿医療が対象にしている老年病が循環器や呼吸器疾患と異なり,漠然としているからである.また,高齢者を相手に仕事をしていると,病気以外に家族問題や社会問題を抱えていたりする人が多く,さらに,治らない慢性病をもったままの高齢者をどのようにして,いつ家や施設に帰すかに苦労することがある.
 また一方で,老年医学とは何であるか明確に定義しがたいところがある.老年病を対象にして,老人を全人的にみると定義されても,何のことかよくわからない.人によっては神経内科や精神科を専門にしているであろうし,漠然と「老人を専門的にみる内科」とはいうものの,一般病院ではなかなかファジーな老年科を受け入れてはくれない.大学教授からでさえ,「老年科ができると患者をとられてしまう」という発言が聞かれる始末である.
 とはいっても,われわれの目指すところは健やかにして豊かな長寿社会の創造である.老年医学は病んだ臓器をみるだけではなく,病んだ高齢者を包括的にみる必要があろう.そのためには身体所見のみならず,既往歴,認知機能(痴呆の有無),社会背景,家族背景,経済状態,さらに福祉サービスの利用や心理状態までもが治療や相談の対象となる.そして高齢者のQOL(生活の質)の向上を目指すことが重要である.こうした多岐にわたる分野を正確に1人の医師が把握することは困難である.そこで高齢者包括的アセスメントを用い,それをもとに看護婦,PT(理学療法士),OT(作業療法士),臨床心理士,介護福祉士,薬剤師,ソーシャルワーカーなどが参加し,チーム医療が行われる.アセスメントは痴呆,尿失禁,転倒しやすさなどの項目が含まれるチェックリストからなっている.オーストラリアでは,老年科医が行政地域のチームに参加し,福祉に積極的に協力している.われわれも今後は,地域保健や福祉にかかわる必要があると考えている.
 その先駆けとなるものが公的介護保険ではないだろうか.介護保険は平成9年に導入が予定されているが,在宅介護を要する人に必要なサービスは介護保険でカバーしようというものである.その内容はまだ検討中であるが,高齢者ケアアセスメントをして介護度を認定し,その介護度にあわせてサービスや費用を負担しようとするものである.しかし,だれがその判定をし,だれがどのような認定をするのかが課題であろう.ドイツでは1995年4月に介護保険が開始されたが,不公平さや認定に時間を要することなどが問題となっている.そこで,この介護保険に対して,福祉関係の人だけでできるのか,日本医師会や地域の医師がどう関与するのか,関与しないのか,意見の分かれるところである.ともあれ,少なくとも高齢者にとって利益をもたらすものであってほしい.この介護保険が成功するか否かで,将来の高齢社会の安定性,快適性,経済問題のすべてが影響を受けるであろう.
 愛知県大府市にある長寿医療研究センターは1995年7月に開設したが,今後,長寿に関する研究を中心に運営される予定である.そしてきたるべき高齢社会に対応するために,長寿医療はどうあるべきかを種々の分野で議論している.議論のテーマは痴呆の病態解明と治療,骨粗鬆症の解明と治療,老年病の予防,寝たきりの予防,ハイテクの応用,在宅医療のシステムづくり,高齢者総合心療,新ゴールドプランのサポートと問題点の検討,医療保健福祉ネットワークのシステムづくり,生活環境科学,終末期医療そして高齢者の倫理問題などである.それぞれが重要で,一朝一夕には解決できないものばかりであるが,今後われわれが避けて通ることのできない課題である.柔らかくファジーな発想と力づよいフットワークで豊かな高齢社会を迎えたいと考える次第である.
 最後に,余談であるが,長寿医療研究センターは全館禁煙を打ち出している,また院長はじめ「人の和」が大事であると考えている.先生方の協力と参加をぜひお願いしたい.
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1996/1 老年精神医学雑誌Vol.7 No.1
高齢者の孤独と不安
小林敏子
大阪市立弘済院附属病院副院長
 特別養護老人ホーム入所者や老人病院の入院患者の様子をみていると,女性は気軽に仲間をつくり,人の世話をやくが,男性は孤立して無口でいることが多い.配偶者をなくした場合も,女性では比較的短期間で気持ちを整理して寂しさから立ち直ることが多い.夫が亡くなってから,それまでにできなかったさまざまな楽しみを手にし,生き生きと過ごして寂しさを周囲の人に気づかせない人もいる.男性では,落胆のあまりか,あるいは真に愛情が深いためか,妻のあとを追い,1年以内に亡くなることが多いといわれている.
 わが国では1994年に高齢化率が14.1%となり,65歳以上の高齢者数は1750万人を超え,一人暮らしの高齢者数は200万人を超えた.今後も一人暮らしの高齢者は増え続けるであろう.一人暮らしの高齢者の大半は女性であるが,あまり孤独で悩んでいるといわれないのは,その覚悟が早くからできているためであろうか.それとも子どもや友人と親しく付き合う術にたけているためであろうか.
 杉村春三氏が孤独な高齢者の病態像として次のような点をあげている.(1)身体面の衰弱感,不全感があり不精になりやすい,(2)自尊心の喪失,老衰による劣等感,敗北感がもたらす無力感,(3)社会的役割の喪失,経済的貧困により受けるみじめさ,(4)清掃,整理,洗濯などに援助が得られず不精になる,(5)日常生活を行う実際的能力の欠如からくる哀れさ.老夫婦で住んでいて配偶者に先立たれた男性の場合,ほとんどの人にこのような面がみられるであろう.しかし,女性の場合は少々体調が悪くても不精が許されない生活に慣らされており,自尊心も社会的役割ももともと少ない.少しぐらい痴呆が生じても,日常生活を何とか自力で乗り越えるように訓練されて長い人生を歩んできている.そのために,失うものが少なく,独りで残されてもあまりショックを受けないで生きていけるのかもしれない.
 老年期にみられる漠たる不安の大きな部分は死の不安であり,裏返せば生の不安である.「あと何年生きられるか」「自分の人生にはたしてどのような意味があったのか」「体調が悪くなったとき,だれが世話をしてくれるのか」「愛する人が先に逝ってしまったらどうしよう」,このような不安は男性よりも女性に多くみられる.うつ状態や心気症状を呈して病院を訪れることもしばしばであり,幻覚・妄想状態を呈することも女性に多い.二世帯同居や三世帯同居で生活しながら,孤立にさいなまれることも女性に多い.人生の早期に両親との分離体験がある人に不安が出現しやすいとの調査もあり,老年期にみられる種々の精神症状と生育歴,性格との関連は深いが,中年期,熟年期の人生に対しての満足度とも大いに関連があるように思われる.
 神谷美恵子氏の中年女性に対する調査で,子育ての期間中に社会から隔絶され,子どもや夫をとおして社会との一応の繋りはあるが,自分だけが取り残されていると感じている人が多く,自己実現の機会を喪失せざるをえなかった女性たちは,子どもの成長や趣味を楽しんではいるが,時々,心の底からワーと叫びたくなるような底知れない孤独に陥る,と報告されている.その後,空の巣症候群や思秋期を経て老年期を迎え,孤独に対しては一見強くなっているようにみえるのであるが,やはり自分の人生は何であったのであろうと悶々とする人が多いように思われる.当院での過去3年間の外来患者初診時の問診で,その時の心理状況について調査した結果は,次のようなものであった.配偶者があり,子ども世帯と同居している場合には,幸せ,楽しい,生き甲斐があると回答した者は男性に多く,女性では約半数であった.独居者では男女とも,不安である,寂しい,憂うつと答えたものが多くみられた.ホーム入所者では,幸せ,楽しいと答える者が約半数みられるのに対して,独居者で幸せ,楽しい,生き甲斐があると答えた人はほとんどいなかった.
 向老期や老年期の女性の不安や孤独のなかには,燃焼しきれなかった人生への思いが秘められているように感じられる.「歳をとったらこんなものです.とくにどうということはありません」といいながら,担当医にあうのを楽しみに外来通院している高齢独居者の孤独を,筆者はこのごろとくに感じるようになっている.高齢者の孤独を軽減することはなかなか困難であるが,家族や友人,そして地域の人びととの交流が種々のかたちで深められることを願う.
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