1994/12 老年精神医学雑誌Vol.5 No.12
画像診断の進歩と老年精神医学
笠原 洋勇
東京慈恵会医科大学附属柏病院精神神経科助教授
 CTやMRIの出現によって,老年精神医学は大幅に進歩した.老人の精神障害は,一般的には正常と異常の区別がつきにくく判然とせず,また治療しても仕方がない,治らないなどの先入観がさきにたち,顧みられていなかった.20年まえまでは,老年精神医学のなかでも最も重要な疾患である痴呆は,関心をもたれることがなく暗黒の大陸だった.高齢人口の急速な増加で,精神医学のみならず多くの医学の領域において老人を対象とするとりくみを余儀なくされた.時を同じくして,画像診断が登場し,老年精神医学の分野においてもきわめて重要な役割を果たすようになった.この結果,明らかに学問的にも,臨床的にも,介護のサービスにも発展をみるに至った.最近の画像診断の進歩は,なによりも全国各地で検査が受けられることにある.すでにわが国のMRIは2,000台を超え,施設によっては2台あるいは3台備えているところもある.
 脳の画像は,MRIの全記録のうち約4割を占めており,臨床的には欠かせぬ検査となっている.かつての神経放射線の名人芸にも似たテクニックからみれば,非専門であっても抵抗なく活用できるようになった.筆者は,健康なボランティア老人の協力を得て,脳画像の追跡を行ってきた.その結果,いくつかのことがわかってきた.脳の老化は,生命の予後と関係がある.正常であっても,非顕在性の病的所見が多くなれば,認知機能が低下する.生理的範囲とみなしうる脳萎縮には一定の限界があり,病的に修飾される場合は,脳の萎縮の程度が強まる.委縮や何らかの病変の程度が強い場合には,将来,痴呆の発症の危険がある.脳質周囲の病変は,脳全体のさまざまな所見とよく相関する.視覚判定では,委縮性の変化よりは血管性の変化のほうが出現しやすい,などである.
 ところで,協力して下さるボランティアのお年寄りにはいくら感謝を述べても言い尽くせないが,人間的な味わいある言動には教えられることが多い.ボランティア精神とともに,透き通った人生の結晶をみるような思いがする.80歳代,90歳代ともなると,人間の心はかくもすがすがしいのかと感心する.
 本論に戻るが,CTにより検出した無症候性小梗塞が健康な老人の15%に出現したが,このことを知った当時は大きな驚きを禁じえなかった.これらの所見がやがてうつ病,せん妄,意識障害,幻覚,妄想,痴呆,けいれん発作,などの要因となりうることがわかるにつれ,老年期の病態の解明が画像によって一歩進んだことになる.一方,MRIはさらに新しい情報をもたらしてくれた.当初得られた所見は,意味不明のまま剖検脳と比較することによって解明されていった.しかし必ずしもすべての所見が説明されているわけではない.皮質下高信号域は,長い非側副性の穿通血管に分布している.このような病変すべてに共通するのは,組織水分の増加を伴う脳実質域の損失であり,結果として信号強度の増加となって現れる.つまり,最終的には細胞外液で満たされたトンネルの広域網様構造であって,1843年にDurand-Fardelによってétat cribleéと名づけられた所見である.そして,その原因については諸説があるが,それぞれ部分的には正しいことが明らかになりつつある.ここに1つの仮説がある.高齢者における無症候性の皮質下高信号域に共通する項目は,脳の低灌流と細動脈疾患である.さらにその原因は,低血圧,心疾患,低酸素症,高血圧,老化である.高齢者で白質に変化がなければ,おそらく老化が成功裏に進んでいるあかしと考えてよいというものである.われわれの成績では,明らかに白質の高信号域が増えると,記銘力が低下するという結果が得られている.この白質病変は上記の無症候性梗塞よりはるかに多く,69%に出現する所見であって,梗塞とは異なる.
 このように,画像は老年期の精神障害をみるうえで重要なてがかりを与えてくれる.かつては死後の剖検によってのみはじめて知りえた多くの所見が即座に臨床の場で明らかとなるために,正確な把握を可能にしてくれる.しかし,残念ながらこれに対してはまだ具体的な対応法が確立されていない.
 ところで鋭敏な画像は,診断に対してどれだけ役立っているのだろうか.とくに痴呆診断のうえで欠かすことができないにもかかわらず,いまひとつ決定力に欠ける思いは多くの人びとが味わっていると思う.画像診断が進歩したぶんだけ,これからの課題が増えている.あらためて求められているものは,MRIと剖検脳とのつきあわせである.このような調査結果ができる施設は限られているが,早急に知りたいことの一つである.両者の解明は,診断,治療にあらたな情報をもたらすことになる.
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1994/11 老年精神医学雑誌Vol.5 No.11
老年期のうつ病と痴呆
―自尊心をめぐって
佐藤 光源
東北大学医学部神経精神科教授
 精神医学が患者の体験世界を対象にした学問領域であることは言をまたない.このため医師の観察結果は,必ずしも患者の意識的な体験世界を正確にとらえているとは限らない.そこには埋めがたい落差があって,医療と医学に隔たりを生じやすい.確実な観察結果をもとに,自然科学的な方法を駆使するだけで解決に向かう身体医学との決定的な違いがそこにあり,老年精神医学もその例外ではない.
 ある日,外来に「老人ぼけが始まった」と娘が78歳の母を連れて来た.最近,もの忘れが目立ち,話はまとまらず,夜電気をつけずにたたずんでいたり,ガスをつけたり消したりする無意味な行動を繰り返し,入浴もしない.両便失禁のためにオムツが必要で,夜間徘徊が目立つという.たしかに娘の観察結果は,痴呆と思わせるものである.しかし,本人に時間をかけて聴いてみると,貧困,罪業,微小,心気妄想といったうつ病性妄想による異常行動であって,抗うつ薬と精神療法で完全に寛解した.
 数年まえ,定年まで有名進学校の数学教師を務めた患者がいた.痴呆かうつ病かの診断をめぐって,診断会議で面接が行われた.多数の医師の面前に出るだけでも苦痛なようすであったが,面接担当医は型どおりに暗算を進め,やがて二桁から一桁の数字を引くことになった.そのときの患者の屈辱に満ちた不機嫌な表情が忘れられない.結局答えは得られず,老年痴呆と診断されかけた場面も脳裏に鮮やかである.やがて,そのうつ病患者はほほぼ寛解して退院した.
 老人の体験世界を知るのは容易なことではない.高齢化が進んだ今日でも,総人口に占める65歳以上の老人の割合は15%に満たない.老人は,その多くが社会の第一線の活動から身を引いたマイノリティ集団である.老年期を経験しない約85%の年代が,老人の心を十分に追体験するのは至難のことである.貝原益軒の養生訓に「人生五十に至らざれば血気いまだ定まらず,知恵いまだ開けず,古今に疎くして世変になれず,言うあやまり多く,行い悔い多し.人生の理も楽しみも未だ知らず」とあるが,いまでは人生六十五に至らざれば…かもしれない.社会の構成年齢層の大半を占める年代からは,老人は尊大で頑固で,自尊心が高すぎるともみえる.しかし,苦節を越えて生きた証しの自尊心が崩れたとき,老人が落ち込んでうつ状態になっても何の不思議もない.
 今年の6月に第19回国際神経精神薬理学会がワシントンD.C.で開かれた.老年期うつ病のシンポジウムでAlexopoulosは,全科の老人入院患者の40%がうつ病または軽症うつ病に該当し,脳血管障害の24%,アルツハイマー型痴呆の13〜31%がそれに該当すると述べていたが,これほど頻度の高い老年期障害も少ない.悩みと悲哀にみちた老年期のうつ病は,葛藤やフラストレーションさえ認知できなくなった痴呆と,対極をなしながらも隣り合わせのところにある,「ぼけ」等老人とは知的能力全般に多少なりとも低下がある場合を意味し,器質性病変が推定できれば「痴呆」,病変が明確でなければ痴呆「等」と規定する1)のだそうで,あわせて「ぼけ」等老人として対策が論じられている.ぼけ「等」の多くがうつ病などの機能性精神障害であることは,精神科医なら周知のことである.そうした老人を「ぼけ」等老人とよんで痴呆に準じた処遇をしたりマスコミで報道することは,揺らいでいる老人の自尊心を完全に打ち砕くことになりはしないか.
 うつ病と痴呆の病像をあわせもつ一群は意外に多く,偽痴呆,うつ病性(メランコリー性)痴呆,可逆性痴呆性障害などとよばれてきた.われわれは可逆性痴呆症候群とするのが妥当と考えているが,自尊心への配慮がとくに重要な一群である.医師の診断で家族や看護者が痴呆として対応すると,その後の転帰と患者の人生は大きくかわってしまう.存続する精神機能を強化するのが精神医学の役割であって,老年精神医学ほど心と脳の知識が要請される領域はないといっても過言ではない.

[文献]
 1)福武 道,佐分利敏彦:明日の医療1;高齢化社会.124,中央法規出版,東京(1986).
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1994/10 老年精神医学雑誌Vol.5 No.10
老人は薬にどう弱いのか
青葉 安里
聖マリアンナ医科大学神経精神科教授
 「老人は薬に弱い」.この一般的にいわれている現象がなぜ起こるのか,これを研究テーマにして取り組んだのが,もうかれこれ15,6年まえのことである.当時,世間の老人病院では「老人は薬に弱い」という現象を逆手に取って,徘徊老人をあっという間に寝たきり老人にしてしまうという薬づけ医療が幅を効かせ,おおいにひんしゅくを買っていたものだった.「歩いて入院した老人が,三日で車椅子,一週間で寝たきりになった」などという話がまことしやかに喧伝されたものである.こういう時期であったので,老人に対する適正な薬物療法を確立する,ということを最終ゴールにした私たちの研究は,進むにつれ,また発表するにつれ,世間からおおいに注目されるだろうとばかり思っていた.何というよい眼のつけどころだろうとひそかに自画自賛していたのである.
 最初に手がけたのはハロペリドール,次に手がけたのがクロルプロマジンであった.薬の血中濃度を測定してトータルクリアランスを算出し,年齢との相関を調べたところ,この2つの抗精神病薬は見事な対比をみせた.個人差はあるものの,ハロペリドールのクリアランスは年齢の影響を受けないのに対し,クロルプロマジンでは65歳を過ぎるころからクリアランスが急に低下する人が増えた.この所見をいくつかの論文にしたり,学会で発表しているうちに,またたく間に数年が過ぎた.しかし,世間の反響はゼロに等しかった.「老人にはクロルプロマジンは使わないほうがよい.使うとすればハロペリドールだ」と繰り返し言うのだが,だれも注目してくれないのである.私たちはなかばやけになって,抗精神病薬の次は抗うつ薬,その次は抗不安薬と,手がける薬の種類をどんどん増やし,手当たりしだいに血中濃度を測定していった.この薬は加齢でクリアランスが低下する,この薬は低下しない,ということをステレオタイプに発表していったのである.そして十年が過ぎた.反響はゼロではなくなった.ゼロではなくなったが,予想よりはるかに低調であった.
 この研究過程で少しずつはっきりとしてきたこと,危惧すべきことがあった.それはいわば薬物動態学的研究のもつ宿命的な弱点ともいえるものかもしれないが,一言でいうと,薬が人間の身体の中でどう動くかということと,その薬がどう効くかということとは,関係がありそうでありながら,実はほぼ無関係なのではないかということである.つまり,薬のなかには高齢になるにしたがって肝臓でのクリアランスが低下するものがたしかにある.ここまでは事実であり,私たちの研究成果である.しかしその事実と,その薬を使った場合に老人では必ず副作用を起こすということとは,明らかに別問題なのである.このことは一つの所見として大切なことではあるが,一方で,これが私たちの研究が絶大とは程遠い反響しか得られなかった最大の理由であった.
 それでは,老人と薬物療法,とくに向精神薬についての研究は今後どういう方向にすすむべきかを考えてみる.いま臨床を行ううえでもっとも不足しているものは,薬力学的な情報である.すなわち,老人は薬になぜ弱いのかではなく,どう弱いのかということ,とくに向精神薬の場合は,薬に弱い結果として,老人の脳にはなにが引き起こされてくるのかという情報である.これは単純に向精神薬の中枢神経系に対する副作用と考えてもよいのだが,ここでいうのは,たとえば薬によって眠りこける,幻覚が現れる,見当識が障害されてまるで痴呆のようになるなど,覚醒度が著しく損なわれてしまうようなだれの目にも一目瞭然の,いわば見える副作用ではない.何となくぼんやりとしている,注意力が低下した,ケアレスミスが多くなったなどといった,日常生活を送るうえでそれほどの支障がないために患者やその家族はもとより,医師にもなかなか見えてこない副作用,正確には,見えるまえの副作用,あるいは水面下の副作用ともいうべきものである.これを放置しておくとやがて水面上に現れ,重篤な見える副作用に発展していく可能性のあるもの,これが実は臨床的にもっとも重要なのである.
 この研究を行ううえで第1に必要なことは,現在は目に見えないが,確実に薬によって起こっている認知機能障害を,加齢による生理的な認知機能の低下から識別するためのテストを開発することである.そして第2に必要なことは,向精神薬を投与されている老人にこのテストを施行し,認知機能の障害と薬との間に明らかな因果関係があり,この因果関係は老人において特異的であるということを証明することである.そして最終的なゴールは,向精神薬のなかで老人の認知機能に影響を与えるものと与えないものを区別し,この情報を臨床の場に提供することである.
 そこまでやり遂げると,これまで私たちがやってきた薬物動態学的な研究がはじめて本物の成果として日の目を見ることになるのである.
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1994/9 老年精神医学雑誌Vol.5 No.9
痴呆専門病棟運用の経験から
道下 忠蔵
石川県立高松病院名誉院長
 筆者の勤務する病院では,偶然のことから,昭和47年に老人病棟100床(うち50床は器質障害用)を増床したが,その後の急速な老人性痴呆治療施設へのニーズの高まりのなかで,痴呆専門病棟を昭和60年に50床,平成4年春にさらに50床増床し,老人性痴呆の治療・ケアにとりくんでいる.いかに,20余年に及ぶ痴呆病棟運用の経験から,思い出や印象に残ることなどを述べてみる.
 昭和45年,当時はまだ入院を要する患者が多く,当病院でも超過入院の状況が数か月続いていた.しかし,公立病院での超過入院は好ましくないということで増床の検討が行われた.ところが,すでに県内の精神病床数は人口1万対25の基準を超えており普通の精神病床の増床はむずかしく,増床するとしたら医療法施行規則の特例による老人病床しかないといわれた.さきに偶然のことからと述べたいきさつは,このような事情である.
 同年秋に老人病棟100床,保護室8床増床の方針が決められ,病院をあげて準備にはいった.老人専門の病棟ははじめての経験のため,すでに老人病棟を運用している先進病院の視察,看護職員の研修派遣等準備は大変であった.視察のなかで印象に残っているのは,当時の単科精神病院の老人病棟では50床のうち8割は分裂病を主とする機能性精神障害患者で占められ,老人性痴呆患者は2割弱という比率で,痴呆患者は介護に手数がかかるから2割以内に制限せざるをえないといわれたことである.また,翌年の春には欧米医療施設視察団に参加し,ロンドンのモーズレイ精神病院を訪れ,竣工したばかりの50床の老人病棟を見学することができた.病室の色彩などいわゆるカラーコンディショニングの現物に接した印象がいまでも鮮やかである.筆者の病棟でもドアの色彩等に採用したのであるが,実際に運営してみると,重度痴呆の患者にはドアの色の違いの識別すら困難ということも思い知らされた.
 いま一つ印象に残っていることは,身体合併症対策である.老人病棟開設後必要に迫られ,身体合併症診療のために,内科,外科(整形外科),耳鼻咽喉科,眼科,皮膚科など各科の医師に嘱託医として週1,2回来診していただくことになったが,このうち耳鼻咽喉科と眼科については地元民の要望から外来診療も行うことになり,とかく敬遠されがちな精神病院が地元から親しまれる病院になったという慮外の副産物も得られた.入院治療を要する身体合併症発生に際しても,嘱託医を通じて一般病院への転院が容易になった.
 平成3年度には3階建ての痴呆専門病棟(150床)が新築され,2,3階は療養病棟として従来の病棟に入院中の患者を転棟させ,1階は老人性痴呆疾患治療病棟として運用されることになった.この機会に,従来の痴呆用の2つの病棟において昭和61〜平成2年に退院した患者延べ348人(実人数310人)について解析したので,その要点を紹介する.
 (1)年別の退院者数については,昭和61年には41人であったが,年ごとに増加の傾向にあり,平成2年には101人と2倍以上になっている.病棟スタッフの努力,老人保健施設,特別養護老人ホーム等の受け皿が増えたこと等が原因と思われる.
 (2)病名別平均在院期間については,平均値は637日であり,初老期痴呆が1,091日と最も長く,夜間せん妄が104日で最も短かった.
 (3)入院経路は,直接が120人で最も多く,次いで他病院からの転院が110人であり,これら2つで大半を占めるが,他の精神病院からも25人あった.
 (4)退院先は,一般病院が74人と最も多く,自宅70人,死亡63人と続いている.代表的な2つの痴呆の転帰を比較すると,アルツハイマー型痴呆では自宅,施設,一般病院などへ平均的に退院しているのに比べて,脳血管性痴呆では死亡退院する率がたいへん高い.脳血管性痴呆の予後の向上が,今後の課題であろう.
 痴呆専門病棟には,周知のように治療病棟,療養病棟それぞれの施設およびスタッフの配置基準が定められている.筆者も平成2,3年の2年にわたり,厚生省長寿科学総合研究の「専門病棟整備に関する研究」に携わり,痴呆専門病棟の検討にかかわったのであるが,基準にのっとった病棟を運用してみての所感1,2を率直に述べさせていただく.
 まず,建築面において回廊式の50m廊下の必要性は疑問である.この基準については,本年4月の老人医科診療報酬点数表関連告示で,「回廊式廊下または両端にデイルーム等の共有空間がある老人の行動しやすい廊下を有しているものであること」と一部改正された.また,病棟に隣接してつくられる在宅療養訓練室は一度も使ったことがない.看護等の職員は,治療病棟が看護婦等9人,介護職員10人,療養病棟は看護婦等9人,介護職員7人となっているが,当病院では従来の経験に照らして各病棟に22人の看護スタッフ(うち看護助手3人)を配置しても,なお足りないくらいである.
 21世紀に向け,痴呆専門病棟はなお10万床程度整備を要するといわれるなかで,痴呆専門病棟について検討する際に,他山の石として参考の一端になれば幸いである
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1994/8 老年精神医学雑誌Vol.5 No.8
老齢
―永遠の課題
濱中 淑彦
名古屋市立大学精神科教授
 老年精神医学geropsychiatry(Busse;1954,1973),geriatric psychiatry(Ginsberg;1955),Alterspsychiatrie(Ruffin;1960),gérontopsychiatrie(Villa;1964)なる概念が登場したのは,たかだか40年まえのことである.当時「寿命の延長とともにpsychogeriatric patientsの数が確実に増大し」(1961),psychogeriatricsの名称は「さして成功したとは言えないが一般的に受け入れられつつある」(1967)と述べられている.老年医学geriatrics(Nasher;1909)と老年学gérontologie(Metchnikoff;1903)の起源はこれより以前にさかのぼるが,それでも今世紀初頭であり,後者は死の学thanatologie(1903)とともに提案されたのであった.
 とはいえ老年期精神疾患,老年病,老年についての学が,それ以前に実質的に存在しなかったわけではけっしてない.老年期精神疾患の記述には,ピック病(1898,1926)やアルツハイマー病(1906,1926)の記載と前後するKraepelinの教科書(1910,8版)は無論のこと,B.Rush(1809)やE. Esquirol(1833,1837)らの精神病論にもすでに特別の章が設けられている.老年病に関する初期の単行本(Canstatt;1839,Geist;1857,1860)が刊行された19世紀中葉には,昨年に没後百年の記念行事が行われたCharcotもまた,La Salpêtrièreの病院の老年女性病棟医長(1861,36歳)として仕事を始めて失語の剖検例を報告し,老年病についての名講義(1869)を残したのであった.老年痴呆“Amentia senilis”(B. de Sauvages;1731,1768)とその症状記述(W. Salmon;1681)に至っては18世紀以前にさかのぼり,古代にもすでにGalenos(2世紀)が,今日の痴呆ないし精神遅滞の知能障害者に該当するmorosis,moriaとその最重症状態のanoia(=amentia)が老年期に出現することを体液学説によって論じ(濱中;1986),他方でCaelius Aurelianusは老年期の疾患の特異性を説いた.
 老年についての総合的科学が,高齢化社会においてますます焦眉の課題となり,わが国でも長寿科学sciences of longevityの大規模な研究事業(厚生省)が発足(1990)したが,長寿の学もまたいうまでもなく,20世紀末になって突如として登場したわけではない.「長寿学」は,若冠34歳のChr.W. Hufelandが,文豪GoetheのWeimarの自宅で行った講演に基づく著書“Die Kunst das menschliche Leben zu verlängern”(1793)の第3版“Makrobiotik”(1805)に由来する.これは当時から広く読まれて今世紀にもなお版を重ねて英訳(1867)も刊行され,わが国でもすでに蘭学時代に扶歇蘭土または扶歇蘭度,略して扶氏の名著として抄訳(宇都宮三郎訳「長生真訣」;1862,辻恕介訳「長生法」;1867)が和蘭語訳より試みられている.彼の時代にすでに読まれていたG.van Swieten(1778)などにつながる貢献であり,のちのC.E. Brown-Séquard(Voronoff;1926),E. Steinach(1920)らの回春の研究とも無縁ではない.なお長寿学というと,もっぱら寿命を伸ばそうという意図だけがあったかのように解されがちであるが,必ずしもそうではでなく,老年をいかに充実したものにするかという問題,現代の世界で喧伝されている“quality of life”の視点もみられるのである.ちなみに彼と同時代のロマン派医学者Ph. C. Hartmannにも著書“Glückseligkeitslehre für das physische Leben der Menschen”(1808,英訳あり)があり,これは“Kalobiotik”(良く生きる術・学:Lesky,1965)であると評価されている.それはつまるところ,古代ギリシャの生活法Diaitiaの延長上にあって,中世に数多く著された「長生について」(De vita longa, L. Cornaro;1558)や「老人の手引き」(Regimina senum),「老人介護術」(Gerontocomia, G.de Zerbis;1489)の伝統(シッパーゲス「中世の患者」,1993)を継承するものであった.
 つまり老年精神医学と老年医学は,老齢に固有の病的現象とその診断・治療を研究する科学に違いはないとしても,実際に対処しなければならない数々の問題は究極のところ,いつの時代にあっても人間が直面する老齢と死という難問から切り離しえないように思われる.それは「老齢とは望ましきものか否か,しかりとすれば,いかにして長寿を達成し,否であるなら,いかに理解して対処すべきか」という医学を超え,洋の東西を問わずつねに存在したアポリアである.西欧の例をあげるなら,老齢そのものがすでに病であるとすら極論する悲観的見解は,聖書の「伝道の書」や古代のSokratesとSeneca,中世のR. Baconにみられるのに対して,聖書のダヴィデ王は長寿薬を求め,Platonらは老齢の美徳を讃えたのであった.そこには,人間が長寿を望みながら老齢に達するとこれを嘆くという両価的態度が反映されているのであろうが,いま一つ,ことに若い世代の人間にとって,老齢の抱える諸問題を実感をもって自発的に理解することはきわめて――核家族の時代にはますます――困難だという難問も忘れられないであろう.とはいえ,いつの時代にあっても至難なこの課題は,深刻このうえないものには違いないとしても,しかもなお同時に人生についてわれわれが学ぶところのつきない偉大な教師といえるかもしれない.
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1994/7 老年精神医学雑誌Vol.5 No.7
脳表へモジデリン沈着症の研究をめぐって
桂木 正一
熊本大学医学部神経精神科教授
 厚生省が編纂した平成4年度版の「我が国の精神保健」によると,10都道府県市の在宅の痴呆患者を集計した結果は,男女により若干の差はあるが,アルツハイマー型痴呆と脳血管性痴呆をあわせたものが70%強で大部分を占め,鑑別困難な痴呆とその他が合計で20%強を占めている.この結果は,調査された10都道府県市以外でも,地域により多少のばらつきはあっても,おおまかな傾向はかわるまい.
 研究者の興味は当然のことながら,患者数が多い等の理由により,社会的な問題が強く,医学や医療に対して期待の大きい疾患に向けられる.さきの統計でその他とされた疾患のなかには,クロイツフェルト‐ヤコブ病やピック病など多くの人に知られたものも含まれているが,ここでは患者数がごくまれなことにより教科書的にもほとんど記載されていない.したがって多くの研究者に知られず,興味をもたれることもない脳表へモジデリン沈着症の研究の歴史を振り返り,この疾患が持つ今日的な意義について述べてみたい.
 脳表へモジデリン沈着症は,反復するか少量ずつ持続するクモ膜下出血に由来するヘモジデリンが大脳,小脳,脊髄の表面や髄膜に沈着し,神経細胞の広範な壊死や脳神経系の髄鞘の破壊をもたらす疾患がある.そのため,臨床症状としては神経性難聴,視力障害,小脳性失調,進行性痴呆を主とする精神症状がおもなもので,原則としてどの年齢にも起こりうるが,多くは初老期以降に出現する.
 本疾患の研究は,1940年にH. Noetzelが47歳と59歳の女性の2剖検例を報告したことで始まる.そのなかで,剖検所見として中枢神経系の表層に褐色調の色素沈着を認め,この色素はヘモジデリンであるとした.そして,原因は慢性のクモ膜下出血であり,崩壊した赤血球に由来するヘモジデリンが拡散した結果,脳表層への色素沈着が起こったと考えた.当時すでにヘモジデリンが生体に沈着する疾患として知られていたヘモクロマトーシスとの関連が注目され,その異同が検討されたようであるが,Noetzelと同様の症例を検索したLeweyとGovans(1942)やNeumann(1948,1956)は,本疾患にはヘモクロマトーシスの症状である肝硬変や糖尿病,皮膚色素沈着がないこと,ヘモジデリンの脳内への沈着の分布が異なることから,本疾患を独立したものとして位置づけた.さらに,IwanowskiとOlszewski(1960)はイヌの大槽内に血液や鉄剤を反復投与し,人の病変に類似した変化を惹起させて,本疾患が髄液内に存在する血液によって起こることを証明した.また,腫瘍や血管奇形など出血源の明らかなものに対して,剖検によっても不明なものがあり,突発性脳表へモジデリン沈着症とよばれている(Rosenthal,1958).
 わが国での報告は,第1例が1965年の小田雅也氏らによる剖検例で,脳下垂体腫瘍に続発するものであった.次いで,1966年の湯浅亮一氏,1971年の木下和夫氏ら,1988年の筆者らによる報告がある.また,筆者らは,木下氏らの報告した症例のその後の経過について1993年に報告した(精神医学,第35巻第10号).
 わが国の報告のなかで,湯浅氏の指摘は,診断は病歴,臨床症状,髄液検査で可能であるとするもので,それまで剖検で偶発的に見いだされてきた本疾患の診断上,きわめて重要な主張であると考える.Pinkstonら(1983)は,頭部CTで造影剤で髄膜のenhance効果があることを主張しており,最近とみに普及してきたMRIにも応用することで,診断のための有力な手段がさらに加わった.このことに加えて,本疾患の臨床症状のトリアスとされた痴呆は必ずしもつねに進行性であるとは限らず,ある程度でとどまり,強度の視力障害,聴力障害をはじめとする脳神経症状と小脳症状をおもな症状とするものがあることも知られてきた.これらのことから,多くの臨床家が本疾患に関心をもたれるならば,痴呆を主症状とする原因不明な神経精神疾患のなかに脳表ヘモジデリン沈着症が見いだされる可能性を否定できないと確信している.
 また,最近では本疾患の定型例ではないが,臨床症状を呈さない程度のクモ膜下出血による,ヘモジデリンの髄膜への沈着が線維成分の増殖をきたし,そのことによって髄液の吸収障害をもたらし正常圧水頭症が惹起されるのではないかとの指摘もあり(木下氏:私信),あらたな目で本疾患が注目されるかもしれない.
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1994/6 老年精神医学雑誌Vol.5 No.6
老年期の発達論を視野に
牛島 定信
東京慈恵会医科大学精神科教授
 老年精神医学といえば痴呆学といってもよいほどに,痴呆が中心になってしまっているかの感がある.本稿の執筆にあたって,先達に習うべく手許の14冊の巻頭言を集めてみたところ,10編までが痴呆に関するものであった.また,先の第3回日本精神保健政策研究会「高齢化社会を迎えて――精神保健政策をどう進めるか」においても,シンポジストの各講演は,それぞれ視点の違いはあっても,すべて痴呆患者の扱いをめぐるものであった.
 現在,94万人いるといわれる痴呆患者をどうするか.地域にどの程度の施設を準備したらよいか.痴呆がもたらすさまざまな次元の社会的影響を考えると,たしかに緊急の課題であろう.そのためであろうか.最近,驚くほどに贅沢な生活空間をもった痴呆老人用の施設が次々と登場してきている.さらに,画像診断,神経科学,生理学といった生物学的研究には目覚ましいものがあり,研究発表には勢いがある.痴呆研究に注ぎこまれる研究費は他の追随を許さないし,薬物療法の開発もあとを断たない.
 思春期の患者を診察する機会の多い筆者などには,まさに痴呆老人の天国到来と映るのであるが,老人専門家や家族の叫びにも近い訴えを聞いていると,現実の厳しさはまた想像を越えたもののようである.
 ともあれ,こうした現実を前にすると,昨年,上海で開催された第6回環太平洋精神医学会の席上で,アメリカ精神医学会のM. Sabsin氏が21世紀の精神医学を展望して,これからは生物学的精神医学の台頭に基づく再メディカリゼーションと疫学の発展に基づく社会精神医学を両輪にして進んでいくであろうと述べていたことが思い出される.最近の老年精神医学の歩みは,まさに彼の指摘をそのまま地でいっているかの感があるのである.ただ,ここで申し添えておきたいことは,この講演は20世紀の精神分析がもたらした幻の精神医学にかわって,21世紀には一般市民に福祉をもたらす実践的精神医学の登場を期待してのものであったということである.
 しかしながら,である.前述の第3回精神保健政策研究会で聞いた,痴呆患者家族の「老人がベッドに縛りつけられるなどの悲惨な扱いを受けることを覚悟して施設に引き取ってもらった」という発言や,「ぼけ老人は恍惚状態になっているわけだからある意味ではハッピーでしょうが,介護する家族はたまったものではありませんね」というTVキャスターの発言のなかに認められるジャーナリストの病人排除の思想に対する憤りが,果たして,生物学的研究や社会医学的進歩だけで治まりがつくのかどうか,疑問で仕方ないのである.
 つい先日,若いころから高血圧や糖尿病に罹患し,治療が十分になされないままに中年を迎えたある男性が当科を受診した.その人は多発性梗塞を起こし,神経内科で検査と入院治療を受けて復職可能という診断により退院したが,仕事にならないので担当医に問い合わせると精神科のことはわからないので,専門医に相談するように言われたらしい.診察してみると明らかな痴呆であった.ここで,精神現象にあまり注意をはらわない内科医を非難するつもりは毛頭ない.もしこれが精神科医であったならば,頭初より痴呆ということで復職不可となっていたであろう.
 この患者をみていて感じたのは,この人の人生はどういうものであったのだろうかということであった.さかんに復職したがるのであるが,それが社会からこぼれ落ちることの不安からのものであろうことは容易に想像できた.自分の精神機能の水準に応じて,ライフ・スタイルを変更していくといった姿勢がみえてこないのである.おそらく,この患者のこれまでの人生の歩み方と深く関係していると思われるが,もう1つ忘れてはならないのは,人間はいくつになっても働き,社会の一員として貢献していないと「落後者」の烙印を押されてしまうという社会的価値観が,いまなおはびこっていることと無関係ではないであろうということである.
 そうしたことを考えると,精神機能が順次低下していく老化現象そのものも,情緒的にはまったく同じことである.老化を心理的にみていると,現実世界から徐々に退避し,自分なりの世界をつくりながら,自然のなかに帰っていくところがある.それは,幼児が徐々に現実世界にはいっていくのと逆の過程といってよいであろう.その過程を老人が主体的に創造していくための医療こそが,老年精神医学の真の目標ではないだろうか.そのためには,思春期のように老年期に個有の発達段階というものが決まっていることが必要に思われて仕方ない.最近,young old,old proper,old oldといった分け方があると聞くが,本人の主体性を軸に据えた発達論が待たれるのである.そうすると,痴呆老人にしろ,健康な老人にしろ,われわれの援助の仕方もかわってくるであろうと思うが,いかがであろうか.
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1994/5 老年精神医学雑誌Vol.5 No.5
偽物でないゴールドプラン
伊崎 公徳
福井医科大学精神医学教室教授
 現在,わが国の地方自治体では,国の「高齢者保健福祉推進十か年戦略」いわゆるゴールドプランに基づく「老人保健福祉計画」が策定または実施中である.これは平成11年を目標として,老後の安心を「いつでも,どこでも,だれにでも」保証するプランで,関係する老年精神科医も多いと思う.私も地域の委員として,各関係機関や団体の人たちとその策定案づくりに参画している.この計画は,「保健・福祉」や「生きがい・健康づくり」まで,すべての老人の生活サービスを総合的に扱う,その名のとおりの輝かしいプランである.しかし,達成年度内にそれらが実現可能なのかと問われると,「どうかな…」との不安を禁じえない.策定途中ではあるが,脳裏をよぎる疑問のいくつかを列記してみる.
 (1)痴呆を中心に,老人医療の言葉になじんでいる私は,まず耳慣れない老人福祉用語に戸惑った.例をあげれば,「要援護老人」「要介護老人」「虚弱老人」の定義や,「準寝たきり(ランクA:屋内での生活はおおむね自立,外出には要介護)」と「寝たきり(ランクB:屋内での生活に要介助,ベッドでの坐位可能,ランクC:1日中ベッド生活,ADLの全面介助)」の区別も知らなかった.これらは平成3年11月の厚生省通知「障害老人の日常生活自立度(寝たきり度)判定基準」に基づく用語である.省通知によれば,高齢者は「要援護老人」と「その他の老人(一般老人,一人暮らし老人,軽度の痴呆性老人)」に分けられる.前者はさらに一人暮らしや病気などで生活支援を必要とする「虚弱老人」と,より重症で寝たきりや痴呆性老人などを含む「要介護老人」に区別されている.
 (2)痴呆性老人の疫学で,問題行動や精神・身体合併症の調査数値を目にすることは多いが,このプランでは老人人口の12.6%が「要援護老人」,7.7%が「要介護老人」,4.9%が「虚弱老人」の数値で立案されている.また,「寝たきりでなくかつ要介護の痴呆性老人」を当面,在宅痴呆性老人数(出現率,老人人口の4.8%)の15%と推計把握している.当事者には有意な数字であろうが,福祉用語と同様,これらの数値についても福祉・保健の両者に理解可能な説明の必要性を感じた.
 (3)ゴールドプランのなかで最も明確かつ現実的なものは,保険・福祉施設の整備事業である.なかでも特別養護老人ホーム24万床,老人保健施設28万床の増加が目を引く.これは両者とも「65歳以上人口の1%強」を目安に算出されたものであるという.現時点でかなり整備が進んでいるのも,この2施設である.私には昭和30年後半から発生した,わが国の精神病床の急増現象が頭に浮かんだ.病院経営がむずかしい現在であるが,福祉サービスとアンバランスな病床急増は好ましくない.地域性や利用者の特性(身体障害,精神障害など)を配慮した専門施設の適正整備が望まれる.
 (4)施設面の明るさに比較すると,サービス従事スタッフの確保の見通しは定かではない.たとえば,国の計画によれば在宅福祉サービスを担当するホームヘルパーの場合,訪問回数は週3〜6回とされ,達成年度の人員を10万人と見込んでいる.また,必要人員は算定されているが,それまでの研修や養成の具体案は示されていない.現状でも老人保健施設におけるデイケア増設のために,OT・PTの需要が医師以上に困難といわれている.「ハコ(建物)に厚く人に薄く…」の政策では,このプランの実現は困難である.
 (5)現状でもわが国の老人人口は,地域によって著しい格差がある.福井県でも全国平均より数年早いテンポで人口の高齢化が進んでいる.その意味では,地方のプランは国の基準より早く達成される必要があると思う.つまり,地域の老人保健福祉計画策定にあたっては,国の基準を一具体例と考えて,それぞれの自治体に応じたプランを立てることが求められる.しかし,一般に過疎地ほど高齢者が多く,また,財政規模も小さい.このプラン達成への財源をどこに求めればよいのだろうか.国の予算をみても,1991年度のわが国の社会保障費が50兆円を超えたというが,その90%は年金と医療費が占めている.ヨーロッパの各国では,老人対策における医療と福祉の予算比率は1対1であるのに,わが国のそれは10対1の大差で福祉予算が少ないといわれる.このゴールドプランを契機に,安心した老後を保障する新社会資本の充足を願うものである.
 最後に,叱責を承知で駄筆を加えるならば,この計画のなかに「○○センター」の文字がイヤに目立つ.いわく「在宅介護支援センター」「高齢者総合相談センター」「高齢者生活福祉センター」などなど.果たして私を含め高齢者が,これらの施設や機関を理解し,じょうずに利用できるのかと心配である.そして,ゴールドプランがコールド(お寒い)プランになりはしないかと危惧しながら,偽物でない輝きを期待してこの計画実現につとめたい.
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1994/4 老年精神医学雑誌Vol.5 No.4
若年性アルツハイマー病は難病ではないのか?
今井 幸充
聖マリアンナ医科大学神経精神科講師
 昭和30年ころから全国に多発したスモン病の研究体制の整備を契機に,厚生省公衆衛生局は昭和47年7月に「特定疾患対策室」を設け,同年10月に「難病対策要綱」を定めた.以下にそれを示す.
 「いわゆる難病については,従来これを統一的な施策の対策としてとりあげていなかったが,難病疾患のおかれている状況にかんがみ,総合的な難病対策を実施するものとする.難病対策としてとりあげるべき疾患の範囲についてはいろいろ考え方があるが,次のように整理する.
 (1)原因不明,治療方法が未確立であり,かつ後遺症を残すおそれが少なくない疾患(例:スモン,ベーチェット病,重症筋無力症,全身性エリテマトーデス)
 (2)経過が慢性にわたり,単に経済的な問題のみならず介護等に著しく人手を要するために家族の負担が重く,また精神的にも負担の大きい疾患(例:小児がん,小児慢性腎炎,ネフローゼ,小児ぜんそく,進行性筋ジストロフィ,腎不全(人工透析対象者),小児異常行動者,重症心身障害者)
 対策の進め方として,次の3点を柱として考え,このほか福祉サービスの面にも配慮していくこととする.
 (1)調査研究の推進
 (2)医療施設の整備と要員の確保
 (3)医療費の自己負担の解消
 なお,寝たきり老人,がんなど,すでに個別の対策の体系が存するものについては,この対策から除外する」.
 1906年にA. Alzheimerは,51歳の進行性痴呆を報告した.これを1912年にKraepelinがアルツハイマー病(Alzheimer's disease)と称し,独自の疾患として位置づけた.その後,今日までの約1世紀にわたり,アルツハイマー病の病因・病態の解明のために多くの研究者が侃侃諤諤たる議論を重ねた.しかし,残念ながらその原因は現在も解明されておらず,また治療法も見いだされていない.本症の慢性的な経過と痴呆症状に伴う日常生活の破綻は,その介護者に経済的,精神的な負担をもたらすことはいまさらいうまでもない.それゆえFenglerらは,アルツハイマー病患者の家族を“the hidden patients(隠れた患者)”と称し,その家族への介護支援の重要性を指摘しているのである.
 このアルツハイマー病がなぜ,厚生省の「難病疾患対策」の対策疾患としてとりあげられていないのか,素朴な疑問がわく.難病に関する調査研究を充実する目的で,昭和47年には8つの疾患を対象に特定疾患調査研究班がスタートし,その後平成5年度には43疾患の研究班が組織された.そのなかで「診断技術がいちおう確立し,かつ難治度・重症度が高く,患者数が比較的少ないために,公費負担の方法により受療を促進しないと原因の究明や治療方法の開発に困難をきたすおそれのある疾患に対して,特定疾患対策懇談会の意見を聞き選定」されたものが特定疾患治療研究対象疾患,いわゆる特定疾患で,その数は34疾患ある.さらに平成3年から在宅の難病患者を支援するために,各地域に「難病患者地域保健医療推進事業」が設定された.
 アルツハイマー病と老年痴呆(senile dementia)とを同一の疾病とみなす議論が始まったのは,Alzheimerの症例報告から間もないことであった.それからしばらくたった1960年代には,老人斑や神経原線維変化の分布や出現頻度が両者で差がないことなどから両者を同一の疾患とみなし,両者をあわせてアルツハイマー型老年痴呆(senile dementia of Alzheimer type)とよぶようになった.また最近は,アルツハイマー型痴呆(Alzheimer-type dementia)とよぶことも多い.しかし,若年発症のアルツハイマー病は,臨床経過が早く,その早期から著名な認知機能障害がみられ,また家族発生も問題となる症例が多い.また,M. Rothはアルツハイマー病に関する総説で,early-onset typeとlate-onset typeでは明らかにその生化学あるいは神経病理所見に差異がみられることから,両者間のheterogeneityを指摘している.
 アルツハイマー病の診断基準として代表されるNINCDS-ADRDAは,いわゆる老年痴呆を含めたアルツハイマー型痴呆の診断基準であり,若年性アルツハイマー病の明確な診断基準はいまのところない.若年性アルツハイマー病を難病に指定するとしたら,まずはその診断基準が必要である.アルツハイマー型痴呆と若年発症のアルツハイマー病を同一の診断基準を用いて診断している現状では,その対象患者数が大きいことから財政上困窮をきたすことは明白であり,さらに難病対策要綱の「すでに個別の対策の体系が存するものは除外する」の事項に「痴呆性老人対策」があてはまる.
 若年性アルツハイマー病は,特定疾患に指定されず,また65歳以上を対象とした現状の多くの高齢者福祉対策からも締め出されている.若年性アルツハイマー病患者への公的助成は無論のこと,本症の原因解明,明確な診断基準の作成や治療法に関する十分な研究助成体制の確立を望む.
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1994/3 老年精神医学雑誌Vol.5 No.3
老年精神医学をめぐる随想
飯田  眞
新潟大学医学部精神医学教室教授
 私はこれまで老年精神医学とはあまり縁がなかったのだが,気がついてみると,いつしか自分の年齢が還暦を過ぎており,日常の診療でも老年の患者がとみに増加している.これまで手がけてきた中年精神医学の研究(飯田 眞編:中年期の精神医学.医学書院,東京,1990)が一段落したこともあって,この次は老年精神医学を研究課題にしたいと思うようになった.
 これまでも私の教室では,県の精神保健事業の一環として県内の老年自殺の多発地域を調査し,自殺の原因分析の1つとしてのうつ病の疫学的研究や各種の自殺予防対策を行っており,また厚生省の痴呆研究に加わり,痴呆発症における性格と状況の研究なども行ってきた.

 これに加えて,昨年は老年医学に関心をもたざるをえない私的な出来事が起こった.それは90歳になる私の父が,夏に大学病院で胃がんの手術を受け,2か月の入院後無事に退院したことで,遅ればせながら患者と家族の立場から老年医療の問題に直面したことである.
 外科ではがんの告知(これは結局私が行うことになった),手術に対するインフォームド・コンセントなどをはじめて経験した.ターミナルケアも覚悟したが,それにはしばしの猶予が与えられることになった.外科のチーム医療は有効に機能すれば強力な力を発揮するが,患者や家族としてはだれが主治医なのかわからず,まことに頼りない思いをした.
 術後の回復期にはしばらく老人科のお世話になった.ここでは医師はどちらかといえば,全身の検査優先で術後回復にまず必要な食事,睡眠,排便・排尿,運動の確保という単純な治療の原則を忘れているようであり,看護婦はむしろ自立をうながす時期であるのに,幼児に対するかのようなケアを優先しがちで,ともすると老人の人間としての尊厳をおかす危険のあることを感じた.
 術後せん妄をしばしば起こしたので,精神科のリエゾン診察をうけたが,私自身を含めて精神科医はもっと患者の状況把握や面接技術の向上につとめる必要があると思った.父の場合,術後早期の多数の人との面会,義歯や補聴器の故障などが誘因となった.また私自身も普段同居していない父とのコミュニケーションがうまくとれるようになるのに数日を要した.術後せん妄からそのまま痴呆に移行しはしないかと心配したが,外科の友人のいうとおり,その危険率はさほど高くはないらしく,最近父からもらった葉書を読んでもいちおう論旨は整っており,どうやら痴呆にはならずにすんだようである.こうした経験から,老年医学ないし老年精神医学が,私にとってにわかに身近で切実な問題になってきたのである.

 さて,このようにいまの私には老年精神医学について,まだ十分な知識と経験の持合わせはないのだが,私なりに日ごろ考えていることを述べてみたい.
 まずその精神医学的病態と治療の特徴は,(1)病因の多次元性である.病態の基礎には老化を含む身体的要因をつねにこうりょしなければならないが,そのほかに心理・社会・実存的な諸要因が錯綜して,病態の成立に関与していることであり,その治療も成立の要因や治療可能な要因に応じて,多次元的な視点から行わざるをえない.(2)病態の個別性,多様性であり,個人差が大きいので,治療にも一般原則がなかなかあてはまらず,個人の特性に焦点をあてた個別的な治療が求められることである.このことと無関係ではないが,(3)老年という長い過去の歴史のある個人,固有の生活史,人格,世界観,価値観をもった個人を治療するときには,とりわけ広義の精神療法がその重みを増し,精神科医としての力量を問われることになるように思う.
 次に私がこれまで「中年の精神医学」で用いてきた視点や方法のなかで,老年精神医学において適応可能であり,有用と考えられるものを2,3とりあげてみよう.
 (1)ライフサイクル論:この視点からは,老年期の達成課題,老年期の成熟,死生観,老年(晩年)の創造性などの地平が開けてこよう.
 (2)状況(因)論(病前性格‐発病状況論):この視点は老年うつ病,老年精神病の治療や予防にも寄与するところが大きいと思う.老年痴呆に対する研究も進められつつあるが,痴呆の初期治療,予防への道が開かれる可能性がある.
 (3)双生児研究:近年,近畿大学の早川氏らによって,大規模な健康老人,痴呆老人の双生児研究が行われている.双生児研究は正常な老化,円熟の過程,老年痴呆の発症過程などについて素因と環境との相互作用を実証的に解明するものと期待される.とくに一卵性双生児相互の比較研究によって,意味のある環境因が同定できれば,人間の円熟と衰退の力動過程を知る有力な手がかりが得られるだろう.
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1994/2 老年精神医学雑誌Vol.5 No.2
老人の薬物治療について思うこと
斎藤 正己
関西医科大学精神神経科学教室教授
 老年人口の増加が社会問題化していることはあらためていうまでもない.日常的な診療に携わりながら,老人の患者を前にしてふと考え込むことがある.いろいろな薬物を処方してはいるが,安全性について問題はないのだろうかと.たしかに新薬開発時の第一相試験は健常者における安全性の確認に当てられている.しかし,その場合の被験者は,通常かなり若いようである.老年人口の増加にこたえて,もっぱら高齢者に使用される薬物の開発が盛んになっているが,とくに健康な老人で第一相試験が実施されたということは聞かない
 いくつかの脳代謝改善薬を定量薬物脳波学の立場から,若年健常者と高齢健常者との間で比較してみると,中枢効果が予期した以上に違っていることがわかった.若年者では特別な変化は生じないが,高齢者では抗うつ薬に近い反応が認められた.脳代謝改善薬が高齢者では向精神作用を発揮するという根拠の1つとなる一方で,中枢神経機構に対して若年者とは相当違った働きをするらしいということになる.この研究は思いがけない知見をもたらしてくれた.加齢によって脳波は徐波が増加し,α波が減少するというのは誤まりで,健康な老人は若年者に勝るとも劣らない脳波を示すのである.それはさておき,第二相以後の臨床試験で高齢者における安全性も確認されているから問題はないといえばそれまでだが,それで十分だと言い切るのに,筆者はいささか躊躇する.
 老人は一般に不眠を訴えることが多く,睡眠薬を使うことになる.若年者には連用を避けるが,老人ではどうしても慢性投与になりがちである.しかも筋弛緩作用が少なく,持続の比較的長い薬物を選ばなければならない.そのために,連投時の血中濃度半減期を文献で調べてみると,若年被験者における1週間連続投与の推移しかわからない.代謝機能の加齢による変化を考えると,半減期がしだいに延びる可能性もあれば,代謝に関与する酵素系に変化が起こる可能性もあり,若年者における短期連投試験の成績を老人の慢性投与に当てはめてよいはずはなかろう.
 抗痴呆薬への期待が具体化し始めたひと昔前ころ,市販の薬物のなかからこれはというものをいろいろ選んで臨床試験を試みた時期がある.ほとんどは1日1回静脈内点的注入で4週間連投したが,患者の状態が目に見えて改善し,脳波変化や臨床評価尺度の数値にもそれが反映されることに驚かされた.そのうち,薬物間の差異があまりにも少ないことに気がつき,プラセボ効果を除外する目的で生理食塩水による対照実験が試みたところ,それでも有意の変化が生じることを知った.薬物の効果と思っていたものの大部分は,プラセボ効果ではなかったのかという疑問に行き当たったのである.
 考えてみると,施設に入所している痴呆老人は身寄りのない人ばかりではない.夫婦単位の家族のなかで役割を与えられず,厄介払いのように施設や病院に送り出された人たちには家族の面会も少ない.身体的な疾病や障害でもない限り,病棟の中でも放置されていることが少なくない.それが治験に参加することになった途端,主治医は開始時の検査や評価のために頻繁に訪れてはいろいろと質問したり,採決したり,毎日点滴に来ては話しかけるうえに,看護婦も検温や食事や排便の介護の際になにかと言葉をかけてゆく.患者を取り巻く環境が一変して活気に満ちてくるのだから,患者も周囲の働きかけに答え始めるのかもしれない.廃用性萎縮に陥りかけていた精神機能も,まるで雨期を迎えた砂漠の生物のように再び活動し始めるのであろう.
 直接患者の大脳機能に働いて,眠っている精神機能を覚醒させる薬物の開発も必要であるが,老人にとっては環境調整のほうがどれだけ有用かを実感した.そして,治療の主役は医師でも薬物でもなく,患者であり人間なのだという,至極当たり前のことをあらためて認識させられた.以来,まずプラセボで一定期間治療したうえで,試験薬による治験を始めるシステムに変更した.こうして初めて本当に効果があるらしい化合物を識別できるようになった次第である.
 ともあれ,今後老年人口がどんどん増加していくにつれ,老人を標的にした新薬の開発が主流となることは確実と思われる.その場合,安全性試験の段階から老人を対象として実施されなければなるまい.しかし,老年痴呆患者でも社会性を回復させることがなによりも重要なことは明らかであり,このことは治療より予防というかたちで実現させるほうが効果的なことはいうまでもない.施設に収容されて老人ばかりの環境で生活している人たちより,家庭で共働き夫婦を送りだしたあと,孫の面倒をみている老人はどれだけ幸せなのだろうと考えている.
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1994/1 老年精神医学雑誌Vol.5 No.1
美しく老いる
浅井 昌弘
慶應義塾大学医学部精神神経科学教室教授
 あと6年で21世紀になると思うとなにか特別な時期に差しかかっているような気がするが,時間はいつも同じように黙々として流れており,人びとはだれも同じ数だけ年をとっていく.「健やかに老いる」ということが,高齢化社会では重要な目標になっている.そのためには,まず身体の健康を保つことが大切であり,そして精神の健康も維持して“ぼけ”ないように心がけ,できれば経済的基盤を確保しておきたいということになろう.しかし,それだけでは平凡でつまらない.もしも可能なら,「美しく老いる」ことを目指せないものであろうか.
 美しく老いるといっても,ただ顔かたちのことではなく,来ているもののファッションでもない.むしろ,上品な美しい立居振舞であり,話の内容の豊かさであり,その人の人間的な美しさが大切であろう.たしかに,顔かたちにも心の内面が現れるが,それは肌の色合いや皺の有無ではなく,表情の美しさであり,目の輝きの美しさである.健康な心の美しさを保ち,年齢を加えることによって,にこやかな深みのある表情と,落ち着いた態度や物腰が,ごく自然なものとして備わってくるのであろう.
 もちろん,なにをもって美しいとするかは,多分に主観的な事柄であり,個人的な価値判断の基準に普遍性はないのであるが,本当の美しさは,本人が自分は美しいと言うのではなく,むしろまわりの人があの人は美しいといって客観的に評価するものであろう.このようにみてくると,美しく老いるのは,なかなかむずかしいということになる.
 先年,私がパリを訪れたときに街を案内してくれた若い女性心理学者のLさんが言うには,「こちらには中年過ぎの猛烈おばさんが結構いて,地下鉄でも市場の中でも強引に図々しく自己主張して絶対に譲らないことがあるんですよ.私はああなりたくないと思うんですけど,彼女たちもそうなりたくてなったわけじゃないでしょうから」とのことであった.そう言われてみると,東京にもそのような中高年のおばさんやおじさんがいるかもしれないが,この生存競争の激しい世の中をたくましく生きていくには,お上品にばかりはしていられないのだろうと思ったりもした.
 美しく老いるために有効な1つの処方箋は,若いころから美しく生きることを積み重ねていくことなのであろうが,それはまことにむずかしいのである.純真無垢な子ども心をいつまでも持ち続けるのは至難の技である.しかし健康ということを拠り所にして,美しさを保つことはできないのであろうか.たとえ年をとることによって身体的には老化していくとしても,心の健康を保つことによって美しさを保ち,できれば育てていくことを目指したいものである.どうしたら,心の健康を保ちながら美しく年をとっていくことが可能なのか,それを妨げるものは何であろうか.
 中高年の代表的な精神症状は不安と抑うつと記憶障害(もの忘れ)であり,病名ではノイローゼとうつ病と痴呆である.それらの精神障害を予防するためには,健康な身体と柔軟で安定した明るい性格と懸命な頭脳をもち,適度なストレスの刺激を受けて,節度ある生活態度を保ち続けながら,学校や職場や家族の人びとと良好な対人関係を結び,学生,職業人,家庭人として自らを発展させ,趣味を楽しみ,生きがいをもち,その年齢段階にふさわしく生きていくのがよいということになる.
 これは当然のことであるが,あまりにも理想的にすぎる.それが普通にはなかなかうまくいかないので,ノイローゼが生ずるのである.うつ病の契機になりやすい種々の人生の節目の出来事(転居,転勤,さまざまな離別など)も,いたずらに避けて通れるものではない.痴呆の原因になりうる脳血管障害やアルコール症の予防は必要であるが,ただ消極的になにもしないでいればよいとはいえない.それでは美しく生き,美しく老いることにならないともいえる.むしろ,積極的な前向きの態度も必要である.
 ノイローゼやうつ病や痴呆になったら美しくなく,必ず醜くなるのかというと,必ずしもそうではない.あるうつ病の老婦人は抑うつの苦しみと辛さをじっと耐えておられるご様子であったが,それは,むしろ美しくすらお見受けした.ある老年痴呆の紳士はトイレに入ったまま自分では出てこられなくなってしまわれたが,あとでこの老紳士が長く生きていますと恥をかくことが多いですと言っておられたのを拝見して,とてもお美しいと感じたのである.
 心の病になられても,なおかつ美しくていらっしゃる方の秘訣は何なのか.おそらくその上品なお人柄が,立居振舞のすみずみにまで行き渡っておられるのが美しく感じられるのだと思う.あまり必死になって美しく生きよう,美しく年をとろうとして,かえって醜くならないように心したいものである.
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