1991/12 老年精神医学雑誌Vol.2 No.12
老年期痴呆をめぐる医療と福祉の連携
宮坂 松衛
獨協医科大学精神神経科教授
 老年期痴呆の患者さんの急激な増加に伴って,私ども精神科医が日常その対応に追われることが大変に増えている.しかしながら,外来レベルではともかく,病棟診療においてそれらに十分な対応をすることは容易でない.私どもの精神科病棟42床においては,大学病院の常として,教育・研究のために多様な患者さんを入院させねばならず,老人の患者さんは病棟の約3分の1くらいでしか扱いえない状況である.
 栃木県で1990年に私どもの教室(大森健一氏ほか)が中心となって県の組織とともに行った広域調査では,痴呆の有病率は少なくみても老人の5.5%である.県全体で約13,000人の痴呆老人がおり,そのうちの2,000人は入院診療が必要とされている.しかし,われわれが対応できる痴呆患者はそのなかでまったく微々たるものであり,それらにおいてさえも一応の治療後に自宅への退院や特別養護老人ホームや老人保健施設への転送などについて,いろいろと処遇上の困難を感じている.
 最近,厚生省の指導によって各県に設置されている「老人性痴呆疾患センター」が当県では唯一私どもの精神科外来の一隔に設置されている.精神科医6名,看護婦2名,ケースワーカー2名,臨床心理士1名の11名(いずれも病院職員の兼任)で相談業務を行っているが,ここでもいろいろと問題がある.開所後1年間の実績で,電話相談が312件,直接来所が265件,計577件が扱われた.相談内容は,痴呆の診断・治療にかかわるものが半数余りで,次いで患者への家族の対応の仕方,福祉制度活用にかかわる相談が多かった.そのうち病院での外来及び入院加療に至ったものが,179名であった.相談の依頼は,一般県民から512件,病院・診療所から25件,保健所から14件,市町村から14件,老人ホームから8件であり,地域の福祉機関からの相談がまだまだ少ないように感じられる.脳血管性痴呆に属するものよりもアルツハイマー型痴呆(とくにその初期)に属するものが多く見いだされており,医療面についてはそれなりの役割を果たしているように思われる.しかし,地域にたくさんいるはずの老年期痴呆患者全体に対してはまだまだまことに微力で,今後福祉・保健関係機関や一般医療などとの一層の協力が必要であると考えられる.
 こうしたことの思い悩みのなかで,今春2つの,この問題に関するシンポジウムを詳しく聞く機会を得た.その1つは日本精神衛生会の主催による「高齢者社会における心の健康と福祉」(演者:大塚俊男・大塚宣夫・三宅貴夫・吉沢勲氏,司会:徳田良仁・武正健一氏,提言:秋元波留夫氏,1991年2月)であり,もう1つは日本精神神経学会総会における「精神科における老年期の医療―精神科医の役割」(演者:一瀬邦弘・矢走誠・堀口淳・川室優・大森健一・斉藤正彦氏,司会:宮坂松衛・室伏君士氏,1991年5月)であった.そこでは,さまざまな立場での老年痴呆をめぐる医療と福祉の工夫が報告されながらも,共通して,医療と福祉の間の役割分担と協力関係の整備の必要性が強調された.
 最近になって,精神病院・老人病院・一般病院・一般診療所・老人保健施設・特別養護老人ホーム・養護老人ホーム・老人性痴呆疾患センター・精神衛生センター・保健所・福祉事務所・デイケア・ショートステイ・訪問看護・生きがい対策事業などが,老年痴呆とその関連問題にさまざまなかたちで,徐々にかかわっているが,それらの間に役割分担と相互連関が確立しておらず,多くの困難を残していることが指摘されている.福祉側からこれらにかかわった老人は不適切に福祉側に沈殿し,医療施設からこれらにかかわった老人は不適切に医療側に沈殿する傾向がある.とりわけ,総合的で適切な対応をうけられずにいて,人権やquality of lifeにも問題を残していることが多いという.今後,人的資源・施設・財政援助の整備はもちろん重要であるが,国の施策の統合的改善を含めて医療と福祉の連携の場を地域ごとに常設して,総合的に老人問題に対応せねばならない.さらには,問題を行政に任せず,地域ごとに消費者運動・住民運動をおこして,こうした老人問題に対応せねばならないと提言されている.
 こうした対応なしには今日の膨大な老人問題にたしかな改善はありえないと思われる.われわれ精神科医の側からもこのことに格段の努力が必要なことと考えられる.
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1991/11 老年精神医学雑誌Vol.2 No.11
痴呆性老人の終末を考える
三山 吉夫
宮崎医科大学精神科助教授
 役所からの依頼で98歳になる在宅老人の診断書を作成した.市の郊外の老人宅で事情を聴き診察した.本人は94歳ごろからぼけ始め,足腰が弱り寝たきりになっているという.一家の大黒柱となるべき息子は借金に追われ家出し,息子の嫁が一人で世話をしているが,その嫁も本人が寝たきりで出歩かないことと,経済的理由でパートタイマーとして働きに出ており,日中は一人の状態であった.本人が寝ていた部屋は日中でも薄暗く,寝床のあたりには新聞紙,採尿ビン,食器類が散乱し,排泄物の悪臭が強く30分も同席するのは苦痛な状況であった.本人は高度痴呆の状態であり,そのような状況でも機嫌はよく,何を質問しても自分の名前だけを繰り返し答えていた.漂う悪臭には慣れてしまっている様子であった.体を診察すると,垢にまみれていた.息子の嫁は時々ふいてやってはいるが,自分一人では入浴させる体力も技術もないのでここ4年間入浴はさせていないという.確かに一人の女性が世話をするのは困難と思われるほど骨格の大きい老人であった.年に1〜2回かかりつけの医師に往診してもらっているが,超高齢に伴う身体状況以外にとりたてて病気はないと言われるだけである,ということであった.また,市役所から保健婦が月に1回訪問してくれるが,訪問時には本人以外にはだれもいないので,どんなことをしてくれているのかわからないし,訪問後に指導を受けたこともない,と嫁は述べた.
 このようなケースは,高齢化が全国平均よりも5年早いこの地方では珍しくない.ここでは100歳になると,市長がその老人を訪問し祝福する.県からもお祝いが贈られる.この老人があと2年生存しうるかどうかは予断を許さないが,現在の状況で100歳に達したとき,訪れた県や市の行政職員はどんな気持ちになるであろうか,新聞にはどのように報じられるだろうかと気になる.かかりつけの医師,定期的に訪問している保健婦もそれぞれがいちおう責任は果たしていると考えるが,何かが足りない.医療と福祉のコミュニケーションがうまくいっていない.老人医療費の抑制という経済観念が優先しているような気もする.
 老人ホームや痴呆性老人の治療を専門とする病院での老人の平均年齢は82歳を越しており,すでに平均寿命を過ぎている老人たちである.痴呆化していない老人の多くは,そう遠くはない人生の終末について,延命治療を嫌い,あまり不自然なことはせず,寿命のままに任せて死にたいとの気持ちをもっている.死は老年の終わりに必ずやってくることも知っている.「もう長生きしなくてもいいけど,自分から死ぬわけにはいきません.周りに迷惑をかけるので,長生きは苦のもとです」という言葉もよく聞かれるようになった.死は悲しいけれど相対的に受け入れることができる,と考えている老人も多い.人生の終わりについて語ることのできる老人は幸せだと思う.
 痴呆化した老人は「家に帰りたい,帰って仕事をする」と語ることが多い.自分が生まれ育ったところで死にたい,と主張しているように聞こえる.痴呆化した老人の平均寿命は健常老人のそれよりも短い.準ICUで点滴を受けながら制限された人数の家族にみとられて死んでいく光景をよく見る.何をもって健康とするか,妥当な寿命とするか,老人医療はどこまでやれば十分かの問題がある.痴呆性老人の心を推測することはきわめて困難であるが,できるかぎり自然なかたちでの死(尊厳死)を積極的に支援するのが老人福祉の最も重要な最終目標であると考える.痴呆性老人に接するとき,社会における老人の位置と価値,老いることの意味,老年と死について考えないわけにはいかない.精神保健指定医の講習で基本的人権,リビング・ウイル(生前発行の遺言書)について再学習した.人間としての最後の尊厳死は基本的人権に通じる問題であると考える.
 これからの30年間は痴呆性老人の数がさらに増加するといわれている.痴呆性老人の処遇に精神科医療が積極的にかかわっていこうとする傾向には賛成であるが,かつての精神病院の体質を残した状態で施設をつくってほしくないと願うものである.老年期が人生のひとつの段階になった現在,各地方自治体に老人医療センターが設置され,そこで疫学,介護する人材の養成,終末介護について,その地域に応じた処遇のあり方を検討しながら老人の福祉(心と体の健やかさの援助)を進めていくことが望まれる.老年と死はその人だけの問題ではないと考える.
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1991/10 老年精神医学雑誌Vol.2 No.10
高齢者の保健福祉計画
高橋 三郎
北海道立向陽ヶ丘病院院長
 近年,わが国は世界の最長寿国となり,この人口の高齢化は今後さらに進むものと思われる.厚生省が1990年12月現在でまとめた2025年の推計では,65歳以上の老年人口が3200万人となり,これは全人口の25.7%を占め,超高齢化社会の到来がいちだんと早まることが予想される.食生活面の変化や社会的ストレスなどが加わり,この推計ほどには平均寿命は伸びないとの考えもあるが,女性の生涯出生率の低下や15歳未満の年少人口の減少などをも考慮すると,このままでは近い将来,労働力不足や社会保障面で危機的状況が危惧される.
 人口の急速な高齢化に伴って,福祉や保健医療の分野でも新しい問題が出現している.福祉については高齢者自身や家族のニーズが変化,多様化し家庭,住居,経済面などの日常生活上の問題がクローズアップされている.保健医療に関しては,健康上の問題で日常生活に影響のある虚弱老人数や有病率が増加し,とくに痴呆老人や寝たきり老人など要介護高齢者は200万人を超えると推定されている.
 高齢社会の情勢の変化を背景に,国は1989年12月に「高齢者保健福祉推進10か年戦略」を公表し,地方自治体の役割を重視した.また保健と福祉の連携を強化し,在宅福祉や施設福祉などの事業について今世紀中に実現を図るべき目標を掲げた.そして「戦略」の法律上の位置づけを明確にするために1990年6月老人福祉法などの一部が改正され1993年4月から各地方自治体が老人保健福祉計画を策定することとなった.また「戦略」の目標を達成するため各市町村が地域特性をもちながら,かつ一定水準を維持できるための計画策定のガイドライン,マニュアルの作成が期待されている.この作成については,(財)長寿社会開発センターに地方老人保健福祉計画研究班が設置され,研究が進められているが,計画策定には地域の実情や特性を踏まえる必要があり,北海道網走支庁が地方圏の1つとしてモデル地域に選定された.
 網走支庁管内は秋田県に匹敵する面積をもち,町村部の老年人口比率が14.4%と高い地域である.前述の選定をうけて,1990年7月,「オホーツク高齢者保健福祉計画モデル研究協議会」が設置された.本協議会は福祉行政,サービス実施者,保健行政,医療などの分野からなる委員で構成され,筆者は医療の立場から参加する機会を得た.
 そこで,おもに医療面から本地域の現状をみると,老年人口比率は加速度的に上昇を続け,とくに町村部の高齢化が著しく,これが23.8%に達する村が現れており,超高齢社会が身近なところで具現化している.要介護老人数をみると,まず寝たきり老人は管内高齢者人口の約7.2%であり,とくに75歳以上の後期高齢者がその79.2%を占めている.痴呆性老人については数年前に北海道が実施した調査結果をあてはめると,管内高齢者人口44,000人中約1,600人と推定され,このうち約半数は特別養護老人ホーム入所要件を満たす程度の障害を有していると推測できる.実際に管内の特別養護老人ホーム入所者について最近のデータを検討すると,その65.8%に痴呆があり,後期高齢者人口の伸びの著しい本管内では,痴呆性老人対策が急務となる.健康上の問題で日常生活に影響のある虚弱老人は在宅老人の約20%であり,入院高齢者数は管内高齢者の7.4%で,これは全国の4%弱と比較し非常に高い入院率である.受診状況では在宅高齢者の約20%は1年間に入院歴があり,病名では「高血圧,動脈硬化症」が41.1%を占め,これは寝たきりや痴呆と結びつきやすい脳血管障害の予防の必要性を表している.
 前述のモデル研究協議会はこのほか高齢者の世帯の状況,就業状況,社会参加活動などの現状を分析し,さらに保健福祉サービス実施の現状と課題を検討することによって,今後のサービス実施の目標を検討している.
 周知のように記述の「10か年戦略」は保健福祉,とくに在宅福祉にその力点をおいているように思われ,医療に関するテーマは特記されていない.しかしその対象が身体的,精神的に予備能力が低下していることの多い高齢者であることを考えると,医療のかかわりも不可欠である.今後市町村のレベルで保健婦,家庭奉仕員,民生児童委員などからなるサービス調整チームをつくり,ケースマネジメント機能を確立していくとき,チームリーダーとなる強力な指導者が必要となり,その際医師に対する期待が大きくなるものと思われる.このように医師をはじめ,あらゆる医療関係者が福祉分野への積極的な関与をすることによって,訪問指導や訪問看護などの保健医療サービスがきめ細かに可能となり,高齢者保健福祉計画の推進に多大な寄与をすることになろう.
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1991/9 老年精神医学雑誌Vol.2 No.9
80歳以降の医学;老人医療における発想の転換
葛谷 文男
名古屋大学医学部老年科学講座教授
 およそ老化とは,身体機能の衰えに伴って,個体維持の可能性が減少することとして臨床的には把握される.すなわち死への確率が増加することであると定義できる.加齢とはtimeの経過を意味すものでchronologicalという言葉に相当する.このような2つの混同しやすい言葉の使い方をはっきり区別することが,老年医学の研究にはぜひ必要である.現在までにそれを区別する研究方法はなかった.
 さて,臨床疫学的にこの2つのfactorをわけてアプローチするためにはどのような手段が必要なのであろうか.そこでlongitudinal studyを例にとって考えてみることとする.ここではcross-sectional series,longitudinal seriesおよびtime seriesの3つのカテゴリーに分けて,その変化の優位性(相関に対する)が検討される(表1).もし,ある指標がcross-sectionalとlongitudinalの両者で優位性があれば,老化という,さきに述べた定義にあてはめうる.また,timeとlongitudinalの両者に優位性が認められれば,その指標は時間の経過のみと関係あるということができる.すなわち老化と時間とを区別して解釈できることとなる.
 しかしここでいう時間とは,時代の変化という意味も加わることとなる.むしろ時代による変化の影響をみている可能性が多いと思われる.そこでさらに考えを転換することとなる.もしcross-sectional series,longitudinal seriesおよびtime seriesの三者のいずれも優位性のある指標が見いだされたときはどうか,という発想をしてみる.これこそおそらくわれわれの求める時間の流れのみがpurificationされた状態の指標かもしれない.表2のごとく,たとえば左右の視力(近視力),血清ALP値,血清尿酸値がこのなかにはいってくる.
 以上のごとく,このような臨床疫学的研究によってはじめて時間と老化を区別して眺めることが可能となる.
 そこでまた,もう1つの発想が浮かんでくる.それは正常値の求め方である.とくに老人の正常値,異常値の判断はきわめて困難であるため,その求め方には限界がある.
 まず日本人の場合ならば,日本人の平均寿命を超えた人びとをたくさん集めて,これらの人の種々の検査値をretrospectiveに求めていき,それらの各年齢時の値を集計して,平均値および標準偏差を求める方法が考えられる.これはまさに正常値というよりは,理想値といったほうがよいかもしれない.もっと超高齢者について同じ方法を用いて集計すれば,もっとよい理想値が求めうるであろう.これは老年医学研究の発想の転換に役立つかもしれない.
 ともあれ,人間は20世紀において大ざっぱな言い方をすれば「空間を制御」したといえる.21世紀においては,人間は「時間を制御」することに立ち向かっていくことになろう.老年医学はまさに,ここにそのターゲットが絞られねばならないし,さきに述べたことがその手始め的な仕事となろう.

表1 3つの変数と3種の解析方法との関係
 ○各方法での変数の推移
    横 断(cross-sectional)
    縦 断(longitudinal)
    時系列(time series)
 ○各変数の効果が存在する場合,
   有意性が認められるべき解析法

独 立 変 数

時代
(time)
コホート
(cohort)
年齢
(age)
(不変)
増加
増加
増加
(不変)
減少
増加
増加
(不変)
縦断

時系列
横断

時系列
縦断

横断


表2 解析の結果
変  数 有為性の認められた解析方法 効 果 方 向
横 断 縦 断 時系列
身  長        
体  重   コホート 減少
収縮血圧        
拡張血圧          
握  力(右)   老化 減少
     (左)        
視  力(右)    
     (左)    
肺 活 量   コホート 減少
赤  沈   老化 増加
赤 血 球        
血 色 素        
白 血 球          
総タンパク   時代 増加
G O T        
G P T          
A L P    
総ビリルビン   時代 増加
直接ビリルビン          
尿素窒素        
クレアチニン   時代 増加
尿  酸    
フィブリノーゲン        
空腹時血糖   時代 増加
中性脂肪   時代 減少
リン脂質   時代 増加
総コレステロール          
○印は,それぞれの解析で有意な傾向が認められたもの.その解析の解釈を右に示す.コホートの影響について,「減少」というのは,番号の大きいコホート(より高度の集団)ほど減少していることを示す.
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1991/8 老年精神医学雑誌Vol.2 No.8
老年期痴呆と自然死
大友 英一
浴風会病院院長
 平均寿命が到達しうる最高レベルになったことなどから,老年者のQuality of Life(QOL)という言葉が口にされることが多くなりつつある.QOLの定義は必ずしも明確ではない.知的機能低下があっても老人ホームでうまく適応している老年者もいることから,単なる知的機能低下のみで決めるわけにもいかない.老年医学の究極の目的である“精神と肉体のゴールを同じにする”こと,よりわかりやすく言えば,“健やかに生きる”ことといえよう.
 QOLという面からみると,老年期痴呆,とくにその末期は最低のものである.摂食,排泄などは動物以下の状態であり,家族,療母,看護婦,医師などに多大の負担を与え,当院のベッドを占居し,医療費を食っている.動物は自ら食わない場合は死に至るが,人間のみは,本人の意志や尊厳死を無視して延命させている.この延命は患者に苦痛を与えることにもなる.
 浴風会病院の静脈内高カロリー輸液(IVH)の調査でみると,確かに延命効果はあるが,浮腫,褥層は増加し,結果的に患者の苦痛を増加させたかたちにとなっている.IVHの意義を理解しない例が70%であり,説明しても理解できない状態になって行われており,逆に理解できる患者を拒否したかたちとなっている.
 筆者は,老年者の植物状態に対するケア,ターミナルのケアに対して自然死natural deathを主張している.これは安楽死euthanasiaとは異なり,自然に,成り行きに任せるというものである.この第一の対象は,老年期痴呆のターミナルである.患者の苦痛を取り除く以外は,検査その他はいっさいしないというものである.
 この自然死選択決定は,主治医が行うのではなく,モニター制度をつくり,モニターの医師が行うことにする.すなわち,人口約40〜50万の市,郡などを一単位とし,10人内外の老年医学などの専門家をモニターとしておき,必要に応じて,その病院と関係のない5人のモニターが別々に患者を診察し,多数決で自然死を決定する.主治医はこの決定に従ってこれを行うのである.この決定後,もし家族などが,ゾンデによる栄養補給,IVHを希望した場合は,それに従うが,それ以後は自費とするのである.
 現在まで,老年者の入院費は,いくら高額であっても負担は月12,000円(食費に相当する程度のもの)であることから,家族は積極的なケアをさせている.しかし,もし,月十数万あるいは数十万の負担となると,おそらく中止を申し出る家族が多くなるものと思われる.
 一方,本人の意思については,50歳(あるいはそれ以前)になったら,各自が,植物状態では生きたくない,それでも生きたいの意志を健康保険証に記載しておくことにする.こうすれば,意識障害に陥っても,本人の意思に沿うことが可能である.
 この制度は,もちろん医師のみで決めるのではなく,法律家,宗教家などとも協力し,国民のディスカッションのテーマとして提起するのである.数年から10年をかけて,討論を行い,国民のコンセンサスのもとで発足するようにする.この際,この方法に反対する場合は,必ず高齢者社会についての具体的対案をだすこととし,単なる反対のみは問題としないことにする.
 迫り来る高齢者社会への1つの対応として,この問題を議論してよいものと考えられる.このようにして増大する医療費を適切に抑え,浮いた医療費は病気の予防に向けるのである.
 老年期痴呆の原因は不明であり,予防についての議論はほとんどない.しかし,最近の,脳血管性痴呆例では,脳血流減少後約2年で症状の出現することが報告されている.また,いずれの型の老年期痴呆でも,血流減少,代謝低下が観察されており,これをある程度是正する方法が,痴呆の予防に役立ちうるかを検討してみるのである.
 多数の健常老年者(少なくとも1群5,000人)を対象とし,少なくとも3〜5年,脳循環代謝改善薬を投与し,投与しない群と痴呆の出現頻度および発症時期を比較してみるのである.もし,異議あるほどの成績が得られた場合は,市販など,予防的に服用することを検討するのである(健康保険ではなく自費で).
 現在,薬を予防に使用することは健康保険などでは不可能であるが,発想を転換して,後手後手に使っている薬を前にもってくるのである.実行をぜひ試みてほしいものである.
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1991/7 老年精神医学雑誌Vol.2 No.7
痴呆老人の生きがいとターミナルケア
金子 仁カ
大阪大学名誉教授・関西労災病院名誉院長
 先日,私は満76歳の誕生日を迎えた.家内の心づくしの誕生祝の御馳走を食べながら「このお祝も,あと何回か,10回ぐらいかな」と言ってから,間もなくこの世に別れを告げねばならぬことを覚悟した.
 私は戦時中に,7年間も第一線の歩兵連隊付軍医として,度々死線を潜りぬけているから,死ぬことはなんとも思わないし,またこの世の中に未練もないが,ただ他人に迷惑をかけるような死に方だけはしたくないと思う.私が死よりも恐れているのは,老年痴呆になって末期を迎えることである.
 私が約40年前に老年問題の研究を始めたころは,研究者も少なかったが,現在は精神医学や神経病学の専門家のみならず基礎の学者までが研究に参加し,着々と成果をあげている.私が痴呆になるより前に,予防や治療法が確立すればよいが,あと10年では少し無理かもしれない.それでは痴呆になった老人をどうケアすべきかということになる.

 最近,医療の現場において,QOL(quality of life)ということが盛んに唱えられている.10年ばかり前には,癌の末期に,治らないことがわかると,医師も看護婦も,なす術を知らず困惑するばかりであった.昭和52年に阪大講堂で,第1回死の臨床研究会を,柏木や河野らの開催したときは,まさにそのような時代であった.その後,癌の疼痛緩和のためのBrompton mixtureやHospiceのことが紹介され,深部治療や化学療法,免疫療法などの進歩とともに,癌という病気がありながら,生きがいのある人生を送り,安らかに最期を迎えることができるようになった.

 ひるがえって,精神医療の現場ではどうであろうか.患者のQOLや生きがいを考えているだろうか.精神分裂病患者が治らないとわかると,精神病院に長期入院させ,閉じ込められた生活を送らせる.彼らの生きがいやQOLは考えられているのだろうか.心ある医療人は,作業療法や社会復帰訓練により生きがいを与え,社会に復帰させようと努力しているが,このような努力を放棄している病院もある.
 痴呆老人の生きがいやQOLはどうだろうか.痴呆ということで,医療のみならず,ケアの努力まで諦めてはいないか.乳幼児や動物でも,知的能力は低くても,情意は当然あるのである.アルツハイマー病でも,初期あるいは軽度の場合は,情意に関しては正常老人とほとんど同様に考えてよいだろう.
 マスローの5段階欲求階層説に従うと,アルツハイマー病の初期あるいは軽度の時期には,成長動機による最高次の自己実現欲求などは望むべくもないが,次の階層の承認,尊敬,支配などの尊敬欲求などはかなり残っている.中期あるいは中等度の痴呆状態にある老人では,その下層の愛情,親和,所属などの愛情欲求をもっており,この欲求を助けにして,彼らに生きがいを与えることができる.
 末期あるいは重度になると,ターミナルケアが問題になるが,これらの高次の成長動機は認められず,低次の欠乏動機による危険,苦痛,恐怖からの回避などの安全欲求や,最下層の飢え,渇き,排泄,睡眠などの生理的欲求が残っているのである.
 進行癌の末期の症状コントロールとして,鎮痛だけでなく,食欲不振,悪心,便秘,呼吸困難,不眠,咳嗽,抑うつなどのコントロールが重要視されている.痴呆老人に対しても,言外の欲求を察知し,心身の快適さ,QOLをより高めるべく努力すべきであろう.
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1991/6 老年精神医学雑誌Vol.2 No.6
老年期のREM睡眠
山口 成良
金沢大学医学部神経精神医学教授
 REM睡眠は1953年,AserinskyとKleitmanによって発見され,人間ならびに動物の睡眠はREM睡眠とNREM睡眠という質的に異なった2種類の睡眠から成り立っていることが明らかになったということは御承知のとおりである.現在までの睡眠研究で,REM睡眠は加齢に伴い,あるいはさまざまな神経・精神疾患や薬物によって量的・質的に変化することが知られている.
 Roffwargら(1966)によると,新生児では1日の睡眠時間が16時間あり,その約50%がREM睡眠である.乳幼児期にREM睡眠は急激に減少し,成人とほぼ同じレベル(約20%)になる.老年期には中途覚醒の増加などで夜間の睡眠時間が短縮するが,そのなかでのREM睡眠の割合もさらに減少していく.平沢(1987)によれば,60〜90歳代の老人でREM睡眠の出現率は年齢と負の相関を示すと報告されている.
 一晩の睡眠経過の面からみると,老人においては頻回な中途覚醒のため睡眠が分断されているが,REM睡眠の出現の周期性は認められている.しかしながら,老年者では,どの周期のREM睡眠をとっても持続時間の長さがほぼ一定しており,若年者にみられるような睡眠後半に向かうにしたがってREM期の出現回数が増え,持続時間も増加するという睡眠内リズムは目立たず,REM睡眠の日周リズムが睡眠の前半へ移動しているとされている.
 アルツハイマー型痴呆患者の睡眠ポリグラフィでは,正常老人と比較して,REM潜時(入眠から最初のREM期が出現するまでの睡眠時間)の延長,REM睡眠の割合の減少,REM activityの減少が報告されている.このようなREM睡眠の変化は,脳内アセチルコリン合成酵素活性の低下によって,REM睡眠を駆動するコリン作動性システムが障害されているためと考えられており,痴呆の重症度と相関するという報告もみられる.また,REM潜時の延長は,アルツハイマー病の生物学的指標になりうるのではないかといわれており,うつ病ではREM潜時が逆に短縮するので,抑うつ症状による一時的な痴呆様状態(仮性痴呆pseudodementia)と真の痴呆との鑑別診断に睡眠ポリグラフィが有用なのではないかとも考えられている.われわれは,アルツハイマー病患者にレシチン・フィゾスチグミン併用経口投与を試み,投与前に比べて,REM潜時の短縮,REM睡眠の増加を認め,痴呆老人で減少しているREM睡眠を正常老人のレベルまで近づける働きがあると思われた.
 また,老年期になるとREM睡眠の質的変化(睡眠の変容)を認めることも多くなってくる.すなわち,REM睡眠と思われる時期にもかかわらず,脳波上に睡眠紡錘波やK複合,デルタ波などNREM睡眠の所見がみられたり,頤筋の筋活動が消失しないといった異常な睡眠段階の出現が認められている.このような現象はREM睡眠の構成要素を統合している機能の障害による解離現象と考えられ,中脳・橋における器質的病変を有する神経疾患での報告が多い.すなわち,進行性核上麻痺,OPCA,Shy-Drager症候群などにおいて認められる.最近,神経学的には明らかな異常を認めない老人において,夜間の行動以上に関連してこのようなREM睡眠異常が認められることが報告され,興味がもたれている.
 1日のうちでREM睡眠に費やされる時間からいえば,新生児期では8時間あったものが,老年期には1時間以下になってしまい,さらに,痴呆老人ではよりいっそうこの減少傾向が際立っているといえる.REM睡眠が夢見に関係していることを考えれば,老人では夢が少なくなっているのであろうか.老人のREM睡眠を多くすることが老化防止に役立つのであろうか否か,この問題を明らかにしたいと思うのが,昨今の私の夢である.
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1991/5 老年精神医学雑誌Vol.2 No.5
薬効の臨床評価
柄澤 昭秀
東京都老人総合研究所副所長
 今日,精神医療で重要な役割を担っているのは薬剤である.このことは老人の精神医療においても変わりはない.老人患者によく用いられるのは脳循環・代謝改善薬および向精神薬であるが,前者の器質性精神症候群に対する効果はまだまだ不満足と言わざるをえないし,後者には副作用がでやすく使いにくいという悩みがある.こういった現状を背景に,より効果的で副作用の少ない薬剤を求めて激しい開発競争が行われており,近年この領域にも新薬がつぎつぎと登場している.ただ,今のところその効果が抜群といえるほどの薬剤はまだ現れていない.
 ところで,老人患者とくに痴呆患者に薬を使いながら日ごろ不思議に思うことは,その薬剤の効果について,臨床治験の結果と自分の実感との間にしばしば大きなギャップがあることである.これはどうしてであろうか.たとえば,古くからある脳代謝改善薬の1つ麦角アルカロイドである.この薬剤の欧米における評価は高い.多くの二重盲検試験において効果が実証されており,痴呆患者に対する脳代謝改善薬の使用に慎重な学者ですら,もし使うとすればこの薬剤が第一選択と言っているくらいである.しかし自分で使ってみたところでは,この薬剤の効果が他剤に比べて勝っているとは思えない.確かに効くという実感が得られないのである.そして,同様のギャップは最近の新薬についても感じられる.臨床治験報告を聞き,または読んで,これは良さそうだと思いながら使ってみるが,どうも期待したほどの手ごたえが得られないことが多い.
 薬効評価について筆者はまったくの門外漢であるが,新薬が商品として世にでるまでには一定の厳格な手順を経なければならないことはよく承知している.ただ二重盲検法を含む標準的な評価法によって認められた薬剤の効果が,日常の臨床場面でなぜなかなか実感できないのか,それが腑におちないのである.得られた治験研究の結果それ自体に間違いがあるとはまず考えられない.だとすれば,現在用いられている評価法に問題があるのではないか,これは一臨床医としての素朴な疑問である.
 二重盲検法は薬効を公平かつ客観的に評価するために考案されたたいへん優れた方法であり,素人目には方法論上なんら弱点はないように思えるのであるが,その道の専門家からみても本当にそうなのだろうか.こんな疑問すらもってしまう.さらにもう1つの疑問は,臨床効果の判定基準の問題である.薬剤の効果の判定は通常一定の基準によって行われる.これは評価をできるだけ客観的に行うために必要な手段であり,このこと自体にもちろん問題はない.問題はその内容である.現在よく用いられている基準が精神科領域で多く使用される薬剤の臨床効果評価基準としてはたして十分妥当なのであろうか.現在の一般的な評価基準は少し細かすぎるのではないか,実際的な臨床効果の判定が目的であるならもっと大まかな基準のほうがよいのではないか,そう思えてならない.目的によっては,症状の微細な変化をチェックしうる敏感な基準が望ましい.基礎研究の場合はとくにそうであろう.しかし臨床的効果測定の場合はそうでないのではないか,細かなチェックリストでやっと検出しうる程度の変化は,臨床的には必ずしも意味のある変化といえないのではないかとも思えるのである.
 クロルプロマジンが初めて精神医療に登場したとき,そして抗うつ薬イミプラミンが登場したとき,多くの精神科医が確かに効くという実感を経験した.臨床的に有効といえるのは,このように誰の目にもはっきりわかる変化が認められた場合なのではなかろうか.昔に比べて薬効評価の方法ははるかに科学的に洗練されたものとなっていると思う.しかし,精神面に対する臨床効果の評価という点からみると必ずしも満足すべきものとはいえないように思われるのである.
 老年精神医学の領域でも新薬開発への期待は大きい.その効果をはっきり実感できる新しい薬剤の出現を誰もが切望している.
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1991/4 老年精神医学雑誌Vol.2 No.4
老年精神医学とQOL
池田 久男
高知医科大学神経精神医学教室教授
 四国はお遍路さんの八十八ヶ所霊場めぐりで春が訪れる.筆者は八十八ヶ所すべてのお寺参りをしたわけではないが,多くのお寺の境内で「ボケ封じ」と書いたお守りが参詣者のために売られているのが目につく.一般市民がいかに痴呆を恐れ,ボケになって家族の厄介者になることをこわがり,老後に不安を抱いているかを反映したものであろう.わが国の市民意識が,単純に長命を期待するものから,生存の質の問題へと変遷してきたことを,霊場のお守りは示唆している.見方をかえれば,生物学的存在としての人間の生命維持レベルから,社会的存在としての人間の生き方の質が問われるレベルに市民の関心が広がったともいえよう.この「生き方の質」あるいは「生存の質」を問題にするのがquality of life(QOL)の思想であり,生物学は無論のこと,心理学,哲学,宗教,文化など社会科学の広い分野にかかわる学問として,今後ますますその重要性が認識されるであろう.
 老年精神医学は,このQOLの問題に正面から取り組まなければならない医学であり,研究対象,研究方法,研究者の資質などあらゆる角度からみて,この問題に取り組むのに最も適した分野である.従来から老年精神医学の主要研究テーマである「もの忘れ」「生きがい」「社会的ひきこもり」などは,高齢者のQOLを考えるうえでの主要テーマでもある.老年精神医学の究極の目的は,高齢者のQOLの問題であると言って決して過言ではない.また精神科医は平素から,個人を生物学的側面と社会心理学的側面の両面から診断・評価する訓練を受けている.日常臨床において,具体的にQOLの向上を目指すにあたっては,少なくとも生物学的側面と社会心理学的側面を大別して,問題点を明らかにし,評価し,それに対処していくのが実際的である.たとえば,第32回日本老年医学会総会(会長・小沢利男教授)におけるシンポジウムのテーマ「老人医療の当面する諸問題」では,高齢者のQOLの低下を招く生物学的要因として,痴呆,うつ病,転倒と骨折,尿失禁,および医原性疾患をとりあげ,個々の病態発現をいかに予防し,治療すべきかが討議されたのである.
 元来,QOLとは個別的なものであり,各個人によって相違があって当然である.前述した失禁や骨折のような生物学的要因には,個人を超えて,比較的普遍的に高齢者のQOLに影響するものもあり,この場合には従来の自然科学的,医学的研究方法の対象にすることができる.しかしながら,QOLは個人の生育・生活歴,宗教,人生観,地域文化,それまでの社会活動の質や量によって,著しく異なってくる.さらに,心身の健康な高齢者,片麻痺患者のように身体的なdisabilityやhandicapをもった高齢者,そして痴呆や精神分裂病のような精神面でのdisabilityやhandicapをもつ高齢者のQOLはそれぞれに異なって当然であり,これらを一様に高齢者のQOLとして研究対象にすることは不可能である.QOLの研究や,具体的なQOL向上のための対策には,きめ細かいアプローチが必要である.
 「高齢者の生活の場は家庭を最適とし,disabilityをもつ高齢者の介護は病院から家庭に」という原則が行政面での方向として示されているが,高齢者のQOLの面からは必ずしも問題がないわけではない.平成元年度に高知県精神衛生協会,企画調査部(委員長・井上新平)が実施した高知県下の「精神病院長期入院患者のための社会資源ニーズ」に関する調査の結果によると,主治医が「生活の場」として家庭が適当とみた例は全体の17.8%にすぎず,とくに60歳以上の高齢者では11.5%と40歳以下の35.7%に比較しても明らかに低値であった.そして患者自身も病院からの退院を明確に拒否するものが30.8%に達している.また高知県の痴呆老人介護施設で行った別の調査でも,痴呆老人が施設に入所し,薬物使用がまったくない状況で,専門介護者の介護を受けるだけで,入所時に比較して失見当識,興奮,徘徊,常同行為などの精神症状や,日常生活態度に明らかな改善が認められ,この症状軽快は半年以上にわたって持続することが観察されている.このような症状改善の一因に,それまでの家庭でのトラブル,それによる緊張状態からの解放が推測されている.
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1991/3 老年精神医学雑誌Vol.2 No.3
老いゆく者の孤独
松下 正明
東京大学医学部精神医学教室教授
 ポーランド生まれのユダヤ系ドイツ人であり,フランクフルト大学名誉教授である社会学者のノルベルト・エリアスの『死にゆく者の孤独』が翻訳出版された(法政大学出版,1990年).小編ではあるものの内容は重い.
 文明化の果てとして現代人は,死をはるかかなたのものとして,死から意識的に遠ざかろうとしている.その結果,人生のつとめを果たし終え,これまでの思いをあとに残しながら,生きている者への最後のお別れをしようとする「死にゆく者」にとって,いざそのときにまわりに誰も親しい人がいないことに気がつく.何と孤独な「死にゆく者」ではないかとエリアスはいうのである.
 「老いゆく者」にとっても,親しい人はみな離れていってしまった.

 私の幼なじみの母親がつい最近亡くなった.75歳.神経系の難病とはいえ,今の世では早すぎた死であった.私も昔からよく知っている人であった.
 数年前,その母親が,よく知られた若い女性たちが嬌声をあげて群れ騒ぐようなスター歌手にいれあげている,「恥ずかしい話で誰にもいえないことだけど,ファンレターはしょっちゅう出すし,近くに公演があれば花束を持っていくし,相手は20代,本人は70代というのに」という相談をうけた.その4,5年前に夫に先立たれ,4人の子どもたちはそれぞれに所帯をもって遠く離れており,一人暮らしの母親であった.
 しばらくたってからの話で,それには裏があり,隣に住んでいる女性の勧めでファンクラブに加入し,手紙を出すのも,歌手からの返事がくるのも,贈り物をするためにお金を渡すのも,すべてその女性経由であったという.「結局は騙されているらしいのだが,母親本人が信じ込んでいるから,どうしようもない」とのことであった.たとえ騙されていたとしても,いくつになってもそのような憧れや恋心を抱くのはいいことではありませんかと,無責任にも私は感想を述べたものである。
 その母親の死であった.死後子どもたちが実家に戻り,荷物を整理したところ,山ほどのカセットテープやレコードがあり,それに加えて数多くの書き残しの手紙と日記がでてきたという.その手紙や日記は,あの「恋しい,恋しい」調の,まともであれば顔を赤らめずしては読めないような類のものだったらしい.「日記には子どもたちのことは何も書いてなくて,その歌手のことばかり.これが自分の母親かと思うと情けなくなって」とは,娘の嘆きである.難病になって,子どもたちは身も細る思いでの看病だったのに,御本人は若きスターにいれあげ続けていたと,嘆きを通り越して●然(あぜん)としている.

 しかし,身内でもない私は,いささか醒めている.娘のいうように,情けない話といって非難してしまえば済むものであろうかと,その母親に肩をもつ.
 なぜ,そのようなことになったのかと,その●然(あぜん)としたことの背景に思いをいたすべきではないだろうかという思いが私にはある.
 おそらく,その母親がこの数年感じ続けた,寂しさや孤独の気持ちが,その歌手への憧れをよび起したのであろう.長年連れ添った夫と死別し,子どもたちや孫たちともほとんど交渉のない日常の生活にあって,そして自らも老いや死を切実に感じるようなときになって歌手や映画スターのプロマイドをもち,ファンレターや恋文を書いて,幻想の世界に入り込み,自らの孤独を癒そうとしたのではあるまいか.実際に現実の人間を相手に老いらくの恋をするほどの状況ではなかった.
 単純な割り切りかたは事の真相を覆い隠すとしても,老人の場合,われわれの目からみたら奇妙な,常識では考えられないような行動でも,その背後にひそむ「老いの孤独」を理解することによって,納得しうることが少なくない.

 近く本誌では,「老いと死」をテーマにした特集を企画している.老いや死のイメージは時代や地域によってさまざまであるが,1991年という現代の日本では,エリアスのいうように,孤独が1つのキー・コンセプトであるという立場を,特集では明らかにしてみたい.

※●は口へんに亞
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1991/2 老年精神医学雑誌Vol.2 No.2
「痴呆」の理解をめぐって
清水  信
東京慈恵会医科大学精神医学教室助教授
 数年前,ドクター対象のある講演会の講師をしたときのことでる.講演を終わって質問をお受けしたとき,かなり年配の方が質問に立たれた.その内容は質問というより,「あなた方は痴呆という言葉をよく使われるが,これは差別用語である.別の言葉を使うべきだ」というような意見であった.私は咄嗟の事で返答に困ったが,痴呆という言葉は標準的な学術用語であってけっして人を侮って使う言葉ではないし差別用語というのは当たらない,という意味の返事をした.そして,「痴呆」という言葉がこうしたニュアンスで使われることもあるのかと内心驚いた.言葉というもののもつ怖さを改めて感じさせられる思いであった.
 言葉は生き物である.純粋に学術用語として定義され,使われていたものが,情報化社会のなかで広がり,いつの間にかいろいろな色彩を帯びるようになる.たとえ,何かもっと耳ざわりのよい別の言葉をつくったところで,年が経てば意図とは別のイメージを与えるようになってしまうであろう.
 痴呆は病気である,不幸にしてこのような病になった場合にも当人には何の責任もないし,病になる以前の行いや人格に問題があったためでもない,という当然のことがよく理解されていないところでは前に述べたような問題が起こってくる.痴呆という言葉のもつ正しい意味を人びとの間に広めることができればこういう不都合も起こってはこないであろう,と考えられる.
 しかし,これはけっして簡単なことではない.昔,人は疫病を恐れた.結核が人びとの間で忌み嫌われていたのはつい最近のことである.このような歴史的な経験を考えると,ある病が,「なぜ起こるか,どうすれば予防できるか,治療はできるか?」といった疑問が解け,ある程度の安心が得られるまでは,人はその病気を知的に捉えようとせず,感情的な反応を示す傾向があるといえる.
 近年のアルツハイマー型痴呆に関する分子生物学などの進歩には目をみはる思いがある.今のペースで解明が進めば,発病のメカニズムが明らかになるのも遠い将来のことではないかもしれない.もしある程度の解明が得られれば,痴呆に対する世間の誤解も少しずつ解けてくるに違いない.
 痴呆の症状に関連して一般の人に説明するときに感ずるのは,年をとったら誰でも痴呆になると誤解している人たちが少なくないことであるこれは,知的機能の低下という痴呆の中心的な症状が普通の病気の症状とはひと味違って,生理的な老化特別の困難な段階があるためでもあろう.この問題は従来,V.A. Kralの良性健忘,悪性健忘という概念によって説明され,学問的にはいちおう性質の異なるものと考えられてきた.しかし,痴呆についての基礎的・臨床的研究が進むにつれて最近ふたたびこの問題が問い直されようとしている.
 過去に,K. BeringerとR. Mallison(1949)によってVorzeitige Versagenszustand(早発ぼけ状態)として提起されたこともあるこの中間的な状態について,近年T. CrookらのNIMHの研究グループがAge Associated Mental Impairment(AAMI)と名づけて精力的な研究活動を行っていることは長谷川教授の紹介に詳しい(老精医誌,1(1),1990).現在のところ,この概念にはまだ曖昧な点があり,確立されたものではないが,アルツハイマー型痴呆と正常老化の間の区別が従来に比べて不明瞭になりつつあるとは言える.松下教授も最近,臨床的・神経病理的な観点からこの問題について同じような見解を述べられている(Brain Medical,2(3),1990)(ただし,このことは逆に病因としての異常老化説を支持するものであると説かれている).この種の仮説が今後どのような展開をみせるか,予想することは難しい.痴呆学の奥はまだまだ深いようである.最近,患者さんの家族に向かって「痴呆は病気ですよ」というとき,私の声ははっきりしてはいるものの,以前より多少トーンが低くなっているかもしれない.
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1991/1 老年精神医学雑誌Vol.2 No.1
老人患者と行動パターン
大塚俊男
国立精神・神経センター精神保健研究所老人精神保健部長
 精神神経科の医局に入局1年後の5月に初めてパート生活が許され,精神病院に週2日勤務するようになった.そのころに起こった出来事で,いまでも忘れられないことが2つある.
 その1つは,ある病院に勤務した初日がちょうど病院の患者さんたちの遠足の日で,引率者として行くようにいわれ同行したときのことである.患者さんたちをみての私の第一印象は(精神科医の経験が浅かったためであると思うが),この人たちは特別に具合が悪そうでもないのにどうして精神病院に入院しているのだろうということであった.車中でもなぜだろうと,そのことを考え続けていた.現地について,2列縦列で患者さんを連れて湖畔を散歩した.ちょうどそのとき,大人の集団が前方から歩いてきた.彼らをみたときに,ハッと私の連れている患者さんたちのおかしいことに気づいた.歩きながら楽しそうに話をしているその集団の姿と比較したとき,患者さんたちの表情にしろ,態度にしろ,何と精気のないことかという印象を強く受けた.だからこそ,いまだ社会復帰ができないのだと……….
 もう1つは,勤務して1か月ぐらいたった頃のことである.自分の担当の病棟の主任看護婦から「先生,Aさんの具合が悪いようですから,診察していただけませんか」といわれた.さっそく分裂病のAさんを診察室に呼んで,幻覚があるか,妄想があるかとかの異常体験の有無を根掘り葉掘り型どおり問診した.しかし異常体験はまったくないようなので,「もう少し経過をみてください」と伝え,とくに処置はしなかった.数日後病院に行き病棟に入ると,Aさんが保護室に入っており興奮状態であった.主任の看護婦から「先日,先生に診てくださるようお願いしたのに,処置をしてくださらなかったので,Aさんは具合が悪くなってしまいました」とやや皮肉まじりの声が返ってきた.看護婦は,異常体験の有無より,むしろ患者さんの日ごろの言動を注意深く観察し,Aさんは他の患者さんにやたらと干渉し始めると間もなく具合が悪くなる,というように,それぞれの患者の言動,とくにその行動パターンから状態の変化をいち早く見抜いていたことに気づいた.Bさんはいつでも具合が悪くなると,裸になり,Cさんは大声を張り上げたりする.これは分裂病そのものの病型に基づくものなのか,それともそれぞれの患者の性格や行動に結びついたものなのか,ここでその成因について考察するつもりはないが,ただいえることはそれぞれの患者に一定の行動パターンがあることだけは確かなようである.
 言うまでもないが,健康なわれわれでもそれに類似したことはみられる.それぞれの人の行動には,よく観察していると一定のパターンがあるようである。とくにそれが顕著となって現れるのは,その人が危機状態に陥ったときや追い詰められたときである.その危機より逃れなければならないときに,その人がとる行動パターンは,子どものころと根本的なところでそう変わらないように思われる.
 高齢化社会を迎えたわが国で,痴呆の患者が著しく増え,その対応にわれわれも苦労しているが,痴呆に対する根本的療法がない今日では,ケアが中心とならざるをえない.痴呆患者のケアに関しては,実際のケア体験からいくつかの示唆ある留意点が述べられている.その1つに,痴呆性老人のケアでは,その老人の反応様式や行動パターンを把握し,それに対処することがよいといわれている.
 精神科医はとかく精神障害者に対して,妄想があるか,幻覚があるか,思考がどうの,感情はどうのと,どうしても精神病理学的な面からながめすぎるように思われる.確かに治療を考えるとき,それらを無視することはできないが,その患者の精神状態の安定やケアのあり方を考える際には,行動パターンを十分理解することが必要であろう.その患者の生活史を通して築かれた性格,行動パターンは,健康な状態時でも,また病的な状態時においても,それぞれの患者に特有な一定パターンをもって現われてくるように思える.
 痴呆患者を含めて,これから増加する老人精神障害の治療やケアは精神病理現象にのみとらわれず,ひとりの人間としてどんな行動パターンをもっているかを十分理解し接してゆくことが,適切な治療やケアにとくに大切なように感じられる.
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